Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

My Photo
Name:
Location: United States

American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Sunday, November 04, 2007

Biblical Junk Themes

聖書をめぐるくだらない話題

最近、しばしばコメントをくださる南都隆幸さんから次のような質問が来た。長文のコメントの形で寄せられたものなので、要点だけここに引用する。全文は直接コメント欄を開いてほしい。南都さんは、すでにご紹介したプロファイルのほかに、40年にわたり英語とアメリカ社会に関心を持っていた様子が、そのコメントに詳しく書いてあるので、そのことについても直接 "Agalma in Egypt" のコメント欄を参照してほしい。以下は南都氏のコメントからの引用であり、[…]は途中の省略を表わす。

キリスト教社会や神学についての質問
   (1) 同性愛について   
   (2) 進化論について

[…]一つ目。キリスト教社会や神学では、同性愛というものをどのように考えているのでしょうか? […] 少なくとも、聖書を文字通りに読もうという態度を取れば、同性愛は罪であり、神ははっきりと「同性愛」の行為を営んではならないと言っていることになります。[…] いくつもそういう聖句があることは知っています。[…] 聖句を文字通りに読む人たちがいるかと思うと、それをあくまで寓話のように読み、自分たちでその時代や社会情勢に合った読み方をして解釈し直そうとしているように思える人たちもいます。[…] 神学の世界においては、この同性愛 (homosexuality) という問題をどのように扱っているのかと思いながら、アメリカを初めとする欧米社会をぼんやりと私は眺めています。

次に、二つ目の問題です。欧米社会においては、神が宇宙や地球を創造しただけでなく、動物や人間をも最初から現代のようにさまざまの種類の生き物を最初に創造したのだという考え方(創造論つまり creationism)と、神は確かに最初に生き物を創造したけれども、そのあとに Darwin の進化論の説くように生物は進化していった、という考え方(進化論つまり evolutionism)とが拮抗しているようです。さて、前者(creationism)のように進化論を認めない立場の人は、どれくらいいるんでしょうか? そしてそのような人たちは、どの程度に社会でインパクトを持っているのでしょうか?[…]このような原理主義的(と言うのでしょうか?)なキリスト教信者がアメリカにはまだたくさんいて、進化論を学校で教えるべきかどうかというような議論も盛んに行われていることは知っていました[…]。[…]このような進化論を認めない学校教育というのは、アメリカ(そしてその他の国)ではどのくらい流布しているのだろうか、と思います。

[…]Dr. Waterman の専門分野を外れていたり、この blog にはふさわしくない問題であれば、そのように仰ってくだされば結構です。[…] それぞれ、膨大な学問体系を成しているのだろうと思いますので、いくら Dr. Waterman が答えようとしてくださっても、そう簡単に私のような無知な人間に対して説明はできないような大問題なんだろうと思いますので、適当にあしらってくだされば結構です。[…] 

南都隆幸(なんと・たかゆき)http://8003.teacup.com/gosh/bbs

お答えします。しかし、おそらく落胆なさるでしょう。南都さんご存知のように私の現在のテーマは初期キリスト教ないしキリスト教の起源であり、もっと細かに言えばマルコの福音書の成立事情です。社会学一般を学んだ経歴はありますが、同性愛や反進化論の社会統計は関心外であるだけでなく(←したがって、この統計上の件については答えられません)、「同性愛問題issues on homosexuality 」や「創造論 vs. 進化論」については、キリスト者(Christian)としてご勝手にどうぞという立場です(←どうでもよい無駄話ということです)。しかし、無関心とは違います。「そんなことは、それぞれが勝手にやっていろ」という私なりの意見とその根拠があります。(以下、丁寧体を止めます。)

結論を先に言う。これら二つの議論は「大問題」などではなく、暇人の暇つぶしにすぎない。

(1)確かに、真性の同性愛者が現実にいることは無視できない。私自身同性愛者の親しい友人がいる。同性愛者と友人関係をもつのは、私自身が他の友人たちと接することと何ら変わらず、私自身の自然な生活の一部にすぎない。また、私はHIV患者をサポートする団体の店も積極的に利用することで微力ながらHIV患者(当然ながら少なからぬ割合で同性愛者が含まれる)と連帯したいとも思っている。しかし、私の乏しい医学知識での範囲だが、同性愛者のうちほとんどの場合は、後天的にあるいは社会的に構築された性向であり、その性向を生まないようにしたり、異性愛に目覚めさせることも可能だと信じている。

(2)創造論であろうが進化論であろうが、どちらかに与することができると思っている人間は不遜な馬鹿者だと言い切りたい。発生学や考古生物学などでこつこつと調査する真面目な学者に申し訳ないとは思わないのか。知りもしないことで大法螺を吹いたり、論理的飛躍どころか疑似科学で舞い上がる能(脳)無しは、どちらの側であれ、恐ろしくておぞましくてお近づきにはなりたくない。確かに、一部の私立学校では創造論だけで済ましているところもあるだろうし、簡略版(古典的)進化論で済ます学校もあるだろう。いい先生のいる学校に子供たちを送りたいものだ。

と、吼えたところで、南都氏の言う「神学の世界においては」の中身から行こう。「神学の世界」と言っても「キリスト教の世界」と同義ならばいざしらず、普通は信仰をいったん括弧に括って「学問的な探究を事とする世界」と解釈される。もっとも、探究者が信仰を持つか持たないかで探究の態度も異なるであろうが、その問題に深入りする必要はなかろう。第一、信仰があると言ってもあるいはないと言っても、どうせ個々の探究者の事情は一枚岩ではありえないからだ。

南都氏はこうも言う、「聖句を文字通りに読む人たちがいる」。しかし、神学の世界の意味を上記のごとく捉えれば、このような人々は、実は神学の世界には一人もいない。理由は多少複雑である。一般のキリスト教の世界の信者もまた信者でない一般の人も、聖書は一国の法律の条文のように固定した(実定の)文言によると思われるかもしれないが、実はそうではない。翻訳における訳文の違いという単純なものだけでもない。

日本の古典である『平家物語』でも高野本や屋代本など、テキストに違いがあるように、聖書のテキスト諸版(手書き写本)のどれをもって真正とするかの論議は絶えることがない。その上で文字通りと言う場合は、我々が大別する二つの解釈段階が関係する。それらはexegesis (exegetical method) と hermeneutics の二つである。手許に資料がないのと私には日本語による聖書学・神学の教育がないため間違っているかもしれないが、前者は釈義学、後者は解釈学と日本語では言うのだと思う。Exegesis も hermeneutics もギリシア語起源の言葉でどちらも解釈という意味であるから、本当は厳密な違いはない。

しかし、便宜上、前者は、テキストの文字面に集中し正確な語彙的知識と文法的知識を駆使して「どのような意味であったか」をあらゆる角度から(ただし、テキストそのものという範囲の中で)検討し、現代の言葉で捉える作業である。後者は、その exegesis を踏まえた上で、テキストの範囲から飛び出て、当時の社会的状況等を勘案した上で、言い換えれば、いったい「どのような意味であるのか」を探るものだ。しかし、この一見科学的に見える後者も、正確な古代史などの知識に基づかないと、現代人の勝手な解釈に堕する危険性がある。私がブログで度々言及するancient mind versus modern mind は、この危険性に対する留意点の一つでもある。以上の区別は基本的なものであり、種々の学派・個人によって千差万別であることは当然である。

さて、これで終わりかというと、まだ先がある。ごく大雑把な言い方をすれば、exegesis → hermeneutics と進んだ後に、狭い意味での神学(多少意味合いが変わるが組織神学 systematic theology と言ってもよい)が控えている。ここでは、聖書全体の整合性、すなわち他の聖句との関係上も無理なく解釈できるかという問題である。法律の条文も互いに矛盾した解釈があってはならないことに、このことは一理通じると思う。これで終わりか? いやいや、まだまだ先がある。ここまでの古典的な組織神学なるものは閉じられた体系の中での話である。この先は、正典聖書を超えた領域に自由に広がって行く。すなわち、種々の非正典文書や古代文献、更に単なる古代史を超えて古代人の心理や、それを解釈する現代人の価値観、ありとあらゆるものを巻き込んだ神学で、英語では fundamental theology(原理主義 fundamentalism とは全く逆なものなので混同しないように)あるいは単に theology と言う。

すると、この最終段階に至ると、もっとも精密な解釈が得られるのであろうか。答えは、yes and no。Hermeneutics で述べたように、勝手な解釈が逆に無制限に広がる恐れがあり、基本的な聖書本文や初期のキリスト教思想から甚だしく逸脱する傾向もある。日本の一部の神学者について私が為したコメントにも、これらの悪例があったはずである。もちろん日本だけでなく、世界中に単なる思い付きが神学の顔をして歩き回っている例は尽きるものではない。

だいぶ長くなったので、少しだけ応用に入ってとりあえず終ろう。私も贔屓にしている Ben Witherington III(何しろ三世様だかね、彼のブログも面白いから探してみるのもいいだろう)の十数年前の本(Conflict and Community in Corinth: A Socio-Rhetorical Commentary on 1 and 2 Corinthians)に第一コリント書6:9fに関して(p. 166)、その頃までの研究状況が平易に述べられている。まさに、この箇所に、日本語聖書新共同訳では「男娼、男色をする者」はよろしくないと書いているのである。ここでの「男娼」の原語は malakoi (pl.) 「男色をする者」の原語は arsenokoitai (pl.)である。 [べンのブログベンのホームページ←それぞれをクリックしてください]

実際において、この並立した言葉は、二語で一対の意味(二語同義)と取ることもできるが、二語別々の意味と取ってもいい。同性愛推奨派の神学者は、malakoi (sg. malakos) の原義「滑らか」から、また古代の用例から、これが通常の同性愛ではなく、滑らかな肌を持つ若年者、すなわち幼児・少年への性的虐待と解釈して、パウロ(コリント書の著者)は同性愛を非難していないとしばしば議論することがある。多分、この議論をどこかで読んだ方も少なくないはずである。

しかし、その後の arsenokoitai (sg. arsenokoites) はどちらがどちらの役をするにしろ、大人の一般的な男色に間違いはなく、malakoi だけを強調する議論には無理があることは明らかだ(なお、男女の交わり・密会に arsenokoites が使用された例もない)。むしろパウロは、ロマ書1:26-27においては、「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」と、明瞭に同性愛の不自然さとその不自然さゆえの結末を警告している(非難というよりは警告と取っていいだろう)。

時代を旧約にさかのぼり、レビ記18章を見ると、いとうべき性関係が羅列されている。ぜひ一読してほしい。実に丁寧に不自然な男女の関係が長々と述べられた後、お終いにやっと「女と寝るように男と寝てはならない」とあるのだ。多分、男と寝て何が悪いと反論する人の多くは、この前にある男女の不自然な関係については異論がなかろう。すると、ここだけ反論し、不自然でないと主張することも考え直してみる必要があるのではなかろうか。

自然、不自然という分け方に反発する方も少なくないことはわかる。最初に申し上げたように、例外的に異性愛が自然にできない医学的資質があることも事実だからである。(私は、見かけは両目だが、実際は生まれたときから片目である。通常は生来の訓練で片目でも距離感を取れるが、空に舞い上がったボールなどは全く距離感がなく、野球のグラブに受けるのに前に出ればいいのか後ろにさがればいいのかわからない。多数の人々とは違う医学的資質だが、これを異常といわれれば確かに腹が立つ。)しかし、不自然にする必要もない人が、ことさら不自然にしていたらどうであろう

少なくとも福音書の記述によれば、生涯結婚することのなかったイエスだが、例えば、私の紹介した『秘密のマルコ伝』などを根拠に、イエスは男色をしていたと主張する学者もいる。しかし、かなりの飛躍があると私は思う。イエスの愛した旧約聖書の初めには、神が男(アダム)と女(イヴ)をつくり、「産めよ、増えよ」(創世記1:28)と祝福したとある。男同士であるいは女同士で子供はできまい。もちろん男と女だから子供がいるとは限らない。(私と細君の間に子供はいない。)しかし、男同士があるいは女同士が結婚の真似事をして、養子を迎えたとしても、その子が「自然に」育つのであろうか。そこに至ると、単なる同性愛者の傲慢と我侭のような気がする。ここには救いなどありようがない。むしろ、まともな(あるいは普通の)同性愛者なら、パウロがあるいはレビ記の記者が心配したように、その不自然さに由来する心の問題に悩まされているのではなかろうか。

かなりの長さになり、読まれる方も大変だと思うが、進化論との関係を簡単に述べる。(後は、どなたでもコメントやクエスチョンをくださったら、そのとき詳しく述べることにしたい。)「無からの創造」(この言葉は旧約正典の創世記にはない、旧約続編の第二マカバイ記7:28参照)の業は、進化論とだけ対比されるものではない。さまざまの論点があるが、一つだけ述べたい。

我々は一つのアメーバから進化したとしよう。人類になってからも我々は親子孫の繋がりの中で、血筋からの祝福あり、また血筋ゆえの怨念もあるが、一律の進化の実感はめったに浮かぶことはない。ただただ、自分は進化の中で最も親しい(近い)はずの親、兄弟、子や孫とも違う一個の、また唯一の我として世界に投げ出されている。この我、私はどこから来たのか。

帰って来てからここまで書いて疲れたが、そういえば神は六日間で天地創造の業を為し終え、七日目に休まれた。今は世界のほとんどすべての人が七日間のサイクルで食べて寝ているのだ。私ももう寝る。書きなぐって見直していないので誤植もあろう。明日になったら見直して書き直そう。今日はこれまで。お休み!