Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

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American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Tuesday, November 14, 2006

Between the Scylla and the Charybdis

悪魔と深海の狭間

今日は体の調子がよくいくつかの仕事ができた。何でも食いたいから直ったのだろう。こうなると食べ過ぎて太るのが困る。いつもは避けているラッシュの時間帯に Pasadena から110 号線で自宅に向かったところ、LA downdown から 101号線に分かれるほんの少しのところで 30 分もかかってしまったから、空腹を覚えて困った。普通は20分の道程が今日は1時間かかっている。

タイトルを牧師の娘(だから大変)の細君の奨めでなるべく(強引にでも)聖書からにしているのだが、昨日はテレビのコマーシャルからで情けなかった。今日は「あがるま」さん好みのオデュッセウスの冒険譚からだから少しはましかもしれない。しかし、この言葉、昨日紹介した故 Funk 先生による辛口の Bultmann 評の中で使われていたのだ。

一難去ってまた一難。Hades (冥界)を後にして帰路についた Odysseus は、美声の魔女 Siren をやり過ごしたのも束の間、海峡を進むうちに Charybdis の渦巻きを避けようとして Scylla の岩に近づきすぎ、Scylla に住む六頭の怪物に襲われる。だから、「悪魔と深海の狭間」とも言えるのだが、Funk の表現は、"between the Scylla and the Charybdis" そのものだ。曰く、

「……(前段略)、ブルトマンが、信仰の史的基盤であるスキュラと信仰の体験的基盤であるハリュブディスの狭間の極細の筋を辿って歩かなければならないのは明らかだ。ブルトマンが、後にこの狭い道を進むための自分自身の道しるべとして携えてゆくことになったのが、脱(あるいは非)神話化(Entmythologisierung)であった。」(前述書 p.20、拙訳)

ところで、いくら日本語の神学用語に疎い私でも、Entmythologisierung が主に非神話化と訳されていることくらいは知っている。アメリカ英語では、Funk がしているように demythologizing だ。しかし、私はこの場合の ent- は「離」くらいが適当ではないかと思っている。Bultmann は、Funk も同所で述べているように、新約の信仰から神話の部分を除こうとしたのではない。むしろ、初代教会の「ナザレのイエスがメシアである」との神話的な宣教内容(ギkerygma)以外のどこにもキリスト教信仰はないと考えているのである。

元来、ルーテル派信仰に立つ Bultmann は、Barth や Gogarten 同様、いわゆる正統派信仰に立っており、Albrecht Ritschl やその師 F.C. Baur (この人のやったユダヤ的ペテロ vs. ヘレニズム的パウロというのを大真面目に受け取っている日本の神学生がいたのにびっくりしたことがある。最初は信じた Ritschl も後には否定したくらいなのに…)的な自由主義神学に与する者ではなかった。また、宗教史学派の成果は尊重しながらも、特定の神学を(例えばTroeltschのように)一般化した社会学に平準化してしまう杜撰な宗教史学的「神話」として kerygma (proclamation) を捉えたのでもなかった。かといって、史的イエス研究の科学的性格が、地上のイエス以外の探究の役に立つとは思えなかったのである。彼にとって、quest for the historical Jesus は、イエスをキリストとする復活の神の業に触れ得ないものであった。むしろ、教会に与えられた使信は、目に見えたイエスではなく、目に見えぬ復活のキリストであるからだ。

かくして Bultmann は、宗教史学派的な「神話」もとらず、「史的イエス」を客体化する道もとらず、己の「離」神話化という神学伝統の中を危なげに進むことになる。歴史の不可知を確信しながらも、Luther 的信仰義認は確信しながら進むのである。おそらく、Bultmann にとって double-standard ではなかっただろう。ただ、史的イエスの限界を余りにも拙速に設定したにすぎないのかもしれない。

後世の徒が、Bultmann 先生をどう誤解したのか、信仰はナザレのイエスには基づかないだの、聖書は神話だらけだの、ぐだぐだ言って、神学の徒と自称しながら「聖書」も読めなくなり、開き直って「信仰は実存の(?!)我が心にあり」などと嘯いている。

ねー、神学生諸君、まず聖書を読もうよ。二流、三流の、いやいや、たとえ一流だって、一人や二人の神学者に関わって一生を棒に振る必要はないんだよ。聖書を読んで読んで、疑問を一つ一つ自分で解決しようとする活動の中から、聖書学(旧約学、新約学、外典学、古文書学)なり、教会史学(含考古学)なり、神学史学(教義学史)なり、実践神学(牧会学、宣教学)なり、その他諸々の専門に進むのもいい。もっとも、「観念」で遊んでいるよりは、体力的にも精神的にも(家族のこととか金銭のこととか)大変だから、根性のない人はやらなくてもいいよ。(エペソ書4:11)