Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

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American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Monday, September 18, 2006

Mark 16:8

"For They Were Afraid"

素直に嬉しいこと

AAR/SBL のこの秋の年会(American Academy of Religion/Society of Biblical Literature 2006 Annual Meetings, November 18-21, 2006, Washington DC)で、6月に出た私の本が議論の中に登場する。

SBL の1セッション "Mark Group: The Resurrection of Jesus and the Ending of Mark" (S20-24=9:00 am -11:30 am) の中で Duke University の若い学者が彼の持論のサポートのために我が著書を取り上げると e-mail が入った。早い反応で嬉しかった。

マルコ伝がどこで本来終わっていたかは、実に長い論争があり、今でも上記の如く一つの部会ができるほど重要な問題と理解されている。16章8節の「彼らは恐ろしかったからである。」が、確認できる限り古い終結部分(ending)というのが多数派の見方であるが、それでさえ、福音書記者(マルコまたはマルコに擬せられる誰にしろ)の意図した終わり方なのかどうかで意見がまた分かれる。これらの議論では、古写本の本文の比較から、マルコ伝全体の脈絡、更に当時の歴史的事情まで検討されなければならない。

2003年発行の N. Clayton Croy 著 "The Mutilation of Mark's Gospel" (Abingdon Press) は、初めの手書き本が何らかの理由で切除(mutilate)されたとの仮説を主張している。こういった仮説は Croy に始まったことではないが、彼の場合、終りの部分だけでなく、初めの部分も切除されたと主張し、非常に話題となった。Duke 大学の若い学者は、この Croy の説に異議を唱えているらしい。6月に出た私の本も、逸早く数ページを費やして古代の出版事情等を根拠に Croy を批判しているから、この会議で引用されることになったわけだ。ということは、私自身もこの場で批判されることになろう。それはそれでいい。私の Croy 批判が正しいとは限らない。議論の対象にしてもらえるだけで素直に嬉しい。

ところで私の本だが、LC(Library of Congress いわゆるアメリカの国会図書館のことで日本語の定訳は「議会図書館」、アメリカで出版されたものは全てここに入る)のオンライン・カタログで "Waterman, Mark" と著者名を入れると出てくる。自分でも不思議なのだが、LC にある本で Mark Waterman という著者はいまのところ私しかいない。Mark という名も Waterman という姓も少しも珍しいものではないのに、Mark Waterman という名でアメリカで本(薄いパンフレット等は除く)を書いている人は私しか(今のところ)いないのだ。(なお、私の日本語の本は別の名前で出版したが、近刊書のMark Waterman はペンネームではなく本名だ、念のため。)

MWW

Daily Pressure

The Daily Pressure upon Me of Concern for the Future of Japan

アメリカを祖国(Vaterland)と意識していても、私にとって日本が母国(motherland)であることに変わりはない。

このブログの開設に当たって記したように、この夏、ある事情から、特に日本の宗教学あるいはキリスト教学を話題とするブログに度々お邪魔した。お邪魔するにあたっては、「です・ます調」でなるべく注意深く言葉も選んだつもりだが、ここは謂わば我が家であるから、正に徒然なるままに、「だ・である調」で脈絡無視かつ時にはヤクザな表現も交えて日々の感想を述べて行くつもりでいる。

日本に向けては、当然、これから日本語で書く訳だが、誰かと専門的議論になった場合、相手が誰であれ英語になるかもしれない。(しかし、自分は相当な日本語書き=自信過剰=とも心得ているので、極力日本語で応ずる。)私は、日常会話は未だに日本語が楽であるが、近頃いただいた日本語の新約学の雑誌論文別刷を読んでみて、読むのに非常に困難を覚えた。私の書棚の専門書も、図書館で読む専門書も、ほとんどが英語であり、日本語のものはほとんどなく、日本語はドイツ語の本はおろかフランス語の本よりも少ない。これが理由の一つかもしれないが、もっと本質的な別の理由がある気がする。いくつか、明日の私の一日に差し支えない程度で(床に就く前の暫し)述べてみる。

ドイツ語というのは、日本人にとっては実に便利な言葉のようだ。ドイツ語の造語力が日本語の(実は漢語の)造語力に反映して、難しい漢字が脈絡なく並ぶ。脈絡なくとはこういうことだ。日本語で(ドイツ語でも)二つの言葉を結合して一つの新しい学術用語を作った(訳した)場合、並列なのか、主語・述語の関係なのか、主語・目的語の関係なのか、あるいはそれ以外の関係なのか判断に苦しむことがある。もっとも英語も同じかもしれない。安易に of を多用する英文著者は、主・属・対・与・同などの文法上の格が元々不明になっているから、日本語でも単に「の」と訳されてしまい脈絡があいまいになる。(この私の言っている議論が分からない翻訳家がもしいたら失格だぞ! その人は横のものを縦にするだけの機械翻訳家だ。)例えばだが(故人の例で申し訳ないが、やはりこの夏、部分的に目を通したので)滝沢克己の日本語が分かる人は、かなりドイツ語ができてかつ滝沢並みの頭脳の持ち主だろう。滝沢の遊び相手の全共闘的観念的高踏的ご高説の雰囲気は分かるが、正確な意味は、私には(私の頭では)よく分からない。もちろん、ある宗教に帰依し一つ一つの言葉に纏わる文脈を習得した者がその宗教のメッセージを理解しうるように、滝沢教に帰依し奉れば別かもしれない。

非常に権威主義的で、自分で調べようとしない。少なくとも元にあたる手間を省いている。だから、別刷を読んでいて議論の飛躍に翻弄される。これは、日本の(あるいは日本語の)若い宗教学者(あるいはその卵)のブログを読んだときもしばしば感じたことだ。もちろんブログという性質上、正確な文献を注記する余裕もないし、日記である性格上そこまで求めるのは酷であることは認める。しかし、それでも読んだ別刷(これは学術文献そのものなので情状酌量の余地なし)に共通する権威主義的文章を幾つか読んだ。例えば(これは新約聖書学の極狭い議論なので、関係者以外には暫し御免)、Q資料とQ集団(あるいは共同体)とか前マルコ資料とマルコ共同体などと無批判で議論を進めている。鬼の首でも取ったように「Qではこうだから」などというので文献注をみると S. Schulz の文献一つで済ましている。オイオイオイ、Qと言ったって色々あるぞ。 B.H. Streeter はどうだったんだ。IQPは? 大体、これは仮説なんだから必ず異論の著作がある。その双方の議論を紹介した上で、あなた自身の議論を(できれば自身の本文批判も入れて)しないで、いきなり結論を出だされても「はい、そうですか。」とはとても言えない。

そんな訳で(あるいはその延長なのか)、何々論的キリスト教とかに出会っても、私の軌道とは合わない(outside of my orbits)気がしたし、キリストやキリスト教と何の関係もないキリスト教「系」神学に至っては、私の時空とは隔たっている(far away beyond my time and space)感があった。

私がした諸々のコメントの中には、日本の義務教育や日本の大学院教育に関わるものも少なくなかった。上記のことと合わせて考えてみると、大方の日本人の認識と私のものとは別で、日本は考えることの教育は悪くないのかもしれないが、知識教育をないがしろにしている印象を持った。正確な知識(データ)に基づかない議論は、口先だけの議論になって中味がない。また、そういった議論が議論であると思っている節があった。裏腹な言い方になるが、自分と同じテーマの専門家は世界で数人あるいは多くても数十人と思ったほうがいい。だから、同業者を相手にしても、説明はなるべく親切であるべきだ。例えば聖書を引用するに際し、ヘブル語あるいはギリシア語は一部必要なところを誰にでも分かるように説明(あるいは翻訳)付きで引用すればいいのに、全文説明なしで原文を引用するのは実はおかしなことであることに気が付いていない。これも実は正確な知識の欠如から来るのではないかと思う。そういった人に限って、大事な異本(違う本文の写本)についての言及が欠けていたりするからだ。

日本流の宗教学・宗教史学、哲学と歴史学、平和や政治、更にジャーナリズムにまで口出しをした。今の自分の専門は神学と聖書学と公言することにしているが、口出しした中には昔取った杵柄もあり、ついつい余計なことまで言ったし、ご専門の方から見れば幼稚なことや初歩的なミスもあったと思うが(ないほうがおかしいか)、全ての小言は(所詮小言ではあるが)日本が私の愛する国でもあることからくる。政治的にはアメリカが祖国であっても(一旦事があれば銃を持って守れと言われている国)、生まれ育った国を愛さないでいられようか。

諸君、今日はこれまでにする。妻が心配して「いつまでも遊んでいないで早く寝なさい!」と言っている(ナンチャッテ♪)。

MWW