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予告とお知らせ
前回のエントリー Secret Gospel of Mark の日本語訳に7つのコメントがあります。最後のコメントは再びあがるまさんからのものですが、それらの紹介と今後のエントリーの予告をしたいと思います。
前回の記事には幾つかの伏線(あるいは複線)がありました。Secret Gospel of Mark の発見者スミスの前に彼の助手でユダヤ教学者ヌースナーが登場し、このヌースナーをローマ法王ラッツィンガーが誉めているという話題があり、法王の近著『ナザレのイエス』の紹介があったのです。ここまでの経緯は過去の記事を見ていただければいいので、時間のある方はどうぞお読みください。
実はあがるまさんが7つ目のコメントとして入れてくださったFAZの記事が何かはわかりません。ドイツ在住のあがるまさんが言うFAZとはもちろん「フランクフルターアルゲマイネ紙」(Frankfurter Allgemeine Zeitung)のことですが、どの記事なのか該当するものがよくわかりませんでした。ただ、FAZのネット版で書評がありましたので紹介しますと、4月13日の記事(こういうところには出版前から書評用として本が送られています)でクリスチャン・ガイヤー(Christian Geyer)という中堅の(1960年生まれ)FAZの評論家(カトリック系らしい)が書いたものがあります。ドイツ語ですがここにありますからクリックしてください。
確かにこの中でガイヤーは、意地悪に取ればですが、法王の言葉とは裏腹に、学者個人というよりはカトリック教会の指導者の立場で書いているとか、史的イエス研究の方法論を認めながら結局は「信仰のキリストが(法王の)史的イエスになってしまっている」と言っています。しかし、私の未完の書評(本もまだ予定の半分しか出版されず未完だから未完)にも述べたように、正典聖書の内容は史的イエス研究が進めば進むほど正確であることがわかってくることの証明であると、法王は言っているのであって、聖書本文の解釈自体はかならずしも伝統的なものではなく、法王自身のものである印象が私にはあります。また、3大世界宗教の中で、史的研究すなわち世俗的研究がこれほどフィットしている(あるいは世俗化に適している)宗教はキリスト教以外にないかもしれません。
Bart D. Ehrman の昨年上梓した『PPM』(ピーター、ポール、あんどマリー、すなわちペテロとパウロとマリアですよ、もっともマリアはマグダラのマリアですが)を今まで読んでいなかったのですが、朝から断続的にですが読んでいます。 田川建三ともからめて(からめられるかな?)少し書きます。書評というよりは印象になるかもしれません。多分、日本語で都合の悪いことは英語で、英語で都合の悪いことは日本語になります。一両日中にオンします。