Interpretation and Jury Education
解釈と陪審団教育
フーツ。三日目でまだ陪審員選択作業が終わらない。詳しいことはもちろん語れないが、果たして被告が犯人かどうか全面的に争う事件のようだ。
正陪審員は12名だが、補欠6名、合計18名を選ぶ。今は、100人以上から残った60人ほどのプールからランダムに選ばれた18人に対し、弁護士と検事が互いに陪審員候補者に質問をしながら選択していく過程にある。
まず、18人を選び、ボックス(陪審員席)に座らせ、3人の弁護士と1人の検事が交互に陪審員候補者に質問を浴びせる。その結果を持ち寄って、判事席の横("sidebar" というが、普通の辞書にはないかもしれない) で、一緒に撥ねる候補者を決める。残った候補者をそのままにして、撥ねられた分をまたプールから選び座らせる。再度、質問して撥ねる。これを繰り返して最終的に18名を満たしていく作業だ。
ところで、この作業は、弁護士と検事がお互いに好ましい陪審員を選んでいくものではあるが、それだけではない。この気の遠くなりそうな質問、質問、また質問の作業の中で、判事はもちろん、弁護士も検事も、陪審員への教育を試みるのである。例えばこうだ。判事殿曰く、
これらの被告(実は複数)は告発されたが、まだ証拠の提示はない。つまり、今は陪審員選択作業中でそこまで行ってはいない。さて、今あなたの判断としては、これらの被告は(1)有罪だろうか、(2)無罪だろうか、それとも(3)有罪とも無罪とも言えないだろうか。恐らく、(3)と答える人が多いかもしれない。しかし、法の原則としては、証拠の提示がない段階では、(2)が正解であることを肝に銘じなければならない。
証拠、証拠という判事からの教育に続いて、弁護士からの教育も始まる。先日のエントリーでも述べたように、実は証拠ないし証言だけでは不十分だ。解釈と妥当な推論(reasoning)が必ず証拠や証言に絡んでくる。だから、弁護士は特定の陪審員候補への質問というよりは、候補者全員への教育のつもりでこんなことを聞いてくる。曰く、
私には6歳の子どもがいます。ある日、全身ずぶぬれで家に入ってきましたが、プールを見ると波立っています。この子はいったい何をしていたのでしょう。すぐ出る答は、この子が一泳ぎしてきたということです。しかし、(1)この子が濡れていた、(2)プールが波立っていた、という二つの証拠から導き出される答は、たった一つなのでしょうか。
という具合で、候補者の一人一人に質問しながら教育しているわけです。また、錯覚を起こしそうな証拠だけ選択して並べることも可能です。イエスの失われた墓とと称して、墓室の中の被埋葬者が家族と思わせる。その上で、イェシュア(イエス)とマリアムネ(マグダラのマリア)のDNAだけ調べ、遺伝的関係がないから二人は別系統すなわち夫婦と結論付ける。だいたいヨセはイエスの兄弟というよりは、ひょっとしたらマリア(母)の夫ヨセフだとなぜ考えることができないのか。ここでも、証拠のかなり意図的な提示の例をみることができる。判事殿には悪いが、証拠自体に意味はない。
また、こんな教育もあった。候補者の中には既に3回も4回も陪審員をしている者もいる。自ずと彼らが合議のときにオピニオンリーダーになる傾向がある。だから、経験のない候補者に対して、自分自身の意見をちゃんと表明できるかなどと質問しながら、ちゃっかりと声高の者の言うことに左右されてはいけないという教育をしているわけだ。
それにしても、日本の裁判員制度では、ここで行われているような、丁寧な教育も行われるのだろうか。制度を生かすのは、きめ細かな運用であろう。