Rapture: "We Will Be Caught Up . . . ."
AAR/SBL 2006 報告
一昨日の夜遅く帰ってきて、疲れ果て、あがるまさんへの Coulanges 著「古代都市」に関する簡単な返事をした以外(エントリー "Between the Scylla and the Charybdis" のコメント 参照)、ブロッグへのアクセスもままならなかった。本当に疲れた。今日は、感謝祭だ。少し元気。
エントリーの "Rapture" という言葉は神学用語で、ラテン語の rapio (ギ harpazo)から来ているが、意味は「携え挙げる」とか「引き上げる」ということで、キリスト教会あるいはクリスチャン達の未来のハッピーエンドの姿とされている。パウロがギリシアの北方マケドニアのテサロニケ市にあった教会に宛てた手紙の中にこう記されている。
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」(第一テサロニケ4:16-17 訳は「新共同訳」)
学会中にこの言葉を聞いたのは、Harvard の Elisabeth Schüssler Fiorenza 小母さんが座長をしていた「アメリカの聖書学に関する大学院教育」のセッションでのことだが、 Yale の Adela Yarbro Collins 姉さんが、キリスト教信仰を持った学者が少なくなった神学部や宗教学部の現状を、「もう rapture (携挙現象)が来てしまったのかと驚くほどだ」と表現したので大笑い。つまり、世の終りに、再びこの世に来られるキリスト様(再臨のイエスキリスト)が、天に連れて行ってくださるのはキリスト教信仰のある人たちだけであり、それ以外の人たちはこの世に残ったままになる。今の神学部には、キリストに携え挙げていただける学者は残っていないという皮肉である。
このセッションの内容は、いずれまた記すだろうが、今は Elisabeth 小母さんの居眠りだけばらしちゃう。Elisabeth 小母さんのことは、とてもいい本だから「アメリカの公共生活と宗教」(玉川大学出版部、1997)か、Wikipedia でも見てください。ともかく、三日目の午後の、しかも4時間の長丁場のセッションとなると皆へとへと。壇上の彼女を下から見ていると、眠気やあくびと戦っていて、発表さえろくに聞いていないのは明らか。とうとう(かすかな)ドイツ語訛りで「眠くて大変」と白状した。小母さんじゃなくて、もうお婆さんだものね。(でも、小柄でニコニコ顔の可愛いお婆さん。)
Wikipedia といえば、上掲の写真を見てほしい。SBL会長講演のスライド(パワーポイント)だ。Wikipedia と google.com が信頼できると書いてあるだろう。もちろん半分冗談、しかしいつも私が持論にしているように、半分あるいはそれ以上が本当のことだ。
土曜の夕方到着して、初めから聞きたかったこの Pennsylvania のRobert A. Kraft 先生の「パラマニア(Para-mania)」という話は終りのほうしか聞けなかった。どうせ機関誌に全文が載る会長講演だから、いずれ全容はわかるのではあるが、とんだトラブルがあったからだ。到着が遅いので一言言っておくべきだったとは思ったのだが、いわゆるホテル側のダブルブッキングで、お願いだから一晩だけ彼らの手配した別のホテルに泊まってほしいというのだ。私が学会会場が近いので決めたホテルなので、当然ながら、行き帰りのタクシー代も払うと言う。カウンターでマネージャーと多少揉めたあとそのホテルに向かったが、部屋はなんと3室スイート(寝室、居間、書斎の3部屋)で本来は400ドルくらいのレベルらしい。私のような貧乏人は、初めは喜んで「やったー」と思ったのも束の間、インターネットテレビの誤操作で12ドルも取られるは、行き帰りのタクシーに乗るのも面倒で、朝15ドルの食事をしてから(いつもなら3~5ドルだが、ここはそんなのない)すぐにチェックアウトしてしまった。
マニアという言葉は説明する必要はないだろう。パラ (para) という言葉はオルト(ortho、オーソ) に対するもので、オルトが「正」なら「属」とか「周辺」という意味である。なんとなく、オルトより低級な感じがする。現代英語でも、裁判官、検察官、弁護士のような正式の法律家でなく、法律家の手助けをする人たちを paralegal と呼ぶし、医者の周辺で働く人たちは paramedical と呼ばれている。そのことに掛けて、パラのほうではなく、逆にオルトを皮肉った話である。
終りしか聞いていないので誤解しているかもしれないが、Kraft 先生は、昔から正規のルートには乗らない情報があったという内容を話したらしい。そして、その結論は上掲の写真、google.com と Wikipedia という、学界では正規(上等)といえない、現代の周辺情報のすすめとなる。Kraft 先生は、Harvard でキリスト教の起源で学位を取り、新約学のみならず七十人訳聖書の研究者で旧約にも詳しい(「七十人訳聖書」とは、ヘブル語からギリシア語に訳された旧約聖書のこと)。有名な papyrologist (パピルス古文書の専門家)でもあり、傾向的な James M. Robinson や John Dominic Crossan よりも、日本に紹介したい学者の一人と私は思っている。彼は、実際にウェッブ上で自分の研究を積極的に紹介しているので、Robert A. Kraft と叩いてみてください。
さて、上の万歳の先生は、史的イエスの第4巻目を出そうという、例の John P. Meier 博士。元気一杯、鼻っ柱健在。ユダヤ教学者や、プロテスタントの穏やかな学者に何を言われようが、わが道を行く。
机を叩き、両手を挙げて(右手の指に絆創膏が笑えるが)、聴衆の学者連を相手に、「お講義」まで始めちゃう。でも、この際、生徒は学者連で「超」優秀な生徒ばかりだから、乗りがいい。先生が聴衆相手に、「ここでマルコ伝では、イエスが何と言った?」と聞けば、聴衆は(ちゃんとギリシア語で!)「私がそうだ」と答えると、それでは「マタイ伝では?」と更に先生畳みかける。生徒(聴衆)も(またギリシア語で!)「それはお前が言ったこと」と答えるから、先生ご満悦。
それもそうだよね。カトリック大学で反応の弱い学生を相手にしているよりは、ここは打てば響くんだから。それに、普段は話し相手のいない神父様。一人でしゃべりっぱなし。でも、こういう一途な人って好きだな。そういえば、原稿を読んで60 分(!)の発表をしているときに気づいたが、ミサのときみたいに語尾を上げて読むんだ。おかしくて笑い出しそうで困った。
話の内容だが、イエスの「誓いの禁止」に関するものである。ユダヤ教学者は「そんなことは元々ユダヤ教徒もする」と言い、うちの学校のマタイ伝の専門家 Donald Hagner 先生は「マタイ的編集」と言うのだが、Meier 先生は絶対(!)史的イエスのユニークなものと主張しているのだ。
その他の N.T. Wright らの写真も撮ったのだが、いずれまたこの学会の話はするだろうから、今日はここまでにする。感謝祭の食事に人を呼んでいるので準備をしなければならない。
あっ、忘れていた。右上の小さな写真で、Meier みたいに両手を挙げているのは Dr. MWW。ナイトクラブじゃなくて、会長講演の後のレセプションでのシーン。Meier のまねじゃないよ。この写真は彼の発表の前の日だから。