Lord's Brother Αδελφος του Κυριου No. 1
主の兄弟 (その1)
知能(認知能力)は遺伝するといわれるが、実はそれほどでもないそうだ。ましてや学習の達成度などは兄弟姉妹といえどもさまざまである。兄弟揃って出来がよかろうと(あるいは悪かろうと)たまたまであって、違っていても驚くことはない。イエスには、マルコ(6:3)やマタイ(13:55)に従えば、男の兄弟が4人いたとしても、その中で特筆すべきなのはヤコブだけであろう。
現存する、成立が最も古い(50年以前)キリスト教文書であるガラテヤ書でもこのヤコブをパウロが「主の兄弟」(1:19, αδελφος του κυριου)と呼んでいるので、パウロが改心後2週間のエルサレム訪問をした38年頃には、既にペテロとともにエルサレムで初代教会の柱となっていたはずである。そうであれば、同じく重鎮であった十二使徒の一人であるゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブと呼ばれた)は44年頃ヘロデ・アグリッパに殺害された(使徒行伝12:2)が、主の兄弟ヤコブは、大ヤコブの存命中に既にペテロと同格、あるいはそれ以上であったとしてもおかしくはない。また、ユダ書(=ユダの手紙)の著者は、事もなげに自分を「ヤコブの兄弟であるユダ」(1:1)と紹介しているが、それほど有名なヤコブであれば、ユダという弟のいるイエスの兄弟ヤコブと考えるのは自然であろう。
これからの問題(というほど大袈裟なものではないが)は、この人物が果たしてヤコブ書(=ヤコブの手紙)の著者なのかということである。つまり、この手紙の冒頭で、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と名乗っている者が果たしてイエスの兄弟かという話題である。いろいろなトピックスがあるので、どこを拾ってどの程度まで行くかはまだ決まっていない。それが、ブロッグの気ままで気楽なところでもある。
結論を先取りすれば、イエスの兄弟ヤコブが書いたとの、面白くも可笑しくもない平凡で伝統的な答になるだろう。小心者の私自身も伝統的な見方に反対する材料はないし、現在の学者の多くも伝統的な見方をしているようだ。しかし、例えば反対意見の中に、ヤコブ書のギリシア語ならびに筆力が優れているというものがある。つまり、大工(あるいは石工)の弟(兄ではないことは既に書いた)が、正確なギリシア語で理路整然とした文章は書けないという反対意見である。
暴露話(teasing)だが、牧師の娘である細君に、新約聖書の中でどの文章が名文と言われているかと聞いたら、即座にパウロと答えてきた。ブッブー。一般的にだが、ヘブル書(=ヘブライ人への手紙)とこのヤコブ書が名文と学者の間では評価されている。パウロはどちらかと言えば、論旨が不明瞭な悪文家である。私も近著で、第一コリント書のパウロの文章はあいまいであると書いたばかりである。もっとも、頭のいい人の文章は、飛躍した論理の中に深みがあるのかもしれないが。
話を戻そう。私はこう考える。馬鹿にしちゃいけない。もし、この手紙がヤコブの晩年、すなわちイエスの十字架の後30年過ぎているのなら、いや20年後、いやいや10年後でもいい。資質のある者(冒頭に書いた認知能力のある者)が、立場上、10年も読み書きに専念したら、かなりの物書きになりうるし、立場上、10年も共通語として嫌でもギリシア語を使い続けたら、かなりのギリシア語使いになってもおかしくはないのだ。
ところで、新約聖書に収められたこのヤコブ書は、ルッターによって「わらの手紙」と揶揄された。もっとも、彼は黙示録も正典に値しないと言ったというほどの変人ではあるが、彼の理由は「行いによらず信仰のみ」の救いを強調するためであった。(ルッターのこれらの言葉は、誤解されるので、後に取り消されたとの説もある。)昔、Walter Bauer よりも昔の昔、Ferdinand Christian Bauer というお調子者がいて、ヘーゲル流だか何だか知らないが、ヤコブとペテロ対パウロと異邦人主義というような図式を考えた。そんなの信じちゃいけないし、無批判で教えちゃいけないよ、とくに日本の神学生と神学<教師>諸君!
次回からは、聖書外の資料(The Bible and Beyond 参照)もふんだんに(←本当かい!)出てくると思うが、それらは聖書と違って一般にはなかなか入手しにくいはず。なるべく引用箇所も読者が読めるようにと努力するが、私自身もなにもかも手元にあるわけではないので、オンするのに時間がかかるかもしれない。つまり、Westwood や Pasadena 程度ならいいが、Claremont の図書館はちと遠い。あらかじめご了承を。(そういえば、クレアモントの神学大学院 Claremont School of Theologyは西部地域高等教育機関認可基準 WASCで何か引っかかり、再認可猶予になっていたぞ。どうしたんだ?)
なお、次回は次回と限りません。間に別の話題が予告なく入るかもしれません。