人の運命の分かれ道
神学部宛にとぼけた手紙が来て、さて何と返事をしたものかと思案しているうちに寝そびれたのでコンピュータに向かう。手紙というのはある国際的な出版社からのもので、自らも Ph.D. の学位を有する編集者が私の学位論文に目を付け、出版したいというものであった。出版したい原稿や著者を物色するこの手の編集者を acquisition editor と呼ぶが、間抜けな編集者もいたものだ。神学が専門ではなく、哲学が専門の方かもしれない。
このブログの読者ならご存知のとおり、その論文は昨年本になり、今年になって専門誌の書評にも取り上げられた。極めてマイナーな新興の出版社からの本なのにである。問題はそこだ。この国際出版社なら、もっともっと宣伝が効くから、ここから出してもらったほうがよかったかな、という一種の欲張り心の芽生えが目を冴えさせたのかもしれない。私の場合、論文ができあがるかできあがらないうちに出版の話は進んでいた。私も出版は早ければ早いほうがよいと思った。内容的には長期の役に立つものではあるが、最新の動向についてもいち早く論評している部分が多いので、早い時期での論争を期待したからだ。
それにしても、この編集者は論文がすでに出版されていることをなぜ知らないのだろうか。一つの理由は前述のとおり、神学分野の人ではなかろうということだが、最大のものは Dissertation Abstracts に登録された私の名前が微妙に違うからだ。本名は Mark W. Waterman でいいのだが、著作によって多少複雑なミドルネームなどが混じっているから特定が難しい面もある。すべて私の責任だが、複雑な個人史があって已むを得ない。しかし、それにしても、もう少し丁寧に調べれば既刊であることはわかっただろうに、人騒がせな編集者だ。(それでも、評価する出版社が他にも出てきたということは、私の自信にはなった。学位論文などというものが出版されること自体、極めて稀なのだから。)
論文は出来たときにその運命がすでに決まっていたように、人間も生まれてきたときに運命が決まっているのだろうか。いや、そうではないというのが、これからの話である。
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今度の日曜日は復活祭から50日目、すなわち五旬節、ペンテコステのお祭(七週祭)だ。LAウェストサイドの某教会で説教を頼まれている。説教題は「神の約束と神の証」として返事しておいた。聖書箇所はヨハネ伝14章と使徒行伝2章となっていたからである。
この説教のことを頭の片隅に入れたまま Emile Puech 先生(École Biblique et Archéologique Françes de Jérusalem の教授)の昨年出た Jesus and Archaeology (http://www.amazon.com/Jesus-Archaeology-James-H-Charlesworth/dp/080284880X)に所載の論文を読んでいた。(ねっ、勉強もしているのだ。)
専門的な議論はまたの機会にして(ブログでは永久に来ないかもしれないが)、彼の論文の枕の中で、「人の運命は死ぬときに決まる」と何気なく書いているのが妙に気にかかった。確かに、二人の犯罪者(悪人なのか、何の犯罪者なのかわからないが磔になるのはいずれにしろ重罪人)がイエスの両脇にいて同時に処刑される際、自分の罪を言い表した犯罪者に対して、イエスは「今日あなたは私とともにパラダイスにいる」と言っている。
サドカイ派によると、孔子的なもので、あの世のことなど頓着するものではないことになる。しかし、パリサイ派に限らず、ユダヤ的な思想の底辺にはやはり来世思想が流れていたことは大方が認めるところである。この中から誕生したキリスト教はイエスの復活から始まったのであり、復活思想と再臨・最後の審判思想はキリスト教の中心的教義と考えてもいい。しかし、その内容は必ずしも一枚岩ではなく、プロテスタントの多くは、煉獄思想(天国と地獄の中間にあって、該当する死者に一定期間の浄化を義務づける来世)を聖書的根拠なしとして認めないが、カトリックもユダヤ教もこの思想はある。ただし、浄化義務を強調する Shammai 派(例えばバビロニアン・タルムード b. Rosh-hashana 16b-17a 参照)に比べ、Hillel 派は万人救済に近い。
人間がこの世で行った善行と悪行の数々がトータルされ、差し引き何ぼのものではないようだ。確かに、生まれてしばらくは善人だったとしても、成長に従って悪が嵩じ極悪非道となったなら、どこから見ても悪人だろうが、人生の大方を善人で過ごしたのに死の間際になって鬼畜の所業をしたなら、何処へ。
わからない。差し引きの余りがよかったら、地獄へ直行ではなく煉獄くらいには入れてもらえるのだろうか。ただ、はっきりしているのは、つまりイエス・キリストの使信は、死に際の一瞬の間にでも悔い改めた者には賜物として命の聖霊が宿るということである。霊は永遠である。だから、ペンテコステの祭の日(申命記16章参照)、ペテロは使徒行伝2章40節で力強く証したように「邪悪なこの時代(世)から救われなさい」と必死だったのである。私のために、あなたのために、万人のために。(あれっ、いつの間にか説教、絶叫。)