One of Bataille's Views on Islam
バタイユのあるイスラム観
Passerby さんに教えていただいた斎藤環氏の茂木健一郎氏に対する第一回目の公開書簡をコピーして出先に持って出かけた。斎藤氏が提案されたように、座談形式というのは学問的には実りのないものである。ほとんどエンタテインメントの読み物になってしまう。完全ということはないにしても、文書での議論がいいというのは、学者の常識でもある。その際、議論が精密専門的になるため、一般の読者には読むことが負担になることも多いので、座談会形式の軽い読み物よりは売れないだろう。偉い出版社だ。しかも、発刊前に無料で公開するとは。
『学士会会報』で読んだ茂木氏の文章と比べると、斎藤氏の文章が数段大人である印象を受けることは否めない(2人の年齢の差は1歳)。斎藤氏は、「超越性」と「超越論的」などの基本的哲学用語の区別なども的確のように思えた。ただし、彼の立場とするポストモダンと脱コギトについて、今後の書簡でどのような展開をするのかは予断を許さない。また、読んでいて、苦笑した部分もある。齋藤氏が医学の本道にいて、脳についても素人でないことを誇示するくだりである。一種の、茂木氏に対する科学者としての威嚇行為とも見える。
シュヴァイツァーが同じことをした。いつも書いているように、アルバート・シュヴァイツァーは本来は史的イエス研究の神学者であるが、後に医学を修め、医療とキリスト教伝道の実践者に転じた。パイプオルガン演奏の一人者でもあった。日本語訳があるのかどうかもわからないが、たまたま英訳の彼の著作 Psychiatric Study of Jesus という小冊子を10年ほど前に読んだことがある。3人の論敵があり、その3人に痛烈な打撃を与えるという、ある意味では、激しかったシュヴァイツァーの性格を彷彿とさせるものである。
記憶が定かでないため細部に誤りがあるかもしれないが、この3人の論敵は1930年当時流行の科学主義に立つドイツの知識人であり、イエスを、ざっくばらんに言えば、気違いか変質者であると主張していた。シュヴァイツァーはこの3人に敢然と異議を唱える。まず、その内の1人に対しては、「自分は神学者であるから断言できるが、あなたは聖書の知識もあやふやではないか、まともな議論にもならない出鱈目屋だ」と罵倒する。後の2人に対しては何と言ったか、ご想像あれ。
「私は正真正銘の医学者でもある。彼の脳や精神状態に対する判断はあなた方より数段上である。」
大意として以上のようなものだった。この権威主義的(←根拠のない権威主義ではないので必ずしも否定的に評価してはいけない)議論の段取りを思い出す。思わず、微笑んだ次第である。
そんなことをしながらも、バタイユ(Georges Bataille)の Théorie de la Religion (1973) を小脇に抱えていた。これは日本語訳が最近出ていたと思うが確かではない。ともかく、バタイユの死後の出版であり、原稿としては未完成のような気もする。その中に、先日書いたレヴィナスのイスラム観のように、今日現在一般に見られるイスラム観とは違う(どちらかというとレヴィナスに共通する)イスラム観があったのでメモする。もっとも、第二次大戦後の仏領フランコアフリカ諸国はイスラム国であったわけで、二人の事情は共通する。本書の末尾近くから引用する。イスラム教が本来軍事組織であったことを受けて、
「しかし、初期イスラム教について妥当することが、その後のイスラム教については、いささかも適用できるものではない。ムスリム帝国の拡張が、いったんその限界に達してしまうと、イスラム教は一種の完全な[神の]経綸(economie 神の目的)としての救いそのものに集中することになる。イスラム教は、キリスト教よりもおとなしく、より一層痛ましい様相の単なる[和平の]調停者となってしまった。しかしその結果、キリスト教のごとく、イスラム教はぜいたくな霊的生活を呼び起こすこととなった。神秘主義と禁欲生活(monachisme)が展開され、美芸は原則として偶像破壊主義(iconoclasme)のうちに留まるので、すべての面で合理的な単純化へと逃げ道を探さざるをえなくなった。」
その結果、イスラム教は、他教世界との平和を保つ中で、イスラム教内部での抗争が始まり、逆説的にだが、各宗派の多様な救いの形がかえってイスラム教を安定したものとしたのだそうだ。
イスラムの世界も奥が深い。再び仲良くしたいものだ。わが街は今日 Rosh Hashana でユダヤ人たちが「シャーナ・トーバ(新年おめでとう)」と挨拶を交わし、ユダヤ人建築事務所が請け負っている隣家の工事も今日は休みだ。そして、仲良くイスラム教徒の Ramadan が今始まる。