New Books and Old Books
新しい本と古い本
今日ピアスン先生(Birger A. Pearson)の新刊とペーパーバックになった古い本がアマゾンから到着した。ハーフタイトルページに Mark Waterman と署名し、タイトルページは著者に会ったとき署名してもらうためにとっておく。これが私のミーハー式署名法。著者の署名など欲しくない本は、タイトルページに私の名前を署名してしまう。
ピアスン先生の新しい本は既に紹介した Ancient Gnosticism で、珍しく脚注のない本だ。なんでも、奥さんの Karen さんでも楽に読めるように努めたらしく、高校の教科書みたいな体裁だ。これを使ってグノーシスの授業をするなら楽だぞと思っている神学部の教師もいるかもしれない。それほど丁寧にグノーシスの全歴史が記述されている。これを読めば、グノーシスは虐げられたキリスト教の本流であるなどとの俗説が、いかに馬鹿げているか一目瞭然だ。
夕食後にざっと目を通しただけでも、今回が初耳のこともいくつかあった。まず、現代のグノーシス教会というのがちゃんといくつか存在するのだ。ただし、古代のグノーシスとはいずれも歴史的な関連性はない。むしろ、グノーシスという言葉が一部の人に何となく魅力的に映った頃に生まれた、新しいカルト的集団である。ピアスン先生は、それでも直観的信仰に重きを置くことは、古代のグノーシスと共通しているかもしれないと語っている(341)。また、東部で生まれ東部のスウェーデン系大学に通ったピアスン先生のカリフォルニアとの関係は、ハーヴァードで学位を得た後、UCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)に来たのが始まりと思っていたが、カリフォルニア州バークリー市にあるルーテル神学校に学んだときからだそうだ。ハーヴァードに行く前である。そして、その初めの神学校時代、すなわち今からほぼ45年前に、コプト語テキスト付きの『トマス福音書』(ライデンのブリル版、1959)を初めて目にしたらしい。先生のコプト語アルファベットとの初対面である(xi)。
もう1冊は、同じくピアスン先生の Gnosticism, Judaism, and Egyptian Christianity だが、嬉しいことに懐かしいハードカヴァーと同じ色同じデザインだった。これを参照するのに、図書館にいちいち行く必要がなくなったことも嬉しい。こちらは、見るからに専門書だから、奥さんの Karen は読まないのだろうか。たぶん読まないこともないだろう。
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別の新本古本の話題だが、近頃、レヴィナス(Immanuel Lévinas)をめぐって、内田樹氏に対して、随分と乱暴なことを分家のブログでやらかしてしまった。しかし、実際にそのとおりだと思っているし、彼の高い本2冊(まだ私が何も言っていないもう1冊は、誰かと共著で内田氏がラカンを担当した本だ)を買って落胆することこの上なかったことも悪口雑言となってしまった原因なのだ。
まず、私はラカン(Jacques Lacan)などというペテン師はもともと大嫌いである。時々、内田氏がブログでラカン、ラカンというので、この人はどうしたの、と思ったものだ。私が彼のブログへのコメントで、ラカンなんて言ってると怪しくなるよと置いてきたことを記憶している方もいるだろう。その頃は、内田氏がこれほどラカンにコミットしていることは知らなかったのだ。(何しろ内田氏の本など読んだことはなかったのだから。)
レヴィナスの解釈だってそうだ。あれほどお粗末だとは。しかし、後で考えてみたら、ひょっとして脳足りんのポワリエ(François Poirié )の通俗解説でも参考にしているのではと思ったら、当たり! 『暴力と聖性』などという書名になっているので気づかなかったが、これこそポワリエではないか。ケンちゃんの出鱈目聖書案内のときと同じで、汚いぞ日本の出版人! 思ったとおりのネタばれ知識。ああーあ。
ところで、年がばれるので余り詳しくは言いたくないが、内田氏ほどコミットしているわけではないが、実は私もレヴィナスとの付き合いは古いのだ。彼の名を知ったのはいつだと思う、諸君。私が始めて大学というところで論文を書いているときだ。フッサール(Edmund Husserl)の学問の基礎付けないし認識論の研究の過程で、彼の『デカルト的省察(Cartesianische Meditationen)』で卒論(学士)を書いた。主テキストは1950年初版の Husserliana 第1巻(ここに本書が納められた)だが、図書館の本を汚しすぎる気配がしたので、自分で高価な本だが注文した。上品で素晴らしい装丁の本だった。初期のHusserliana の製本は素晴らしい。私の博士の学位論文の出版に当たっては、あの体裁に似せるようにお願いしたほどだ。しかし、事情があって、今その私のHusserliana Bd. I は手許にない。
そのようなわけで、私の大昔の学士論文はフッサール自身が決定稿としたドイツ語本文を対象テキストにしたのだが、英訳本などを参考にするほか、『デカルト的省察の』最も古い出版物であるフランス語のテキストも参照した(←碌に読めはしなかったのだが)。なぜなら、『デカルト的省察』は、フッサールがパリで講演した際のテキストが元であるから、そのときのドイツ語がフランス語に訳されていたのである。初版は1931年で、拡張版のドイツ語本文より随分と前のことになる。
さて諸君、その仏語への、二人いる訳者の一人が若きレヴィナスなのだ。フッサールに関しては、内田氏より私のほうがコミットしているが、内田氏のようには私はレヴィナスにコミットしていない。しかし、このときのレヴィナスが今有名なレヴィナスであることを知り、ずっと(主に英訳を通して、ちゃらんぽらんんにだが)注目していた。そんな私とレヴィナスの古い関係なのだ。
ところで、レヴィナスでさえ、フッサールの「生活世界(Lebenswelt)」という概念を知りつつも理解に至らなかった節がある。内田氏が、ユダヤ・キリスト教の「心の習慣(Robert N. Bellah)」ないし私が名付けるところの「思考の文法」の備えなくして、深い理解に至るのは無理か。一生懸命日本語に訳し、広めてくれているだけでも多としよう。だいたいね、翻訳屋は翻訳屋で、学者ではないのだ。
お知らせ
久保教授関連でコメントをくださった anonymous さん、
教会に行く前で忙しかったけど、ちゃんと返事してますよ。読んでおいてください。
http://markwaterman.blogspot.com/2007/08/white-paper-on-faculty-of-letters.html