Quest for the Historical Jesus and Modern Mind
史的イエス研究と現代人の意識
今日は硬派。しかし、簡単にメモ風に。専門のことはなるべく噛み砕いて書くのを旨としているのだが、今日は箇条書き風というか詩的(←史的の誤植?)にというか少し不親切ですが。
史的イエス研究者は、
シュヴァイツァー風に言えば
―あっ、やっぱり少し説明しよう。
このシュヴァイツァーって
日本で有名なお医者さんシュヴァイツァー博士のことです。
彼は本来とってもとってもとっても有名な神学者でした。―
深い井戸の中を覗いて底に映る自分の姿を見ているようなものだ、ということになりますが、
George Tyrrell というイエズス会の学者は、こう言っている。
(これをMark Goodacre のブログで今日教えてもらった。)
ハルナックという奴は(←ええい、もう説明は面倒だ、これが誰かはWiki でもなんでも見たまえ)
キリストを見るに井戸の底を覗いて、
19世紀の長きにわたるカトリックの暗きを通して
自分たち、すなわち自由主義的プロテスタントの顔ばかり探している。
まぁね。そんなもんだ。そんなもんだから、そのことを学者は意識しなけりゃ。
しかし、ハーヴァードにいるときから、
ナザレのイエスの非存在証明に夢中の R. Joseph Hoffmann(←知らなければ Wiki-Wikiね)
なんかの史的イエス研究は何なんだろう。
そういえは、ホフマンのオックスフォードでの学位論文は『マルキオンについて』だ。当然、ハルナックの『マルキオン』も土台になっている。
ところで、ホフマンのそんなしょうもない学位論文を借り出して
読んでる俺は超暇人!
しかし、諸君、
不要不急のしょうもないものを読むのが、
正しい夏休みの過ごし方でもあります、コホン(と咳払い)。
(今、書き終わって気づいたが、ホフマンおじさんて、
ハーヴァードとオックスフォードを出てるんだよね。
小谷野さんもビックリかな。
なんだ、今日も軟派の内容だぞ。
あぁ、明日は5時起きで San Diego だ。道路が混みませんように。)