Para, Para, Para, . . .
パラ、パラ、パラ…
[…]歴史やテキスト本文に関わる問題で、時おり単純化した答が見受けられるが、通常はそんなに簡単ではないというのが、わたしの印象だ。もちろん、教鞭をとるにあたっては、しばしば単純化する必要もある。しかし、教授するにあたって、教育の方便のために「大きな絵柄」の細部を無視したり圧縮している事実まで、学生に隠す必要はない。(Robert A. Kraft)
確かに、単純化して、時には図式化してあげたりしないと、先生の講義はワカンネーなどと抗議、いな脅迫されるからね。パワーポイントなどを使ってご機嫌とって涙ぐましいもんだ。真理がそんなに単純なわけがないが、単純にするのが上手な先生は人気がある。
まっ、この引用した文章(原文英文、拙訳)は、直接そんな小さなことを言っているわけではないが、学問の何たるかを言い表した Robert A. Kraft 教授の昨年11月のSBL会長講演での一節である。結局、たいしたことはなかったが、約束なのでブロッグ風に(何を言ってる、Blog そのものじゃないか)だらだらと内容と印象を述べる。(http://markwaterman.blogspot.com/2006_11_19_archive.html
参照)
昨日までの移動の間にSBLの Journal of Biblical Literature 126(1):5-27 [US ISSN:0021-9231, Spring 2007] にある Robert A. Kraft, “Para-mania: Beside, Before, and Beyond Bible Studies” に目を通した。三つの部分に分かれている。
(咳のせいで寝不足で具合が悪く、細君に運転してもらったくらいなので、出先で友人の医者にロハで診察してもらった。坊主はともかく、医者と弁護士の友だちは心強い。なにしろロハのこともあるので、貧乏なわたしにはありがたい。血圧・脈拍・聴診・喉の視診の結果、心臓・肺・気管支には一切異常なく健康とのこと、ただ風邪の後遺症かアレルギーで、鼻から出る透明な液体が喉を刺激するので水を大量に飲めと言われた。氷水を飲んでいたら確かに落ち着き、一安心して読書したというわけ。)
第一部は、聖書と言われているものが、旧約であれ新約であれ、また両方一緒であれ、物理的な形で1冊の本ないし巻物であったのは、現存するものに限れば高々4世紀以降のものであり、その他の傍証(ex. 正典史)からしても、古いものではないという話が続く。話自体は目新しいものではなく、われわれの<常識>の範囲だが、しばしば「パウロの使用した聖書は云々」などというフレーズに出会うとき、一般の人は牧師が1冊の聖書を小脇に抱えているような想像をするとも限らないので、それなりに面白い話かもしれない。ここでは<本>という形になったものの話題だが、その中にも Before(前資料、ex. ルカ伝の書出しを見よ)、Beside(並行して出版・流通した諸版、ex. マルキオンの独善的なパウロ書簡とルカ伝による聖書)、Beyond(以後の発展と改変等、ex. わたしの研究にあるようにマルコ伝末尾の諸版)の多様な流れがある。
第二部は、テキスト(本文)生成までの流れの多様性を扱っている。1冊の正典ないし聖書になる前の話だ。しかし、更に、正典(聖書)の中の1書でさえ、それぞれの多様な歴史がある。幾多の古典と同様、<おばあちゃんの口伝>まで、テキストができるまでにはさまざまな要素がからみあっている。
第三部は、冒頭に引用したように、聖書本文(Bible text)の単純化に対する警告である。オッカムの剃刀の乱用と産湯とともに赤ん坊まで捨ててしまう愚かなことをするなと言うのだ。(オッカムの剃刀と産湯と赤ん坊の喩えは何とわたしの博士論文にも出てくる。お互いに好きだな…。)第一部、第二部に示したように、大きな絵柄の細部を剃刀でそぎ落として単純化し、わかったつもりになってはいけないのだ。例えば、キリスト教を国教化したあとのローマ皇帝が、並行してローマの異教崇拝を継続していた事実なども本当の絵柄にはあるわけだ。
しかし、これはわたし(MWW)の考えだが、全体構図(例えば、正典研究)を無視して、細部の特異な点に着目しすぎるのも戒められなければならない。クラフト先生は、ヘーゲル流に単純化している Wellhausen を批判していた。そう言えば、わたしも随分と度々わたしの論文の中で彼を批判した。これも似てるな。
さて、上記のわたしの11月の記事にあるような、Google、Wikipedia という話は、この講演の結びの部分だった。わたしは遅れに遅れて、この段階で会場に到達していたことがわかる。これらのメディアは本流ではないかもしれない。しかし、わたしも Kraft 教授も、学問の世界がこれを無視できないと思っている。第一、この講演の引用文献には、しこたまhttp が並んでいるのだ! Mark Goodacre の blog の議論にあったように、ブロッグを学問的業績に数えるかについてはチト疑問だ。しかし、アメリカの学者のブロッグは、わたしのは天から別だが、概ね学問的内容が中心で、業績に数えたい気がわからないわけではない。
以下は、余録と世迷言。
Robert A. Kraft は、アイヴィーリーグの一つペン大(University of Pennsylvania)の教授だが、出身校である左右両派の幅が広いハーヴァードの学風をよく反映した学者のようだ。30年掛けて、20余人の Ph.D. を生産した。彼が115代目のSBLの学会長に就任したのだが、それに当たって受諾を多少躊躇したらしい。
なぜなら、SBLの会長は、旧約学OTと新約学NTの両分野から交互に出ることになっているのだが、先代114代目のLyn Osiek 博士は間違いなくNTなのに、自分は果たしてOTなのかどうかわからないからだと言う。てか(←これ蕩尽亭さんの言い方、もちろんパラな言い方)、彼のテーマの枕で、自然と「周辺学」へと導くことになる。彼は確かにOTプロパーの学者ではない。しかし、七十人訳聖書(OTのアレクサンドリア版ギリシア語訳、新約時代への橋渡しともなる旧約聖書)の研究で知られているから、まぁいいか、となったわけだ。
俺(MWW)はどうか。わたしの場合、たびたびこの blog で告白したが、到底、新約学者とは言えない。第一、普通のNT学者のようにはギリシア語ができないし、NT周辺言語であるアラム語、コプト語、シリア語、グルジア語などはからっきし駄目。この語学テストが怖くて、コンプのNT副専試験(←まるでヤクザの符丁、博士課程学生から博士候補生に身分が変わる前に個室で受ける筆記試験で、わたしの場合、主専攻3日間、副専攻分1日)を、たまたま受験資格のある史学方法論に替えてしまった。その後も隠れNT学生を密かに続ける。
本当の主専攻は神学基礎論。その範囲で博士論文を書かなければならない。テーマは「空の墓」。初めから内容のない話だと笑わないでほしい。書き上げて、それが昨年本になって出版されたのは、このblog の常連読者ならご存知でしょう。一流誌に書評も出た。ところが、この本を分類した図書館屋さんは、主題分類では確かに復活論や初期キリスト教(いずれも神学あるいは教会史の一部)も入れてはいるが、書架分類ではマルコ伝註解すなわちNT研究になっている。議会図書館(Library of Congress)もそうだ。母校(FTS)の図書館もそうだ。すると、俺も今ではNT学者? バンザーイ!
冗談はさておき、パラ(para)とはオルソ(ortho)すなわち「正(せい)」に対応する概念であり、自然科学者もよく使う。ただし、反対概念のヘテロ(hetero、異)とは別で、クラフト先生の副題にもあるように、基本的には「傍ら」、「似ている(従って本物ではない)」、「副次的」ということで何やら正規に対して上等でない雰囲気がある。正規の法律のライセンスを持つ判事、検事、弁護士に対して paralegal は彼らの手助けをする人だし、医者に対して paramedical とはその他の医療従事者のことだ。正式の教会でなく、「教会もどき」の働きをする団体を parachurch と言うので、わたしはさしずめ paraminister 「牧師もどき」!
もう一つ。Kraft 教授は、SBLの "B" は Bible ではないと言う。確かにその通り、biblical だ。彼の説では、この学会が出来た19世紀末から、聖書ではなく、聖書的ないし聖書関連(biblical)を意識していたという。もっともなことだ。聖書だけで聖書の研究はできない。しかし、聖書を知らずして-信仰はなくてもいい-聖書関連の研究も無理であろう。
以上、一「パラ」NT学者の独り言。