Daily Pressure
The Daily Pressure upon Me of Concern for the Future of Japan
アメリカを祖国(Vaterland)と意識していても、私にとって日本が母国(motherland)であることに変わりはない。
このブログの開設に当たって記したように、この夏、ある事情から、特に日本の宗教学あるいはキリスト教学を話題とするブログに度々お邪魔した。お邪魔するにあたっては、「です・ます調」でなるべく注意深く言葉も選んだつもりだが、ここは謂わば我が家であるから、正に徒然なるままに、「だ・である調」で脈絡無視かつ時にはヤクザな表現も交えて日々の感想を述べて行くつもりでいる。
日本に向けては、当然、これから日本語で書く訳だが、誰かと専門的議論になった場合、相手が誰であれ英語になるかもしれない。(しかし、自分は相当な日本語書き=自信過剰=とも心得ているので、極力日本語で応ずる。)私は、日常会話は未だに日本語が楽であるが、近頃いただいた日本語の新約学の雑誌論文別刷を読んでみて、読むのに非常に困難を覚えた。私の書棚の専門書も、図書館で読む専門書も、ほとんどが英語であり、日本語のものはほとんどなく、日本語はドイツ語の本はおろかフランス語の本よりも少ない。これが理由の一つかもしれないが、もっと本質的な別の理由がある気がする。いくつか、明日の私の一日に差し支えない程度で(床に就く前の暫し)述べてみる。
ドイツ語というのは、日本人にとっては実に便利な言葉のようだ。ドイツ語の造語力が日本語の(実は漢語の)造語力に反映して、難しい漢字が脈絡なく並ぶ。脈絡なくとはこういうことだ。日本語で(ドイツ語でも)二つの言葉を結合して一つの新しい学術用語を作った(訳した)場合、並列なのか、主語・述語の関係なのか、主語・目的語の関係なのか、あるいはそれ以外の関係なのか判断に苦しむことがある。もっとも英語も同じかもしれない。安易に of を多用する英文著者は、主・属・対・与・同などの文法上の格が元々不明になっているから、日本語でも単に「の」と訳されてしまい脈絡があいまいになる。(この私の言っている議論が分からない翻訳家がもしいたら失格だぞ! その人は横のものを縦にするだけの機械翻訳家だ。)例えばだが(故人の例で申し訳ないが、やはりこの夏、部分的に目を通したので)、滝沢克己の日本語が分かる人は、かなりドイツ語ができてかつ滝沢並みの頭脳の持ち主だろう。滝沢の遊び相手の全共闘的観念的高踏的ご高説の雰囲気は分かるが、正確な意味は、私には(私の頭では)よく分からない。もちろん、ある宗教に帰依し一つ一つの言葉に纏わる文脈を習得した者がその宗教のメッセージを理解しうるように、滝沢教に帰依し奉れば別かもしれない。
非常に権威主義的で、自分で調べようとしない。少なくとも元にあたる手間を省いている。だから、別刷を読んでいて議論の飛躍に翻弄される。これは、日本の(あるいは日本語の)若い宗教学者(あるいはその卵)のブログを読んだときもしばしば感じたことだ。もちろんブログという性質上、正確な文献を注記する余裕もないし、日記である性格上そこまで求めるのは酷であることは認める。しかし、それでも読んだ別刷(これは学術文献そのものなので情状酌量の余地なし)に共通する権威主義的文章を幾つか読んだ。例えば(これは新約聖書学の極狭い議論なので、関係者以外には暫し御免)、Q資料とQ集団(あるいは共同体)とか前マルコ資料とマルコ共同体などと無批判で議論を進めている。鬼の首でも取ったように「Qではこうだから」などというので文献注をみると S. Schulz の文献一つで済ましている。オイオイオイ、Qと言ったって色々あるぞ。 B.H. Streeter はどうだったんだ。IQPは? 大体、これは仮説なんだから必ず異論の著作がある。その双方の議論を紹介した上で、あなた自身の議論を(できれば自身の本文批判も入れて)しないで、いきなり結論を出だされても「はい、そうですか。」とはとても言えない。
そんな訳で(あるいはその延長なのか)、何々論的キリスト教とかに出会っても、私の軌道とは合わない(outside of my orbits)気がしたし、キリストやキリスト教と何の関係もないキリスト教「系」神学に至っては、私の時空とは隔たっている(far away beyond my time and space)感があった。
私がした諸々のコメントの中には、日本の義務教育や日本の大学院教育に関わるものも少なくなかった。上記のことと合わせて考えてみると、大方の日本人の認識と私のものとは別で、日本は考えることの教育は悪くないのかもしれないが、知識教育をないがしろにしている印象を持った。正確な知識(データ)に基づかない議論は、口先だけの議論になって中味がない。また、そういった議論が議論であると思っている節があった。裏腹な言い方になるが、自分と同じテーマの専門家は世界で数人あるいは多くても数十人と思ったほうがいい。だから、同業者を相手にしても、説明はなるべく親切であるべきだ。例えば聖書を引用するに際し、ヘブル語あるいはギリシア語は一部必要なところを誰にでも分かるように説明(あるいは翻訳)付きで引用すればいいのに、全文説明なしで原文を引用するのは実はおかしなことであることに気が付いていない。これも実は正確な知識の欠如から来るのではないかと思う。そういった人に限って、大事な異本(違う本文の写本)についての言及が欠けていたりするからだ。
日本流の宗教学・宗教史学、哲学と歴史学、平和や政治、更にジャーナリズムにまで口出しをした。今の自分の専門は神学と聖書学と公言することにしているが、口出しした中には昔取った杵柄もあり、ついつい余計なことまで言ったし、ご専門の方から見れば幼稚なことや初歩的なミスもあったと思うが(ないほうがおかしいか)、全ての小言は(所詮小言ではあるが)日本が私の愛する国でもあることからくる。政治的にはアメリカが祖国であっても(一旦事があれば銃を持って守れと言われている国)、生まれ育った国を愛さないでいられようか。
諸君、今日はこれまでにする。妻が心配して「いつまでも遊んでいないで早く寝なさい!」と言っている(ナンチャッテ♪)。
MWW
3 Comments:
Waterman先生。
川瀬です。初めて先生のブログを訪れてみました。
先生が僕のブログのみならず、いろいろな方のブログで大変熱のこもったコメントをなさっているのを見て感銘を受けていました。
さて、今回の先生のエントリで
「私がした諸々のコメントの中には、日本の義務教育や日本の大学院教育に関わるものも少なくなかった。上記のことと合わせて考えてみると、大方の日本人の認識と私のものとは別で、日本は考えることの教育は悪くないのかもしれないが、知識教育をないがしろにしている印象を持った。正確な知識(データ)に基づかない議論は、口先だけの議論になって中味がない。また、そういった議論が議論であると思っている節があった。」
とありましたが、これは非常に耳の痛い意見で、僕もいつも悩んでいます。というのも、僕の受け持っている学生は、宗教学を専門とするものは少なく、どうしてもゼミが「素人談義」になりがちだからです。
ただ、どのようにして素人談義を生産的なものにするか、というのは考えているつもりです。そのことは以前、僕もブログに書きましたので、ご覧頂ければ幸いです。
http://takayak.moe-nifty.com/episode2/
2005/06/post_a223.html
では、今日はこんなところで。
川瀬先生
早速のご祝儀コメントを感謝申し上げます。
ご案内のエントリーを読ませていただきました。十個もコメントがありました!!! それはともかく、内田先生のお話も合わせて同感です。私が語ったことは、学部学生というよりは、少なくとも大学院教育を受けたであろう専門家についてのものでしたが、本質は同じです。
ある出版社のレセプションで、人文・社会・自然とさまざまな分野の老練な教授たちが、自己紹介を兼ねて自分の研究をそれぞれ5分から10分で話しましたが、皆実に素人相手に話すのがうまく感動したことがあります。しかし、私が書いたように、専門家同士でも学問が細分化しているわけですから、どこまでが説明なしでよいか、どこは多少の解説または補足説明が必要かを見極めて、議論を実のあるものにするべきではないかと思います。
素人談義そのものはとても結構だと思います。実は今も週に1度、中高校生を相手に雑談的な授業をしています。学生時代のアルバイトだったのですが、今は面白くて続けさせてもらっています。中高校生(こちらの8-12年生)ですから、専門的な話はとてもできません。テーマによっては指導する私も素人です。しかし、なるべく議論のしっ放しではなく、そこから生まれた関心を持続させ、基本的な事実やデータにアクセスして、再度議論に戻ってくるように心がけています。その後は、1-2枚ではなくある程度長いレポートに纏めさせます。この最後の作業が大事です。(そしてそれを読むこちらにとっては、大変な難儀となるわけですが・・・。)
KAOSほどアカデミックではなく、まさに素人の集まりなのでしょうが、昔、本郷の学士会分館で開かれていた(今も?)「東大聖研」(東大有志の無教会派系聖書研究会、多分、矢内原先生の「駒場聖書研究会」の流れと思うのですがどなたかご存知でしたら教えてください)に出席したことがあります。駒場のドイツ語の先生が指導者として同席なさるのですが、彼も聖書の素人だったと思います。セミナー形式で、発表者は一生懸命発表し、どのような権威にもとらわれず、参加者は実に自由にのびのびと発言していたのが非常に印象的でした。私もいつかあのような「聖研」を主宰したいと願っています。
しかし、元に戻りますが、知識は権威ではないのですから、権威を嫌う余り知識をも目の仇にするのは筋違いです。また、独創性を育てるための「ゆとり」と称して、基礎学力を疎かにする教育もおかしなものです。既存の知識を消化した上での独創性だし、既存の知識を権威(あるいは偶像)としないのが真の専門家だと思います。
最後に、数年前に気付いたことですが(そんなの当たり前だと言われそうですが)、博士課程の大学院生を主に教えている先生より、学部学生を主に教えている先生のほうが話がうまく筆が立つ。ではまた、
MWW
川瀬先生
追伸です。私は(すでにお気付きの読者もいるかもしれませんが)10年ほど前に、ハーバードの神学大学院(宗教哲学専攻)を出てからアリゾナ州立大学で宗教学を教えている女流宗教学者(神学者)L.E. Cadyの “Religion, Theology, and American Public Life” という本を翻訳して玉川大学出版部から上梓しています。今は使わない昔の日本名で出したので、米国籍名のWaterman ではヒットしません。その原著前書に以下のように書いてありましたが、和訳で飛び飛びに示します。神学者とあるところは宗教学者と(神学とあるところは宗教と)置き換えてかまわないと思います。
「・・大きな公立大学にある宗教学講座という環境の中で・・置かれた環境は常に平坦であったとは言えない・・更に、私の場合、専ら大学院教育を行っている研究機関に所属する神学者のようにはいかず、この分野に専門的な興味もこだわりもいっさいもたないためか、神学などは当面わずかな関わりしかない訳のわからない学問であると、即座に拒否反応を起こす多くの学部学生にはびこる無関心と立ち向かうこともまた務めであった。」(訳書P5)
学部学生の「無知」よりも前に「無関心」に立ち向かわなければならない大学教員がいるわけです。しかし、いずれにしても、私は遣り甲斐のある課題のように思います。
MWW
Post a Comment
Subscribe to Post Comments [Atom]
<< Home