Jesus' Siblings - 3
イエスの兄弟姉妹 No. 3
週末移動している間に、どのように続きを書くか考えていたが、結局のところ、前回のエントリー「イエスの兄弟姉妹 No. 2」に寄せられたあがるま氏のご質問に沿って記述するのがいいことに気づいた。(改めて、あがるまさんありがとうございます。ドイツ在住のあがるまさんが寝ている時間になってしまったのが残念ですが、お目覚めになりましたらご覧くださると思います。)
以下、カタカナ書きの人名は、原則として日本の聖書(口語、新改訳、新共同訳)の慣用を用いることとする。あがるま氏の疑問ないし疑義は、 次の3点でした。
1 ヨセフはダビデの家系(マタイ伝1:1-17)だそうだが、イエスが実子でないのなら、どうしてイエスがダビデの末(末裔)と言えるのか(♪賛美歌94番 ~ダビデの末なる主よとく来たりて~)
この問題は、イエスの母マリアの処女懐胎、処女出産、更には彼女の無原罪と永遠の処女に発展するものと考えると、通常の史的イエスの問題から飛躍したものとなる。史的イエスの問題は、主として歴史上に現存した地上のイエスを扱うものと考えられている。また、地上最後の事件であった十字架の死と復活も、確かにキリスト教の発生に直接インパクトを与えたものであるならば、史的イエスの問題として扱える余地はある。しかし、イエスの誕生物語のほうは、初めからイエスに従う者たちにインパクトを与えていたとは考えられない。むしろ、キリスト教がある程度成長した後に整えられたものと考えるのが自然であろう。とくに、ローマカトリック教会の信仰するマリアの無原罪と永遠の処女性は、今ではカトリック神学者でも多くの人が、初期キリスト教会の信仰であったことを疑っている。
この問題が、史的イエスとの関連で意味を持つとすれば、イエスの兄弟姉妹、またその他のイエスの親族に関わるときであろう。前回紹介した Epiphanius の著作のような文献や伝承にあたる必要はあるだろうが、まずは常道として、現在われわれが普通手にしている正典の「聖書」を見てみよう。
誰でも、親を持たぬ子はいない。イエスは親を順に辿ればダビデ王(イスラエル第2代の王)と繋がるという。しかし、マタイ伝の系図によれば、繋がっているのはイエスの義理の父ヨセフであって、このヨセフとイエスの間に血縁関係はない。だから、マタイはヨセフをイエスの父とは書かず、正確にイエスの母マリアの夫としているだけである(マタイ伝1:16)。しかも、マリアは処女なのに懐胎(妊娠)している。もしもマリアからクローンで生まれたとしても、Y染色体はどこから来たのか。イエスはY染色体を持つ男なのだ。聖霊により(no sex で)特別にY染色体が与えられたのであろうか(マタイ伝1:20)。
マタイ伝1章の系図は、旧約聖書でおなじみの男系系図ではあるが、不思議なことにマリア以前にも4人の女系の名前が記されている(従って、イエスの母マリアは5人目の女性)。4人の女性は、いずれもイスラエルで賞賛される女性たちだが、よく考えてみると、イスラエル世界では忌み嫌われる雑婚(他民族との結婚)だったり、女のほうからの誘惑だったり、どの社会でも嫌われる姦通だったり、売春だったり、あまり良ろしからぬ事績を持つ女たちである。(もし、この女性たちの話をご存じないなら、その登場箇所だけでも旧約聖書を読まれることをお薦めします。へたな小説の及びもつかない人生の機微と性愛!が記されています。タマルは創世記38章、ラハブはヨシュア2章と6章、ルツはルツ記全部、バトシェバはサムエル記下の11章と12章をご覧ください。)
従って、5人目のマリアもスキャンダラスな女ながら賞賛される者の一人として描かれているとも言えるのだが、系図というのは男だけでは流れが特定できるものではなく、女も必要であり、重要なポイントにおいては、マタイが女を登場させて補足したと考えることもできる。つまり、複数の妻の誰が嗣子(あととり)の母かを明らかにしているというわけだが、これもおかしい。イエスの母マリア以外は、旧約聖書に明らかなことであり、周知のことなのだ。
実は、イエスの系図は、マタイ伝の1章だけでなく、ルカ伝の3章にも記されている。女の登場がマタイの系図の奇妙な点とするならば、ルカ伝の系図には(少なくとも現代人が)誰も知らない名前が何人も登場するのが奇妙である。これらに該当する名が旧約聖書に見当たらないだけでなく、その他の現存する文書に見当たらないのである。ルカはこれらの人名をどこから得たのであろうか。その中に、イエスの義父ヨセフの父エリ(Ηλι)がいる(ルカ伝3:23)。これは奇妙中の奇妙なり。マタイによればヨセフの父はヤコブではなかったのか(マタイ伝1:16)。
古くからの解釈では、このルカの系図は、イエスの義父ヨセフのものではなく、イエスの母マリアのものとされる。(James Tabor 博士の特許ではないからね。)特定できるところでは、Eusebius (4世紀の史家)の「教会史」 (1.7, 2-15)に引用された Julius Africanus (2-3世紀のエルサレム生まれの史家)がそのように主張している。根拠は、旧約聖書申命記25:5-10に示されたレヴィレート婚である。女の子どもしかいない場合でも土地の相続が可能なように、同族近親から婿を迎え嗣子(あとつぎ)である娘が嗣業の地を相続するのである(民数記36章)。そう考えると、マタイの系図に登場したルツは前夫の近親であるボアズとの一種のレヴィレート婚であった。
つまり、イエスの義父ヨセフの父とされたエリは、実際はイエスの母マリアの実父であるが、ヨセフの義父であると同時に正統な嗣子ともなるのである。このように、マリアの夫ヨセフがダビデの血を引くユダの子孫なら、マリアもまたヨセフの近親者としてダビデの血を直接引いていることになる。イエスは、義父ヨセフの血をもらわずとも、母マリアに流れるダビデの血を受けたことになる。
さて、Julius Africanus の解釈が正しかったとしても、ここまでの話とイエスの兄弟姉妹が実のハーフ・ブラザーズ・アンド・シスターズかは別の問題となる。つまり、イエスの母マリアは兄弟姉妹を産んだかどうかという話題である。前回のエントリーで取り上げたように、 Epiphanius (4-5世紀の僧正)は、自信満々に6人のイエスの兄弟姉妹の名をあげ、いずれもヨセフの前妻の子どもだからイエスの先に生まれた兄と姉となることを書いている。子どもたちの名前まで書いてはいないが、実は、ヨセフの前妻の子どもたち説を匂わせる文献の一番古いものは2世紀に書かれた Protevangelium Jacobi (Protevangelium of James, Infancy Gospel of James などとも言われる)である。割合に有名で(短いから)ネットでも全文が数種類公開されている。ヨセフは結婚するなど物笑いの種になるというほどの老人として描かれている。
Protevangelium Jacobi がなぜ2世紀のものとわかるかというと、Clement of Alexandria (2-3世紀、アテネ生まれの神学者)やオリゲネス(2-3世紀、アレクサンドリアの神学者)がすでに知っていたので、まあその頃(2世紀)だろうと推測しているだけにすぎない。これは、イエスの母マリアが永遠の処女であったという主張の反映であり、長い間のカトリックの教えであり、今尚そうではあるが、Rudolf Pesch をはじめ、わがお気に入りの John P. Meier 大先生も、また多くの新しい人たちも、肝心のカトリックの学者たちが疑問を抱いている。つまり、彼らも、私がいつも言うように、マリアはヨセフとの間にも子供たちを産み、イエスは長男であると考えているのだ。(もっとも、Meier 先生が言うように、史的イエスの研究もやっとなのに、イエスの史的兄弟姉妹などオボロ朧の oh boro boro、わかりゃしないよ。しかし、幸いなことに、このような「不良学者たち」に対するローマ法王庁からのお咎めは一切ないそうです。)
2 イエスの兄弟というが従兄弟(いとこ)なのではないか
これもカトリックの解釈だ。嚆矢はヒエロニムス(4-5世紀の聖書学者、日本では普通 Hieronymus だが、国際的には Jerome のほうが通りがいい)らしい。ところが、プロテスタントの学者や近頃のカトリックの学者だけでなく、2世紀の Hegesippus はじめ、イレナイウス、テルトゥリアヌスなども従兄弟とは考えていない。
言葉上のことを言うと、例のマルコ伝6章3節のイエスの兄弟の件は、αδελφος (アデルフォス)が使われている。この言葉は、日本語や英語などでもそうなように、血肉の兄弟を超えてむしろ血肉の関係のない信義の仲間や友人に使われることはあっても、血肉の従兄弟に使われるのは不自然である。証拠に、バルナバとマルコの従兄弟の関係には、正しく ανεψιος (アネプシオス)が使われており、他の用例も同様である。明らかに、この件に関するカトリックの伝統的な考え方には無理がある。
3 イエスの身内のヤコブは誰と誰
日本語ならば、英語のJacob も James も皆ヤコブだから、話が早い。英語の Judas、Jude、Judah が皆、日本語ではユダになるのと同じだ。それぞれの国語で、ヤコブス、ジェームズ、ハイメ、ジャコモ、etc. 全部が、元々はヤコブだと混乱させられるより、誰が初めに考えたのかヤコブで通す日本語はわかりやすい。
さて、その日本語で大ヤコブと小ヤコブという言葉がある。聖書中の言葉としては、マルコ伝15章40節にある小ヤコブのみで、これとの対比で大ヤコブがあるにすぎない。小ヤコブの一節はこうだ。「小ヤコブとヨセの母マリア」(Μαρια η Ιακωβου του μικρου και Ιωσητος μητηρ)。ミクロスは英語に直されると、younger、minor、less などになって収まりつかなくなるが、日本語はここでも小だけだから楽だ。
しかし、大ヤコブはゼベダイの子ヤコブのことであり、ヨハネの(多分)兄であることは間違いないが、小ヤコブは昔から議論がある。普通の解釈では、いつでも十二使徒リストの上位に来る大ヤコブとヨハネの兄弟(二人は雷の子とも呼ばれた)よりも下位の十二使徒であるアルファイ(アルパヨ)の子ヤコブと同一視される。もしそうなら、大小二人のヤコブはイエスの家族ではない。
ところが、アルファイ(アルパヨ)がアラム語訛りのクレオパ(クロパ)と同一名だとすると、この妻マリアはイエスの母マリアの姉妹(ヨハネ伝19:25)と同一人物ということになる。すると、当然、小ヤコブはイエスの従兄弟となって家族に組み込まれる。更に、従兄弟とは兄弟ということで主イエスの兄弟ヤコブすなわちエルサレム教会の大立者(使徒行伝12:17)と同一人物となる。
実にこじつけたり、と思うのだが、これも Tabor 博士の特許などではなく、カトリックが主張する教父時代からの伝承である。カトリックの(オンライン)エンサイクロペディアで確認できるのでどうぞ。しかし私は、イエスの親族のヤコブなら、マタイの系図に出てくるイエスの祖父(義父ヨセフの父)と、マルコ伝(6:3)の兄弟ヤコブだけを挙げておく。そして、兄弟ヤコブなら、ヤコブ書の著者であったかどうかを含め実に多彩な資料があり、紹介するとすれば1、2回のエントリーには収まりきらないであろう。
私のイエスの兄弟姉妹続編はいつになるかわからないので、英語で申し訳ないが、主イエスの兄弟ヤコブに関する良書を1冊挙げておく。ヤコブの手紙の注解書の体裁だが、ヤコブに関する研究書と言っていい。これはカトリックのシリーズながら、大変に開けた編集方針により、カトリックの教義と無縁の学者が書いている。出てから10年以上たった本だが、John P. Meier の3巻目などと併用すると、大変役に立つ。
Luke Timothy Johnson, The Letter of James (The Anchor Bible; New York: Doubleday, 1995).