Dr. Mogi? Who? -- Qualia? Ah, Junk Science! Right? Dead Right!
茂木博士?誰?--クオリア?あぁ、あのゴミ科学!
でしょ?まったくその通り!
内田樹氏のブログや関連のブログに、頻繁に茂木健一郎博士という方が登場し、「クオリア」が話題になっていて、高校生でさえクオリアを知っているのが日本だという。果ては、自分のブログに何々クオリアとつけてみるのが流行ったり、クオリアいちごを売ったり、クオリアせんべいを焼いたり、自分の子どもにクオリアちゃんと名前をつけるのが流行っているという―という後半部分は冗談だが。
ともかく、猫も杓子もクオリアで、その火付け役の一人が茂木健一郎博士で、たいへん頭のいい人で、内田先生ほどハンサムではないし、養老先生ほどのメンコミもないが、お金儲けは上手だと聞いていた。彼に関しては、ネットでは限られた情報しかなく、著書を読まなければだめかと思っていたが、チャンス到来!
先日、月遅れで到着した『学士会会報』(865号)に「脳と人間」と題して、茂木博士の講演記録が載っているではないか。学士会夕食会の講演者に招待されたときの記録らしい。この定例の夕食会に講演できるというのは大変な名誉で(ということになっている)、さすがは有名人と思ったものだ。学士会正会員とその関係者を前にして、神田の学士会館で講演したのだ。錚々たる面々を前にしての講演だから、さぞ充実した内容であろう、と思った。
今日は朝に歯医者におもむき、歯の掃除をしてもらう。その後、1-2度コンピュータにアクセスしただけで、二つの大学図書館を巡って100マイルほど走行した。そのうちの某図書館では、学者特権という名目での貸し出しカードの申請をしたが、即日決済は無理と言われ、借りることができないので、とりあえず必要箇所だけコピーした。その間に拾い読みした内容は、以下のとおりだった。
まず、この人は、東大には入ってみたものの、何をやっていいかわからず、二転三転の経歴のようだが、そのことは結局自慢のようで、初めにそのように自己紹介し、途中でもう一回強調している。しかし、理学部を出た後、法学部に2年いたところで、まさか「二つの文化」を云々できるわけはあるまい。初手からつまずいてしまった。小川家の男子として漢籍に長けた湯川博士に自己を准えるなど、列席の諸先生方の失笑をかわなかったかと心配する。(自分の研究はノーベル賞100個分に相当する難しさとも書いていた。)
法学部の後に理学部に戻り、理化学研究所に通っている電車の中で、彼は突然クオリアの概念に目覚めたそうである。まるで、新興宗教の回心現象だ。そこで初めて彼は、科学的世界観と芸術などとの分裂の悩みから解放されそうになったそうだ。おいおいおい、あのなー、普通、早い奴なら高校生くらいの時にその悩みを持つんだよ。二つも大学生やって、大学院に行って、その程度かよ。そんなこと自慢げに言う前に誰かに話したことがあるか。大学の教養時代にまともな話のできる友人はいなかったのか。ひょっとして、まかり間違ったら、オウムあたりに行きそうで怖いぞ。
哲学もかじっているそうだが、まぁ、まともに勉強していないのはすぐわかる。いくら劣等生のオレでも百単位以上の哲学をやっていると、茂木君の哲学は素人なのがよくわかる。Karl Popper の「反証可能性」についてはよくわかっていないのがよくわかった。舌足らずに、ウィトゲンシュタイン、フッサール、ハイデガー、ベルグソン、ホワイトヘッドなどと脈絡と関係なく知ってる哲学者の名前を挙げたのだろうが、いくらカタカナでもせめて「ヴ」ィトゲンシュタイン、ベル「ク」ソンと書かなきゃね。またまた告白して、
「我々には、頼るものは何もありません。神を信じる人はいるかもしれませんが、インテリといわれる人の多くは無神論者、あるいは不可知論者になっている。この有限の生の中で何を頼りに生きていけばいいのか。人生の目的は何なのか。富なのか、名誉なのか。迷妄ばかりの中で生きているのではないか。そのような状況で、脳や人間を考えると、いかに生きるかという哲学に結びつかざるを得ないのです。」
これは、中学生の卒業文集用の作文などではない。もし、博士の本心なら、脳科学などとノンキなことを言わず、もう少し哲学の本道を2-3年かけるつもりで学んでみればいい。ニーチェなどを予備知識なしで読んでみたところで、理解はできなかったろう。読んでみて、そのまとめが上記の文章なら、再履修のおまけを上げるから、やり直してみればいい。
彼は正直なところもあり、
「これからの人生の中で、何を価値として自分の人生の選択をするのか。これはとてつもなく難しい問題です。/残念ながら、その命題に脳科学はまだ応えられません。」
というが、もともと学問の命題などではないことを勘違いしているようだ。この辺りで、聴講の諸先生方は下を向いてしまったのではないだろうか。あぁ、今晩は、人生の無駄をしたようだ、と。
ここまで書いたら、クオリアについてまで書いてると、時間の無駄のような気がしてきた。実はこんな概念は哲学の世界ではゴミであって、まともなテーマではない。試しに、我らがSBLの会長さんでハーヴァードのクラフト教授の推薦する Wikipedia を覗いてみた。10か国語しか項目は立てていない。すなわち、世界的にはマイナーな話だ。おや?日本語とドイツ語に優秀記事マークが付いているぞ。読んでみよう。それに英語版もあるから、これも、と…。なんだ、なんだ、なんだ。日本語版の資料は英語版そっくりじゃないか。盗作か?
いや、違うぞ。中味はまるで違う。英語版はこの概念にかなり批判的だが、ドイツ語版と日本語版は積極的だ。ドイツ語版は最後の段落、日本語版は「論点」に反省はあるが、おおむねクオリアが大層なものであると読者に思わせようとしている。ははー、組織票かな。ともかく、アウグスティヌスまで持ち出すのは噴飯物である。ラテン語の何でもない言葉なのだから、アウグスティヌスでなくても出てきておかしくないのだ。それに qualophiles が意図する意味ではないのだし。ああ、眠い。もう飽きた。
それにしても、茂木先生って講義が下手そうだよね。カール・ポッパー大先生のように5-6年小学校の先生をして修業するのもいいかな。