Mark 16:8
"For They Were Afraid"
素直に嬉しいこと
AAR/SBL のこの秋の年会(American Academy of Religion/Society of Biblical Literature 2006 Annual Meetings, November 18-21, 2006, Washington DC)で、6月に出た私の本が議論の中に登場する。
SBL の1セッション "Mark Group: The Resurrection of Jesus and the Ending of Mark" (S20-24=9:00 am -11:30 am) の中で Duke University の若い学者が彼の持論のサポートのために我が著書を取り上げると e-mail が入った。早い反応で嬉しかった。
マルコ伝がどこで本来終わっていたかは、実に長い論争があり、今でも上記の如く一つの部会ができるほど重要な問題と理解されている。16章8節の「彼らは恐ろしかったからである。」が、確認できる限り古い終結部分(ending)というのが多数派の見方であるが、それでさえ、福音書記者(マルコまたはマルコに擬せられる誰にしろ)の意図した終わり方なのかどうかで意見がまた分かれる。これらの議論では、古写本の本文の比較から、マルコ伝全体の脈絡、更に当時の歴史的事情まで検討されなければならない。
2003年発行の N. Clayton Croy 著 "The Mutilation of Mark's Gospel" (Abingdon Press) は、初めの手書き本が何らかの理由で切除(mutilate)されたとの仮説を主張している。こういった仮説は Croy に始まったことではないが、彼の場合、終りの部分だけでなく、初めの部分も切除されたと主張し、非常に話題となった。Duke 大学の若い学者は、この Croy の説に異議を唱えているらしい。6月に出た私の本も、逸早く数ページを費やして古代の出版事情等を根拠に Croy を批判しているから、この会議で引用されることになったわけだ。ということは、私自身もこの場で批判されることになろう。それはそれでいい。私の Croy 批判が正しいとは限らない。議論の対象にしてもらえるだけで素直に嬉しい。
ところで私の本だが、LC(Library of Congress いわゆるアメリカの国会図書館のことで日本語の定訳は「議会図書館」、アメリカで出版されたものは全てここに入る)のオンライン・カタログで "Waterman, Mark" と著者名を入れると出てくる。自分でも不思議なのだが、LC にある本で Mark Waterman という著者はいまのところ私しかいない。Mark という名も Waterman という姓も少しも珍しいものではないのに、Mark Waterman という名でアメリカで本(薄いパンフレット等は除く)を書いている人は私しか(今のところ)いないのだ。(なお、私の日本語の本は別の名前で出版したが、近刊書のMark Waterman はペンネームではなく本名だ、念のため。)
MWW
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