Ratzinger's "Jesus of Nazareth"
ラッツィンガーの『ナザレのイエス』
法王の『ナザレのイエス』をとうとう入手した。採点の間に拾い読みであり、まだ全部を評する段階ではないが、大方のことはわかった。まず、400ページ近い本ではあるが廉価の理由は、ベストセラーとなる可能性があるだけでなく、いわゆる学者相手の議論を展開する批判的研究書ではないからである。非常に読みやすく作られた小型本で、1ページの文字の数は批判的研究書の典型である私の近刊の5分の1程である。だから、情報が少ない。しかし、情報が少なくても私の本より質はいいのかもしれない。
この本はラッツィンガーが、法王になる前の2003年の夏に着手され、その後の法王就任後にも書き続けたものを昨年の9月に脱稿したものである。ドイツ語で書かれたものが出版に際して英語に翻訳され、同時に出版された。近頃、ドイツ語圏の学術書の世界でも大流行の独英2版の同時出版である。私の入手した英語版は Doubleday から、ドイツ語版はイタリアのRCS Libri から今月15日の同時出版となった。残念ながら法王の手になる英語ではなく、Adrian J. Walker の非常に読みやすい英語である。Walker とは、Hans Urs von Balthasar と一緒に仕事をしていたバイリンガル(マルチリンガル?)だと思う。
本書は、法王ラッツィンガーの意図したナザレのイエス像の一部である。多忙の中で、彼が脱稿したイエスの生涯の範囲は、ヨルダン川での洗礼から変貌山でのペテロの告白までに限られている。いずれ続刊には、今回先送りにされた誕生物語を含め、以後の生涯が書き続けられるらしい。復活の扱いはどうなるかわからない。(普通、復活は地上のイエスの生涯には含めない。しかし、史的イエス研究と原始キリスト教研究の相互関係においては、扱われることが多い。法王はどうするのか明らかではない。)
まず、気になったのがどんな文献を当たっていたかだが、上述の通り批判的研究書ではないので、実際は膨大な文献を渉猟しているのであろうが、本書への引用は最小限に留められている。その中では、当然ながら彼の母国語であるドイツ語の文献が大半であるが、驚いたことに 2005-2006 年発行の最新の英語の文献や、ずいぶんとマイナーな文献や諸国語の柔らかい本にまで目を通していることである。
彼のこの研究への、すなわち本書執筆への動機は、それほど明らかではないにしろ、聖書本文の解釈と釈義を重視する神学(理論神学)者として、より正確な理解に達したいということだったことは想像に難くない。聖書本文の釈義を重視すると今私が言ったことは、神学者全般に掛かる形容詞ではない。聖書本文よりも哲学的思弁や教会教義に専念する神学者のほうが多かったといっても過言ではないのである。法王のこの傾向は、私や私の師ブラウン博士に共通する。つまり、行き着く先は史的イエス研究だ。より正確な釈義には、史的な考察は誰が考えても不可欠であろう。
法王は、自分に影響を与えた現代の学者として、しばしば Rudolf Schnackenburg に言及している。心酔と言ってもいい。しかし、シュナッケンブルクとの相違点についても彼は述べることを忘れてはいない(xiv)。シュナッケンブルクは福音書のイエスが福音書記者によって肉を着せられたものと解釈しているのに対して、法王は受肉のイエスそのものが福音書記者によって記されていると解釈する。すなわち法王は、福音書記者の脚色度に関して、シュナッケンブルクよりも低いと判断しているのである。
法王は初め、歴史批判的方法論の効用とその限界を述べるが、彼の言う限界はかつての史的イエス論者の言う不可知論ではない。私やブラウン博士がしばしば話題にするように、古代の状況を現代の我々が考察する不可避的限界、すなわち ancient mind と modern mind (今、日本語の適訳が浮かばない)の乖離である。ここはいつでも意識しなければならない。史的イエス研究に限らず、歴史学全般に共通する問題点である。
ところで、このナザレのイエス像は、現に教会制度の中にある法王としてのものであろうか、あるいは学者であり一人の信仰者ラッツィンガーのものであろうか。設問自体が愚問かもしれない。この研究は上述の通り法王になる前に始まった。しかし、法王として脱稿した。その間に、多少の法王としての立場が加わったかもしれない。実際、彼自身、自分のイエス像は福音書(あるいは正典全体)に近いとも言っている。非常に保守的と言えないこともない。ただし、引用文献を見てみればわかるが、実に正典外の文献に精通し、ユダヤ教学者らの意見を考察した上での結論である。私自身も同じような立場かもしれない。不思議なのだが、さまざまな異論や正典外の諸文献から批判的に考察してみても、実際の歴史的社会的状況が明らかになってくると、正典の記述の正確さが際立ってくるのである。
実際、法王ラッツィンガーは、本書は法王の名によって出版したとしても、ラッツィンガー個人の史的イエスの追究であり、信仰者としてイエスの素顔を追求したものだと記している。また、その点では、法王としてではなく、個人として読者の批判を仰ぎたいとも述べている。"Everyone is free . . . to contradict me." (xxiv)