Oy vey! In the Catholic Biblical Quarterly?
うへ~、季刊カトリック聖書学と来たもんだ!?
私の本の書評がまた出ている。アマゾンなどの一般書評ではない。専門家が専門誌に書いたものだ。米国カトリック聖書学会(The Catholic Biblical Association of America)の機関誌で季刊誌の Catholic Biblical Quarterly (CBQ)に載っている。今年の1月号(第70巻、2008年、p. 175-176)に出たばかり。今回のは前回の Review of Biblical Literature (RBL)に載った書評とは一味違う。前のRBL のはほとんどほめてばかりで、しかも私自身の要約まで使っている気の抜けたようなやつだった。しかし、それでも、メジャーな一流誌に載ったのだから、まっいいか、だった。
今度のは違うよ。明らかに戦い挑んでる。それでもね、私ははじめ、うへ~(Oy vey!)ローマカトリック様が取り上げてくださったわい。嬉ぴい、と思ったものだ。なぜなら、私の「墓が空だった」という内容の本は、どちらかというとローマカトリックの神学と伝統に近いからだ。ハンス・キュングなんて、アフォな神学者はもろ馬鹿にして書いたことは書いたが、概ねカト様には好意的な本だ。
ところが、ところがじゃ。評者の名前を見て腰抜かす。ぎっくり腰の上に、腰を抜かして、冷や汗たらたら。じゃじゃーん! N. Clayton Croy 兄ちゃんだー!!! オハイオ州の Trinity Lutheran Seminary のプロテで、顔は優しそうだが怖~い兄ちゃんクロイ先生だ。
どうやら、CBQ の意地悪な編集委員が彼に書かせたような気がする。なぜかって? 実は、私のほうが先に、彼のことをけちょんけちょんに書いてしまったのじゃ。案の定、パピルスの冊子体は「弱い」(私は「強い」と主張)と再び主張して彼の説の出ている本をちゃっかり書評の中で宣伝しているではないか。それ以外は反論してこないのは間違いを認めたのかな?
しかし、クロイの兄ちゃんはほめてるところはほめてるし、確かに彼の指摘した弱点は私自身意識していたところで、ごもっとも、と認めるしかない部分もある。しかし、パピルスは強いんだよ。そんなに軟じゃない。
いつか、この日が来ると思ったが、思ったより早かった。日本じゃちっとも話題になってはいないが、ヨーロッパの人たちも読んでいてくれるし、ようやく敵からの反応があったことはある意味で嬉しい。喧嘩の相手になってくれないで無視されるのは寂しいもんね。
あっそうそう、oy veh とか、oy vey iz mir というのは、イーディッシュの感嘆詞ね。ユダヤ人のじいさん、ばあさんがしょっちゅう声に出すが、若い映画評論家などが今でも言ってるよ。
ここまで書いたときに、思い出したことがある。日本のブログで読んだのだが、確か田川建三にからんだ記事だったと思う。イエスの生涯や地上のイエスはキリスト教以前であり、イエスの死後がキリスト教の始まりだ。だからキリスト教と言ってもイエス教とは言わない。更に、イエスはキリスト教の教祖ではない、などとも書いていたのを見た。
それは、歴史の解釈次第なのだが、一般的にはイエスの生涯=史的イエスは初期ないし原始キリスト教の範囲である。むしろ、歴史家の間で問題なのは、この始まりではなく初期キリスト教の終わりをどこにするかだ。コンスタンチンの何時をもって初期キリスト教の終わりとするかのほうが問題のようだ。私は終わりのほうは専門外なのでとくに意見はない。しかし、初めのほうはパウロからキリスト教が始まったとか、どうたらこうたらは、今じゃシリアスな学者は誰も言わないのよ。断言してもいい。イエスからキリスト教が始まったに決まってるじゃないの。
ところで、歴史には、古代はここからここまで、中世はここからここまでなんて本当はない。高校の歴史の教科書の常識は専門家の間ではないのだ。ここからここまでというのは歴史が決めるのではなく、歴史家が決めているにすぎない。