Geehrter AGARUMA
A Dialogue between
Geehrter AGARUMA and Dr. Waterman
(To be continued? Probably!)
皆様、
このエントリーをご覧になる前に、9月27日の"Quest for the Historical Jesus"というエントリーに対する5つのコメントを先にお読みいただければ幸いです。あがるま様との対話の続きになっています。
あがるま様
小プリニウスやヨセフス、あるいはタキトスにほんのちょっと出てくる資料だけで、他は思弁と高邁な理屈をこねくり回しているのが、私の大嫌いな「神学」です。
史的イエスあるいは史的イエス論は、哲学ではなく、まさに先生のおっしゃる日進月歩の「技術的」な学問です。
(日本語で「論」を付けても付けなくても同じです。論とは理論ではなく、その研究分野ということです。)
Bruno Bauer が持っていた資料よりもはるかに膨大な資料(文献と考古学)と科学技術の助けを得て、史的イエスの研究がなされています。今では、ある意味では初めからそうなのですが、キリスト教起源の問題や、初期キリスト教史、あるいは第二神殿時代(バビロン捕囚からヘロデ大王すなわちイエスの時代まで)の研究とからみあってきています。従って、史的イエス研究は、ナザレのイエスの地上の生涯までという枠組みも、今では生誕前と復活伝承まで含めてもっとゆるくなっています。言い方を変えると、よりダイナミックになっていると言えます。
この仕事をしている人達は、「イワシの頭の信仰」すなわち「実存主義的ナンタラカンタラ」とかでは満足できない人たちです。(ひょっとしたら、あがるま様と同じではありませんか。納得しなきゃ信じない。でも、「たーだ信ぜよ~お♪」というのも、オレは意外と好きなんだナー。)
誤解を恐れずに、ごく大雑把な比喩で言えば、プラトン的思弁者ではなく、アリストテレス的実学者と言えます。ボンヤリと神のことを思ってああでもないこうでもないといった妄想的思弁というより、セッセセッセと作業をするタイプです。だから、何か言うなら、証拠を見せろ証拠を見せろというのが、史的イエスの研究家です。もっとも、証拠をどのように解釈するかという、主観から完全に独立しているわけではありませんから、彼らの多くは、方法論にも一家言ある者がほとんどです。
実際の仕事を、何か一目で分かるものをと探していましたら、期せずして私の写真に二つ写っていました。私の写真はクリックオンしていただくと拡大して見ることができます。髪の毛一本一本さえ分かるはずです。新しい訪問者は、左にある見出し9月13日(最初のエントリー)の My friends, I'm here をクリックオンしてみてください。出てきます。
私の頭部の向かってすぐ右上に
A
Marginal
Jew
と書かれた分厚い本3冊が見えるでしょうか。John P. Meier というカトリックのイエズス会の学者で、非常にトミスト的(Thomas Aquinas から出たこの言葉通りプラトンというよりアリストテレス的精神構造または性癖?!)な方法で作業しています。現在3冊までで2500ページありますが、完結していません。
次に、写真の右下に同じく3冊の分厚い本があり、1冊は縦に JESUS と書いてあります。(その上に同様に JESUS と見える付箋の付いた1冊の本がありますが、それではありません。これは、後で説明します。)この3冊の本の著者は、N.T. Wright という英国国教会の神学者でオックスフォードで教えていました。彼の Christian Origins and the Question of God シリーズの3冊です。同じく合わせて2000ページほどありますが、完結していません。N.T. Wright は、我が師など仲間内でミドルネームの Thomas から「トム」と呼ばれて親しまれていますが、私らはそれでは失礼なので Dr. Wright と言っています。
さて、その上の別の付箋の付いた JESUS ですが、これは一昔前のオランダの学者で、Edward Schillebeeckx が書いたものです。(舌を噛む名前で、いつも発音するたびに噛んでいます。皆さんもローマ字通りの発音ですから発音してみてください。ほらね、大変でしょう。)彼は、地上のイエスと昇天のキリストを厳然と分けて考察する時代を反映し、姉妹本として別に CHRIST も書きました。同じ厚さの本で私の同じ書棚にあるのですが、写真には写っていません。さて、付箋に何が書いてあるかというと、参照するページを忘れないように私がメモして本に貼り付けたものです。(ねっ、前の研究も必要に応じて取り出しているでしょう。)
以上の3人は、「史的イエス」研究のほんの一例ですが(Meier と Wright は現役)、ともかく馬力がある。かないません。彼らはブルドーザで掘り返しており、私は小さな移植べら。それでも、私の近刊書は150,000 words の量です。(量じゃないよ、中味だよっ! 分かってます!!)
ところで、ナザレのイエスが実在したか?
実在しなかったと考えるのは、1+1=2という普通の考え方で生活していない人です。私の300年前の祖先の一人より、歴史上の人物であったことの証拠は確実です。ただ、どんな人だったのか、どんな生涯を送ったのか、何語と何語を話したのか、本当に生き返ったのか、等々、具体的な研究が必要なのです。(釈迦や孔子やモーセやプラトンやモハメッドが歴史上の人物と考えない人なら、イエスもそうだとは考えないかも知れませんね。)
しかし、イエスは歴史上の実在の人物に違いないとしても、大事なのは歴史に与えたインパクト(今に至る歴史的衝撃)です。イエスのこのインパクトだけでも、信仰の有無、信仰の内容とは別に、研究の価値ありと思う人々がいるわけです。このインパクトを Wirkungsplausibilitaet (ae はa ウムラウト)と名付けて信憑性の指標としたのは、ドイツの現役史的イエス研究家 Gerd Theissen (ss はエスツェット)です。この方は日本でも有名でしょう。
今回もコメントと対話ありがとうございました。
MWW
Geehrter AGARUMA and Dr. Waterman
(To be continued? Probably!)
皆様、
このエントリーをご覧になる前に、9月27日の"Quest for the Historical Jesus"というエントリーに対する5つのコメントを先にお読みいただければ幸いです。あがるま様との対話の続きになっています。
あがるま様
小プリニウスやヨセフス、あるいはタキトスにほんのちょっと出てくる資料だけで、他は思弁と高邁な理屈をこねくり回しているのが、私の大嫌いな「神学」です。
史的イエスあるいは史的イエス論は、哲学ではなく、まさに先生のおっしゃる日進月歩の「技術的」な学問です。
(日本語で「論」を付けても付けなくても同じです。論とは理論ではなく、その研究分野ということです。)
Bruno Bauer が持っていた資料よりもはるかに膨大な資料(文献と考古学)と科学技術の助けを得て、史的イエスの研究がなされています。今では、ある意味では初めからそうなのですが、キリスト教起源の問題や、初期キリスト教史、あるいは第二神殿時代(バビロン捕囚からヘロデ大王すなわちイエスの時代まで)の研究とからみあってきています。従って、史的イエス研究は、ナザレのイエスの地上の生涯までという枠組みも、今では生誕前と復活伝承まで含めてもっとゆるくなっています。言い方を変えると、よりダイナミックになっていると言えます。
この仕事をしている人達は、「イワシの頭の信仰」すなわち「実存主義的ナンタラカンタラ」とかでは満足できない人たちです。(ひょっとしたら、あがるま様と同じではありませんか。納得しなきゃ信じない。でも、「たーだ信ぜよ~お♪」というのも、オレは意外と好きなんだナー。)
誤解を恐れずに、ごく大雑把な比喩で言えば、プラトン的思弁者ではなく、アリストテレス的実学者と言えます。ボンヤリと神のことを思ってああでもないこうでもないといった妄想的思弁というより、セッセセッセと作業をするタイプです。だから、何か言うなら、証拠を見せろ証拠を見せろというのが、史的イエスの研究家です。もっとも、証拠をどのように解釈するかという、主観から完全に独立しているわけではありませんから、彼らの多くは、方法論にも一家言ある者がほとんどです。
実際の仕事を、何か一目で分かるものをと探していましたら、期せずして私の写真に二つ写っていました。私の写真はクリックオンしていただくと拡大して見ることができます。髪の毛一本一本さえ分かるはずです。新しい訪問者は、左にある見出し9月13日(最初のエントリー)の My friends, I'm here をクリックオンしてみてください。出てきます。
私の頭部の向かってすぐ右上に
A
Marginal
Jew
と書かれた分厚い本3冊が見えるでしょうか。John P. Meier というカトリックのイエズス会の学者で、非常にトミスト的(Thomas Aquinas から出たこの言葉通りプラトンというよりアリストテレス的精神構造または性癖?!)な方法で作業しています。現在3冊までで2500ページありますが、完結していません。
次に、写真の右下に同じく3冊の分厚い本があり、1冊は縦に JESUS と書いてあります。(その上に同様に JESUS と見える付箋の付いた1冊の本がありますが、それではありません。これは、後で説明します。)この3冊の本の著者は、N.T. Wright という英国国教会の神学者でオックスフォードで教えていました。彼の Christian Origins and the Question of God シリーズの3冊です。同じく合わせて2000ページほどありますが、完結していません。N.T. Wright は、我が師など仲間内でミドルネームの Thomas から「トム」と呼ばれて親しまれていますが、私らはそれでは失礼なので Dr. Wright と言っています。
さて、その上の別の付箋の付いた JESUS ですが、これは一昔前のオランダの学者で、Edward Schillebeeckx が書いたものです。(舌を噛む名前で、いつも発音するたびに噛んでいます。皆さんもローマ字通りの発音ですから発音してみてください。ほらね、大変でしょう。)彼は、地上のイエスと昇天のキリストを厳然と分けて考察する時代を反映し、姉妹本として別に CHRIST も書きました。同じ厚さの本で私の同じ書棚にあるのですが、写真には写っていません。さて、付箋に何が書いてあるかというと、参照するページを忘れないように私がメモして本に貼り付けたものです。(ねっ、前の研究も必要に応じて取り出しているでしょう。)
以上の3人は、「史的イエス」研究のほんの一例ですが(Meier と Wright は現役)、ともかく馬力がある。かないません。彼らはブルドーザで掘り返しており、私は小さな移植べら。それでも、私の近刊書は150,000 words の量です。(量じゃないよ、中味だよっ! 分かってます!!)
ところで、ナザレのイエスが実在したか?
実在しなかったと考えるのは、1+1=2という普通の考え方で生活していない人です。私の300年前の祖先の一人より、歴史上の人物であったことの証拠は確実です。ただ、どんな人だったのか、どんな生涯を送ったのか、何語と何語を話したのか、本当に生き返ったのか、等々、具体的な研究が必要なのです。(釈迦や孔子やモーセやプラトンやモハメッドが歴史上の人物と考えない人なら、イエスもそうだとは考えないかも知れませんね。)
しかし、イエスは歴史上の実在の人物に違いないとしても、大事なのは歴史に与えたインパクト(今に至る歴史的衝撃)です。イエスのこのインパクトだけでも、信仰の有無、信仰の内容とは別に、研究の価値ありと思う人々がいるわけです。このインパクトを Wirkungsplausibilitaet (ae はa ウムラウト)と名付けて信憑性の指標としたのは、ドイツの現役史的イエス研究家 Gerd Theissen (ss はエスツェット)です。この方は日本でも有名でしょう。
今回もコメントと対話ありがとうございました。
MWW