Get a Real Attorney!
真の助け人イエス・キリスト
テレビで弁護士事務所のCMが "Get a real attorney!" と叫んでいる。今日の話題は、多少分裂症気味で、あちこちに飛ぶ。実は、あちこちの本をちょこちょこ覗いては書棚に戻すという、いい加減な読書をしているからだが、頭は一つの目的で一貫しているつもりだ、少なくとも本人は。
しかし、学会に出かける週だというのに、何も公的役割がないというのは気楽だね。テレビを観たり、のんびりと本のつまみ食い。いやいや、そんなじゃない。昨日、Santa Monica で買ってきた刺身がおかしかったのか、おなかの具合が悪くて、顔をしかめてゴロゴロしているだけなのだ。
ところで、日本語聖書の新共同訳は、ヨハネの手紙第一の2章1節を次のように訳している。
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」
ここで弁護者と訳されているのは、パラクレイトス(ギリシア語で助け人 helper の意)のことである。三位一体の神の第三位、真理の霊である「聖霊」を指す言葉でもあるが(ヨハネ伝14章)、このように第二位の子なる「イエス・キリスト」を指すこともある。
Get a real attorney! (本当の弁護士を選びなさい!)と叫んでいるのは、偽の弁護士もいるからだろうか。いや、real は、「本当」という意味のほかに「現実」という意味もあるから、偽でなくても現実に役に立たない弁護士を選ばないようにと言っているのかもしれない。
それにしても real という言葉は難しい。史的イエス研究で real の考察をしているのは、私のお気に入りのカトリック神学者 John P. Meier だが、史的イエス研究においては、さまざまな概念が区別され議論されてきた。今寝転んで眺めているのは、Friedrich Gogarten の "Jesus Christus Wende der Welt" (1967、英訳はあるが日本語訳はないはず、本書こそ Gogarten の史的イエス研究観がわかる)と Rudolf Bultmann の "Glauben und Verstehen" の英訳本に寄せた Robert W. Funk の序論(1969)だが、この頃はまだ大真面目に Historie と Geschichte を区別して議論していたことがわかる。
Historie と Geschichte は、Martin Kähler による区別の踏襲だが、前者は客観的歴史記述、後者は記述するものの価値観を含んだ歴史記述ということである。Bultmann も Gogarten もこの区別を意識している。シカゴで Mircea Eliade の友人であり John Dominic Crossan のパトロンでもあった Norman Perrin は、前者の形容詞形を英語で historical 後者を historic と訳し分けている(Perrin, "Rediscovering the Teaching of Jesus," 216ff. 参照)。しかし、このような区別は、意味のない机上の空論であることが、実際の研究に携わってみればすぐわかる。もっと大事なことは、こまかな事実の確認と洞察の整合性であろう。にもかかわらず、過去の研究が無駄ということではない。こういった先人の道がなければ、我々が同じことをしなければならないかもしれないので、大いに感謝すべきことではある。
Bultmann の "Glauben und Verstehen" にはこんな言葉があった。「肉によるキリスト-すなわち史的イエス-など我々には何の関係もない。私はイエスがどんな姿かたちの男か知らないし、知りたいとも思わない。(101)」 他方Funk は、こんなことを書いていた。「イエスの死までは歴史上の出来事だが、復活まで歴史にこだわるのは不信心者のすることだ。(英訳本の21)」
その後の史的イエス研究家はBultmann なんかどうでもいいし、最近の史的イエス研究家は(私も含めて)Funk なんかフン、遅れてるー!
今回のつまみ食いで、Heidegger と Bultmann が共に住んでいた頃の Marburg を想像してしまいました。あがるまさんはいいなー。僕も行きたいなー。