Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

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American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Thursday, April 19, 2007

Be Amazed - Be Greatly Amazed - θαυμάζω - εκθαυμάζω

ビックリした-おったまげた

久々の「あがるま」さん。ドイツにまたお帰りですね。コメントありがとうございます。コメントは前の記事なので、ここに記事として引越しさせました。

このところ日本の内田樹という先生が-とてもいい先生らしくわたしも彼のブロッグは好きです-アメリカの銃規制に何かおっしゃっていましたので、一言書いたら少し五月蝿くなりました。「誤読知らず」さんが言う通り、状況の全く異なる日本でアメリカの銃規制を云々してどうなるものでもないでしょう。勝手で無責任なな井戸端会議なら御免被りたい。ちょっと大袈裟に言えば、わたしは命をかけて学校に行っているのだし、学生を置いて先に逃げるわけにもいかない当事者なのです。それなのに気軽に小児的なことを言う。内田先生にも日本のインテリの悪い癖はあるようです。

おっと、あがるまさんには関係のない話ですね。あがるまさんのコメントは、復活祭のわたしの挨拶代わりの記事に対して次のようなものでした。

ハイデッガーはthaumazein(thambeinはそのコイネー版でせうか)をbefremdenと訳したさうですが、そんな異化的な作用がこの話にあるのでせうか?『空虚なる墓』が何故問題になるのか - どうせ荒唐無稽な話だらうから - 不思議にも思ひませんでしたが、偶々、R.オットー『聖なるもの』と云ふ文庫本を見て居たら、付属論文(の註)で問題にされて居ました。ルター派の保守的教義学者のFrank(彼が何物かは知りませんが、1880年に出版された本の中で)は『パウロは実際、物質的な血気の身体ではなく霊的の身体が復活すると云つて』ゐて、フランクにとつては、身体の本質はその『形体』であり、そしてその形態が分離した霊に回収されると主張したので、フランクにとつては『肉体』の復活なるものは存在し得ないし、かつ『空虚なる墓』を引合に出す(?)のは何等の意味をも持たず、全く不可能なことである、さうです。慥かにイエスが人間として蘇つたのなら葬られた墓の中に居るはずなのに、居なかつた。そして後になつてそれに付加的にイエスが皆の前に現れた、と云ふのは辻褄の合はない話です。

「驚き」こそギリシア哲学の源。ハイデッガーのドイツ語訳も妥当でしょう。不可思議なものに対する驚きが、真理探究の動機となるのです。また、オットーの「聖なるもの」も、説明が付きにくい聖なるものへの宗教感情探究の動機となるのかもしれません。オットーのあの本は、先日、近くのBarnes and Nobles に行ったときも書棚で見つけました。本当にロングセラーですね。さて、どうやらマルコは ek を付けて「おったまげた」というのが好きだったようです。この言葉に関しては古典期もコイネー期も変わりないように思いますが、あがるまさんいかがですか。

正典聖書だけからすると、復活は、イエスの場合とわれわれの場合とで違いますが、パウロはわれわれの復活について言及していることが多い。なにしろイエスの復活のときには、パウロはイエスの弟子たちとは無関係で、言わば遅れてきた弟子であり、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会い以外の経験はないのです。しかし、ユダヤ的な(パリサイ的な)神学思想を駆使して、われわれの復活の体について述べますが、コリント第一書などを見ればわかるようにしどろもどろです。

フランクに限りません。復活を信じる立場からも信じない立場からも、空の墓などどうでもいいというのが、今も実は主流です。教義的にというか、原則として空の墓伝承は重要であると表向きは言っても、空の墓などにこだわるのは陳腐な神学と考えるのです。つまり、復活の体は栄光に満ちた超自然的な体なので、セミの抜け殻のような古い体は、墓の中にあろうがなかろうが、議論の本質ではないと考えるのです。ところが、近年は、というか初めから、イエスの復活を見たと信じるのは、見たと信じる人間の側の心理的な現象であるとの説明が流行しています。そこで空の墓は、人間の心理とは無関係にそこに実際ある事実ないし証拠として、やはり意味があるとの意見が出てきました。

しかし、意見は単なる意見。そうではなく、イエスの復活伝承には二つの流れ(墓が空だったという「空墓伝承」と弟子たちに現れたという「出現伝承」)があるが、歴史的にも神学的にも、かつ文献的にも、空墓伝承が先であるだけでなく、実は出現伝承の基ではなかったのか、というのが、実にわたしの近著のテーマなのです。Review of Biblical Literature に書評が載りました。

Mark W. Waterman
The Empty Tomb Tradition of Mark: Text, History, and Theological Struggles
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5543
Reviewed by Michael R. Licona

ヤコブのことを書くどころか、11月に約束したSBLの会長講演のスクリプトが発行され届きましたので先にそちらを今度のエントリーとする予定です。なんだか色々と忙しくなりました。来月には、近所と遠方での説教にも行く予定で、それなりの準備もありますから、遅れ遅れになるでしょう。あらかじめスミマセン。