Dr. Tagawa Is Not Rebellious but Very Religious
田川先生はハンコウ的どころか非常にシンコウ的だ
Waterman お前は田川建三の悪口を言っておきながら最後に決まって「好きだ好きだ」とは何事かと言われる。いや、私は悪口など言った覚えはない。学問的に結論や方法が異なる点を多少述べたことはあるかもしれないが、私は彼を人間としてもキリスト者としても好きなのである。大袈裟に言えば「尊敬している」でもいい。実は、彼には会ったこともないし、どんな顔をしているのかさえ知らない。だから、八木誠一について述べたときのように、顔からして好人物だとか悪人だとか言えないのが残念なくらいだ。
理由を述べよう。彼の研究が本格的であり、しっかりしていること。これが第一の理由であり、それは彼の学位論文を見れば明らかだが、日本語の一般書の中でも同様の印象を得ることができる。彼の日本語の本は幾つか日本で読んだ。そして、今、たまたま彼の本を図書館で探し出して読んだ際に、彼の文章が暖かいことに気がついた。惚れ直しである。彼のフランス語の学位論文は、日本では、関東の立教大学と関西の聖トマス大学にそれぞれ1冊あるだけで、そのほかは東大にもない。先に書いたように、荒井献のドイツ語の学位論文もたった7つの図書館が持っているだけであるというのが日本の現状だ。私がどちらの論文にも容易に近づける環境とは大違いで、そのあたりの格差を実感すると同時に、日本の多くの神学者が同じ日本人の世界的な研究を碌に知らないこともむべ(うべ)なるかなと思ったものである。
彼の日本語の文章が暖かいのは、彼の信仰が現れているからだと思った。これが、彼を好きな第二の理由である。今回、例のごとく、猫猫先生の本と漱石全集を返却した際に、教室四つか五つ分ある極東図書館の中をぶらぶらし、田川の『宗教とは何か』を発見した。(猫猫先生の本は、この図書館の7-8段造りの書棚に一竿一杯ある漱石研究書の1冊だ。)この田川の本は日本で読んだものの一つである。懐かしく思った。随分と読み込まれている本で、何気なく貸し出し記録を見たら、1991年の夏、ILL(図書館間相互貸借)でUBCに貸し出されているではないか。えっ、猫猫先生がUBCにいたときではないか。必ずしも彼が借りたわけではなかろうが、彼がUBCにいたときに、まず台湾で印刷され日本で出版されたこの本は、カナダ旅行をしていたのかと思うと不思議な気がした。(まあ、UBCにも日本語使いはごろごろしているからね。それにしても、UBCよ。その頃ならin print だったはずだ。ILLなど使わず、買ってやれよ。田川先生と大和書房がかわいそうだ。)
そこで彼の信仰が現れているところだが、この本の中に幾つもある。今日は一つ、初出『指』からの書き直しの一節だが、そこを引用して終わりとする。『指』は赤い牧師と言われた赤岩栄牧師が始めた雑誌で、田川が引き継いた。今はないと思う。赤岩牧師は、よく誤解されるようだが、日本共産党とは何の関係もない。田川もそうだ。党というものは、いつしかそれが生まれてくる初めの問題を離れ、主義主張のために生きようとする愚劣でかわいそうな者どもの集まりとなってしまう。赤岩も田川もそんな低級な党とは関係がない。そういえば、最近、私は信仰はドグマとは何の関係もないと書いたことがある。確かに、正統的なドグマと逸脱した思想との区別はあるだろうが、ユダヤ・キリスト教の信仰には、元来、閉じられたドグマなど存在しないのである。以下は、田川からの引用。
人は何のために 生きるか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのようにたずねること自体間違っている、と答えてすましておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、敢えて鮮明に、我々は食って寝るために生きる、と私は言う。人は何によって 生きるか、なんぞとたずねられたら、我々は食って寝ることによって生きる、と答える。人間は食って寝ることによって生きる活力を獲得し、さらに無事に食って寝ることができるように働く。(同書16-17)
田川のこの言葉は、実にユダヤ・キリスト教の精神を如実に表したものである。(そこがことさらその箇所というわけではないが、嘘だと思うなら、旧約聖書の列王記上17章と19章にあるくたびれ果てたエリアの話を読むがいい。聖書は全編、食って寝る話なのだ。)キリスト教にもユダヤ教にも(あるいはイスラム教にも)なじみのない人には意外かもしれないが、これこそ神の下にある人間の営みであり、信仰の基である。隣人愛やその他もろもろはここから出ずる。この単純にして明快な信仰告白に比べれば、田川が言うように、「宗教家の宣伝する生きがい論、あるいはそういったもののたいこもちをやらかす作家や哲学者、評論家や大学教授の語る人生論的説教など、いずれも、[中略] 生活の現実から離れた抽象的な人生論を説教して、生活の基盤から目をそむけるようにしむけ」(16)ているのにすぎないのだ。
あまり長く書いても読んでもらえないかもしれないし、今日はここまでとする。この項はすぐに続くかもしれないし、しばらく後に続けるかもしれない。ともかく、私が田川を好きな理由を簡単に述べてみただけである。
いつも言うが、専門家は専門家であることで私は尊敬する。専門は何でもいい。私の自動車のメカは2人いるが、付き合いは長い。私がその確かな腕に惚れ込んでいるからだ。DR MARKS というナンバープレイトのセダンは8年乗っている。近場の通勤に使う2人乗りのオープンカーなどは1994製の中古を3000ドルで3年前に買ったものだ。どちらも彼らのケアで調子がいい。専門家であるべき職業がそうでない場合、その人に関してはそれ以外のことも信用できなくなってくる。なぜなら、肝心なことで専門家であると嘘をついているからである。何の専門家でもない日本の大学教授など、大学教授として尊敬できるはずもない。