Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

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American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Wednesday, October 25, 2006

Religion, Arts, Theology, and Philosophy

宗教、美術、神学、哲学


常連コメンテーターあがるまさんの話題は、上記のエントリーの全てにわたっており、blogger である私のほうが刺激を受けている。中でも、彼の美術の造詣に付いて行くのはなかなか難しい。前々回のエントリーに(ならびにそれより前の私の書いたこと等についても)旅行先から次のようなコメントを寄せられた。なお、各段落に付けた番号は私のもので、それぞれ順に応答するつもりである。

あがるま said...

年寄りの土着民の言ふことだから、古くからのものだと云ふこともないさうです。飛行機を見た南洋の島の人がそれを昔の大きな鳥の話とすることもあるさうですから。(I)

習慣や流行は意外に早く伝播するもので、却つて周辺の方がその影響が強かつたりします。パルメニデスにインド思想の影響が感じられたり、プラトンがエジプト的であつたりする訳です。(ギリシア美術にはオリエント様式と云ふ明確な時代様式区分があるので一時は圧倒的な影響を受けたことは慥かですが。)その過程で当然語句の意味内容が変化することはあるのでせう。(II)

前にイエスのはぐらかす言動について文句を言ひました。対象言語とメタ言語の相違を故意に混乱させてゐるやうに思ふからです。(ペテロのクレタ人の嘘つきの話も、突然出てくるのですが、どんな必然があつてそこに置かれてゐるのでせうか?単なる枕詞?それとも誤記でせうか?)(III)

「カエサルのものはカエサルに」と云ふのも良く分りません。デナリア銀貨に皇帝の顔が刻印されてゐて、銀貨は兵士の給料や褒章として皇帝から与へられるものだから元々皇帝のものだと云ふだけのことでせうか。それとも宗教とお金とは関係ないと云ふことを仄めかしたのでせうか?(IV)

当時のコンテクストに戻して意味を取るのか?
後代の読者の方が著者の意図をより正しく理解出来るのか?(V)

また大学教授の資格を厳密にすることと医師免許の定期更新は必要だと思ひます。法曹界も同様かも知れません。(VI)

当分沈黙しようと思つたのに、またつまらない話題で申し訳ない!


Dr. Waterman said

つまらないなどととんでもございません。今回もありがとうございます。

(I) 宗教学の、といっても第二次大戦以降のことですが、概念に cargo cult というのがあります。専門用語として日本語では何と言うのか分かりませんが、Google などで cargo cult または cargo religion と叩くと幾つか出て来ると思います。南太平洋メラネシアの現地人の言い伝えで、世直し的な救いと恵みが天からやって来るとの信仰(?)がありますが、飛行機からパラシュートで物資が降りてくるのを見て、今こそその時だと信じたそうです。

(II) 社会情報学では、流言飛語の速度が意外に早いことが知られています。古代においても都の出来事などは、少なくとも交通の速さに応じて各地に伝わったのでしょうから、おっしゃるとおり習慣や流行の伝播の速度は今と変わりがないのかも知れません。

美術様式の伝播については、中学や高校の教科書で見た程度しか分かりませんので、あがるまさんが今度は解説してください。

(III) 「私の話は嘘である」という人が正直なら、これは嘘であり、嘘つきなら本当のことになります。クレタの嘘つきを含めていわゆる「嘘つきのパラドックス」は、対象言語とメタ言語、すなわち言語の階層の問題のほか、言明(statement) の中に自己否定的 (self-refutable) な自己指示 (self-reference) を持つことも問題です。クレタ人の嘘では全称・特称の問題もあるでしょう。Diogenes Laertius の「ギリシア哲学者列伝」 (2:108) によれば、Eubylides が嘘つきの詭弁で有名とありますが、聖書に引用されたクレタの嘘つきの著者とされる Epimenides に関する Diogenes Laertius の記事(「列伝」1:109-115)には、「クレタ人の嘘つきの詭弁ないしパラドックス」はありません。 後代の人が「クレタ人の嘘つき」をただ利用してパラドックスの問題に仕立てただけだと思います。

「クレタ人の嘘つき」(もう一度言いますが、パラドックスのものとは違います)は、聖書に二度出てきますが、いずれもパウロの言葉です(あがるまさん、ペテロではありません、ペテロとパウロは僕もよく言い間違えます)。一回目は誰の目にもはっきりな、「テトスへの手紙」1章12節で、「クレタ人の嘘つき」とそのままで出てきます。もう一箇所は、予備知識がないと分からないところ、「使徒行伝」17章28節です。アレクサンドリアの Clement (ローマの Clement というもっと有名な人がいますので必ず「アレクサンドリアの」と付ける)が、これらのパウロによって預言者とか詩人と呼ばれている人物はクレタ人 Epimenides であると特定しています。そして、Epimenides の「テトスへの手紙」への引用詩は、「使徒行伝」への引用詩に繋がります。パウロの「クレタ人の嘘」は、「キリストが生きていないという嘘」を、Epimenides の言う「ゼウスが生きていないという嘘」に掛けたもので、意味はストレートであり、クレタ人の嘘のパラドックスとは関係がありません。

なお、Diogenes Laertius は、Epimenides も他に2人いると書いていますが、その2人も関係はないでしょう。それにしてもパウロは博学だったのですね。ところで、「ギリシア哲学者列伝」は岩波から日本語版がでているはずです。翻訳者の加来彰俊先生には個人的な借りがありますが、先生は覚えていてくださるか。お会いしたい。でも、その前に、加来先生の近著「ソクラテスはなぜ死んだか」を買って読まなきゃ。

(IV) (ちょっと疲れてきたが、頑張らなきゃ。)カエザルの銀貨は、聖書のマタイ22章、マルコ12章、そしてルカ20章にあります。ちょっとお手元に聖書があれば紐解いていただければありがたいと思います。ここまで来ればお分かりでしょうが、あがるまさんのこの質問は上記の話と一貫したテーマで繋がれています。

イエスの当時のイスラエルは、ローマ総督の支配の下にありました。建前として、イスラエル人はローマに税金を納めなければなりません。しかし、イスラエル人も様々で、イエスが嫌いということでは一致しているのですが、神殿宗教重視のサドカイ派あるいはヘロデ派と言われる人たちは親ローマで、内心信仰重視のパリサイ派と言われる人たちは、どちらかというと反ローマです。

もしイエスが「ローマに税金を納めなくてよい」と言えば、ヘロデ派はローマに対する反逆者(当然死刑)として訴えるでしょうし、「納めなさい」と言えば、パリサイ派はイエスに従って来ている信心深い人たちに、「それ見ろ、イエスは偽善者だ」と言って糾弾するでしょう。イエスの答は、想像もできないものでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

この銀貨には、ラテン語で時のローマ皇帝「Tibelius Caesar Augustus」の銘があって、彼の肖像があります。ところで、ローマに納める税金は勿論この銀貨でいいのですが、神殿に納めるお金は神殿用の別のお金に両替する必要がありました。だから、実際は肖像のある銀貨(偶像を刻んだ異教徒の穢れた銀貨)は神に捧げることができないのであり、神に捧げたかったら別の銀貨に換えなければならなかったのですが、意表を衝いた名答であることに変わりはありません。

(V) 以上のように、当時のコンテクストに合わせないと真意を読み違えることがあります。普通、著者の意図は著者が一番分かるでしょう。しかし、それを読む現代人は、当時の著者に身を置かなければ、すなわち当時のコンテクストを確認しなければ、著者の意図を窺い知ることができません。

しかし、後代の状況においても変わりなく解釈できることも勿論あります。例えば、古代人は迷信深いなどというのは、古代のコンテクストに合わせてみても間違いであることが分かります。程度の差では、古代人のほうが迷信深いのでしょうが、古代のインテリの多くは、奇跡もまた死人の復活なども、今の人々同様信じてはいなかったのです。パウロが復活の話になると、皆がまたホラ話かという顔をする場面は多いのです。例えば、使徒行伝26章のフェストスの言葉(24節)やアグリッパ王の言葉(28節)を見てください。

これに関連して、男も女もないのエントリーで申し上げたかったことは、現代の女権やゲイ権論者の多くが、現代のコンテクストから自分たちの論拠を得ているのに、最後は古代のコンテクスト無視のままで聖書も根拠として結び付けようとするのは出鱈目だということです。

(VI) おっしゃる通り。しかし、アメリカの大学教授の制度には tenure というものがあります。普通、assistant professor (日本の専任講師)からフルタイムの大学教員の仕事が始まりますが、フルタイムだからといって終身雇用ではありません。一定の期間(大学の事情によりまちまち)、研究も教育も上々であり、十分に資格ありと認められて初めて tenure (終身雇用と訳されることもあるが必ずしも終身の完全な保障ではない)という安定した身分になります。Tenure の前にしっかりと資質が吟味され、ダメ教授を産まないようにしているわけです。

もう寝ます。

Comments and Bloggers' Responses

コメントとブロッガー達の返答


私のブログへのコメントの仕方は、ブログ開設に当たってのご挨拶(September 13, 2006)の二日後9月15日のエントリーに書いてある。匿名で安心してできるが、コメントの見出しが出ないのと、一々私自身がリリースしないと現れないのが、日本の普通のブログと違って不便である。セキュリティーのためらしいが、私はなるべく頻繁にどこかのコンピュータにアクセスしてなるべく早くリリースするし、返事も書くつもりだし、見出しが出ない分はエントリーで補うつもりでいる。

なぜ今また、こう書いているかというと、ブログ仲間が宣伝してくださり、初めの頃より比較すると3~4倍の訪問者があるようになった。その方々にも気軽にコメントいただきたいと思ったからだ。そもそも私は、上記の「ブログ開設のご挨拶 My Friends, I'm Here . . . 」にも書いたが、この夏日本語のブログにコメントを置いてきたことが、Blogger の一人になったきっかけだった。

ブログでただ思いを吐くだけで反応がないのは寂しいものだ。また逆に、コメントしたのに Blogger の反応もないのは自閉的で無責任だ。何のためのブログなのか、Blogger の価値観、人生観もさまざまだと感じる。

何のためのブログかというと、私の場合は対話であるから、コメントを下さる方は嬉しい。そして、「馬鹿の壁」(例の養老先生の)の勉強になる。何でも反対反対のうちは馬鹿の壁なのだ。馬鹿の壁があることに気づかないうちは、対話など成り立たない(昨日のエントリー参照)。気づいて馬鹿の壁が何かが分かれば対話の可能性が出てくる。そして、それにはお互いの努力が必要かも知れない。

今朝は、仕事もしないで朝からブッシュ大統領の定例記者会見をABCで見ていた。アメリカの新聞記者はおおむね行儀がいい。民主党に属するような記者でも実に礼儀正しい。イラクからアメリカ軍が撤退する予定日やどこまで行ったら勝ち負けの基準点(benchmark)とするかなどに集中したが、もちろんそんな基準などありはしない。質問が土台間違っている。終わって例のごとくABCのコメンテーター George Stephanopoulos はまともに答えていないと評していたが、私には、変な質問に対しても親切で具体的で分かりやすかったと思っていると、直後に Diane Sawyer 女史がポジティヴなまとめをやってくれた。ダイアン(代案?)ありがとう。

Stephanopoulos は名前から分かるようにギリシア系で、父親はギリシア正教会の聖職者。自身も Columbia を優等(summa cum laude これより上に magna cum laude 最優秀があるが) で卒業したあと、Oxford で神学の修士号を得ている。クリントン政権の報道担当からABCに移った。左よりのABCには持って来いの人物だろうが、この数年は以前に比べて「アホかいな」のコメントが多い。前は、私とは違う意見だが、なかなかなジャーナリストと思っていたが、最近はこちらがボケたのかあちらがボケたのか。まあ、若いうちはシャープなのにその後はさっぱりという人も多いからね。