Ens et Esse: Dietrologia or Behindology
このエントリーは、この直前のエントリー "Quick Responses to the Recent Comments" に対する再コメントが長くなったので、独立のエントリーとしたものです。議論の元からご覧になりたい方は、そこからお読みください。(その議論の先、またその先と行くと、際限がなくなるかもしれませんのでご注意ください。)
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(今日のみことば)
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どう言ったらいいだろうか。まず、絵解きから行きましょう。
ラテン語の ens とかesse は、いずれも辞書の見出し語になっている sum の変化形で、辞書には載っていません。Sum は1語ですが、これだけで I am の意味です。だから、デカルトの「我思う故に我あり」は Cogito ergo sum。
それでは、ens と esse は何かと言うと、ens は現在分詞ですから英語の being に当たり、esse は現在不定詞ですから to be でしょうか。どちらも、言葉としては、私個人の存在 sum (すなわち I am) のことでも、あなたの存在 es (you areただし単数のyou) のことでもなく、存在一般ということです。乱暴に言えば(いや乱暴でなくても)、ens も esse も「存在」ということにすぎません。
むしろ中世的な解釈では ens を存在「者」と言ってしまうと、あなたや私、つまり個別の存在者のことであり、神ではありません。神とは特別な存在ですから、存在そのものが本質 (essentia) の存在 (esse) であり、自己が存在の原因 (ens a se) なのです。
後世、存在あるいは存在者を認識論の領域で扱うか超領域 (transcendental または超越論的、存在論的) で扱うかの言葉遊びは、Martin Heidegger 辺りになると ontologische Differenz (存在論的区別)と称して ens と esse を明確に区別してくる。(on はギリシア語で存在。)この男は、Ontik などという言葉を作ったり、ontisch と ontologisch を区別してみたりして遊ぶのだ。
さて、「トマスの真意は何か」という問題ですが、そんなことは誰も分かりません。あがるまさんが考える通りかも知れません。そうでないかも知れません。史的イエス論で、「イエスがメシアであると意識していたか」という問題領域がありますが、(私の考えでは)最も実りのない領域です。
何かの行動の裏に何かあるのか、という学問が behindology だそうです。勿論、冗談の学問だと思いますが、心理学者などは好きですからね。そのイタリア語が dietrologia だそうです。なお、私はイタリア語は分かりません。Charles E. Carlston (チャールストンじゃないよ)という人の史的イエス論の中にあった言葉です。