Yet I Reserve 7000 in Israel
“Yet I reserve seven thousand in Israel” (1 Kings 19:18);
“. . . because I have many people in this city” (Acts 18:10)
「しかし私は、イスラエルに七千人を残している」(第1列王記19:18);
「しかし私は、イスラエルに七千人を残している」(第1列王記19:18);
「. . . なぜなら、この町には私の民が多いからだ」(使徒行伝18:10)
余り、人の言葉や文章にモノを言い続けると、日常生活でも辺りの人に刺々しくなっている自分に気がついた。
自分は青春の初めに哲学に興味を持ち、中でもユダヤ人数学者・哲学者の Edmund Husserl の厳密な学問の追究に囚われた。私の初めての論文らしい論文(らしくもないか)は、彼の “Cartesianische Meditationen” (デカルト的省察)についてのものだった。次は、いったん社会に出てからの話だが、Max Weber 以降の社会学に興味を持ち、同時に歴史学にも興味をいだいた。実は、高校時代に Karl Marx と Friedrich Engels の著作に親しんだことが、こういった軌跡の遠因かもしれない。
宗教との出会いは、不思議と思うかもしれないが、キリスト教より仏教が先だった。哲学を専攻していたときに「正法眼蔵」などのセミナーに参加していた。般若心経だって諳んじているし、浄土宗の偈の一つも呻る(ウナル?)。キリスト教系宣教師の息子の南山大学教授 Dr. S が天台学の専門家になったり、自分がユダヤ人であるが、意図せず、たまたまユダヤ人の女性と結婚してしまったデューク大学の Dr. J は日本仏教の専門家になったりするのだから、誰が何に興味を持つかは決まったパターンなどない。(ところで、Dr. S に私は個人的な借りがあり、Dr. J には貸しがあるのだが、二人とも私のことなど遠い昔なので忘れてしまっているだろう。もっとも Dr. J への貸しは貸しというほど大袈裟なものでなく、今ではむしろ、もっと協力してあげればよかったと悔やんでいるほどだ。)
それがどうしてキリスト教徒になったかは、大事なことではあるが、少々長い話になりそうなので今回は止す。(大体もう露出過剰だ。) キリスト教徒になって、キリスト教徒と付き合っていても(教会も)面白くなかったし、神学校というものも興味がなかったが、聖書は読めば読むほど面白く不思議だった。収入の良い定職についていたので、聖書や宗教学は趣味としてしばらく過ごしていたが、網膜剥離という病で入院したときの体験を契機に、それまでのものを一切棄て、神学と聖書学を本気でやることにした。
当初の学問的目標は、「何が分かっていて何が分からないかを見極めること」だったが、この目標はまだ達成したとは言い難い。否、達成など不可能であろう。達成したと思ったときに、思考が停止する(思考が停止するのは危機的症状だが、判断を停止するのは方法的停止であり、健康な証拠 = Husserl がドイツ語で「括弧に入れる」とかギリシア語で「判断停止」と表現したのはこのこと。方法的停止はデカルトの方法的懐疑を参照のこと = Descartes は疑うために疑ったのではなく、確実なものを得る方法としてまず全てを疑った)。
しかし、それでも学校教育とはたいしたものだ。目標は達成できなかったが、達成に至る道筋やヒントは色々と学ぶことができた。正に「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」(徒然草 第52段)。極楽寺や高良神社で満足する生真面目和尚にならぬように(こういう人は生真面目なほどタチが悪い)、一流の先生方に「この先にまだある、先だ、先だ」と叱咤されたのは感謝であった。
ただし、人より大幅に遅れてこの道に入ったので、10種類以上の古代語使いがごろごろいる聖書学の専門家になるのはもはや無理と思って、自分の経歴と経験を生かした神学基礎論(神学哲学よりもっとラディカルな研究分野 = 神学哲学というと神学思想史的だが、基礎論は現代の諸々の学問の成果と方法論を駆使して教会教義学・組織神学とガチンコ勝負)を専攻にした。しかし、実際は聖書学者の集まりにも隅っこでおどおどしながら(ずばり私の語学コンプレックス = 彼らはヘブル語・ギリシア語・ラテン語の達人であるばかりか、アッカド語・コプト語・グルジア語・シリア語等々にも明るいのに、私は屁語・義理語・L語程度で終り、この寒い冗談分かったかなー?)加わっている。
聖書学に首を突っ込むのは、初期キリスト教、キリスト教の起源、とくにイエス・キリストの復活伝承と史的イエスが研究テーマなので、古代諸文書の本文、当時の歴史と社会、更に初期神学思想の変遷のいずれにも通牒する必要があるからだが、当時の社会や思想についての解釈が、本文をないがしろにすると、恣意的になりやすい傾向に歯止めする効果もある。ところで、復活の研究というと「死人が生き返ることの証明」を試みているんですかとよく聞かれる。ふざけて Yes and No と答えるのが普通だが、そうではない。イエス(地上でのナザレ人)をキリスト(油注がれた = すなわち神)と崇める契機であった初期の復活信仰の正確な記述を試みるのであって、復活の証明そのものではない。私の学位論文は、1861年以来の大部分の北米の博士論文が収められているデータベース Dissertation Abstracts で “empty tomb” (つまり空のお墓)とキーワードを打ち込むと真っ先に出てくるのがそうである。ただし、私の名前の一部が違っているが、このキーワードで最初に出る(出てしまう)のは、間違いなく私の論文だ。(これを基にした近刊書については Library of Congress Online Catalogue 参照のこと。丸善や教文館にも売っているヨ。高いけど。)
はて、私は何を言わんとしていたのか。そうだ、日本の若いキリスト教学者、宗教学者のブログにこの夏からお邪魔していて非常に気になって仕方がなかった。特にキリスト教学者は、キリスト教の学びから離れて、あるいは初めから学んでいなくて、20~30年前に流行したキリスト教思想にとりつかれている。それはそれでいい。アメリカの学会でも Tillich などの部会は今でも大流行なのだから。(今年のAAR/SBL のプログラム参照。ウェッブで探せます。)予想はしていたことだが、教会のサンデースクール程度の聖書知識でいきなり Tillich だ。
あなた方は Michael Goulder というイギリスの聖書学者を知っているだろうか。すでに亡くなられたが、本格的な学者だった。どうも彼のもので日本語になったものはないようだ。彼には John Hick と共著の “Why Believe in God?” (1981刊)という本があるのだが、NACSIS Webcat によると西南学院大学だけが所蔵している。しかし、一般向けの本なので今でも古本で容易に手に入るだろう。
Goulder は、死ぬまで聖書研究は続けたが、神学大学での教職と司祭職とキリスト者であることを放棄した。この本の中に書かれているが、「無益な聖書研究や神学研究で、あたら有能な若者の人生をくるわしたくない」というのが理由らしい。(家のカミさんは牧師の娘だが、男兄弟は医者や弁護士で牧師や神学者はいない。くそ、俺だけ貧乏神学者。彼らは読書家だから、Goulderを読んだのかな。カミさんは本など読まないから俺に騙された?!)確かに、1970年代から1980年代は、世界中でキリスト教や聖書の研究が終わったと思われた時期でもある。(他方、カリズマ運動とか、精霊刷新とかのファンダメンタリストの教会が栄えた時期でもある。この辺りの事情は、日本では青山学院の Dr. Paul Tsuchido Shew が詳しいと思う。)しかし、その後 1990年代から史的イエス研究が復活し、2000年代に入ると初期キリスト教研究者の数が増すにしたがって到達可能な未知の世界が広がることになった。
Goulder は潔く辞職したが、今も生きていたらどうだったろうか。辞職を取り消して、「若者よ、我が許で学べ」と言ったような気がする。今日本の若い有能なキリスト教学者は、既にキリスト「の」研究などやめているくせにキリスト教学者と僭称する老人たちに騙されて、「無駄な人生」を送っていなければよいが . . . 。
そんなこんなの愚痴を言い続けた男がいた。言わずと知れたエリヤだ。何度も何度もイスラエルの神に愚痴を言う。「今や全うな預言者はわたしだけですよー。この先、この国はどうなるんですかー。」正に自分だけ、自分だけが重荷を背負って戦っていると思い込んでいる。そのとき、エリヤに臨んだ神の声がエントリーの言葉だ。「こら、ヒステリーのエリヤ。お前のほかに7000人もいるぞ。」7000という数は、7000という実数ではない。十分に多いという意味の完全数(修辞的な数)である。
使徒行伝には、自分も口汚いくせに、不信心者に口汚く反抗されて落胆していた男がいた。つまり、パウロだ。すると復活のイエスが、「こらっ、パウロ。臆病風に吹かれるんじゃない。この町(コリント市)には私の民が大勢いるのだから。」パウロのこの体験は、ロマ書11章のイスラエルの残りの者から異邦人の救いに更に詳しく述べられることになるのだが、今日はここまでにしよう。もう十分に長い。長い説教ほど駄目な物はない。
私にとっては二つの教訓がある。まず、「そんなにカリカリしなさんな。あんたが一人じゃないよ。そのように思っているのは大勢なんだ。」 そして、「もう疲れたとか飽きたとか言って、小言コウ平役を降りることはない。ひょっとしたら、それがあんたの役目。」
余り、人の言葉や文章にモノを言い続けると、日常生活でも辺りの人に刺々しくなっている自分に気がついた。
自分は青春の初めに哲学に興味を持ち、中でもユダヤ人数学者・哲学者の Edmund Husserl の厳密な学問の追究に囚われた。私の初めての論文らしい論文(らしくもないか)は、彼の “Cartesianische Meditationen” (デカルト的省察)についてのものだった。次は、いったん社会に出てからの話だが、Max Weber 以降の社会学に興味を持ち、同時に歴史学にも興味をいだいた。実は、高校時代に Karl Marx と Friedrich Engels の著作に親しんだことが、こういった軌跡の遠因かもしれない。
宗教との出会いは、不思議と思うかもしれないが、キリスト教より仏教が先だった。哲学を専攻していたときに「正法眼蔵」などのセミナーに参加していた。般若心経だって諳んじているし、浄土宗の偈の一つも呻る(ウナル?)。キリスト教系宣教師の息子の南山大学教授 Dr. S が天台学の専門家になったり、自分がユダヤ人であるが、意図せず、たまたまユダヤ人の女性と結婚してしまったデューク大学の Dr. J は日本仏教の専門家になったりするのだから、誰が何に興味を持つかは決まったパターンなどない。(ところで、Dr. S に私は個人的な借りがあり、Dr. J には貸しがあるのだが、二人とも私のことなど遠い昔なので忘れてしまっているだろう。もっとも Dr. J への貸しは貸しというほど大袈裟なものでなく、今ではむしろ、もっと協力してあげればよかったと悔やんでいるほどだ。)
それがどうしてキリスト教徒になったかは、大事なことではあるが、少々長い話になりそうなので今回は止す。(大体もう露出過剰だ。) キリスト教徒になって、キリスト教徒と付き合っていても(教会も)面白くなかったし、神学校というものも興味がなかったが、聖書は読めば読むほど面白く不思議だった。収入の良い定職についていたので、聖書や宗教学は趣味としてしばらく過ごしていたが、網膜剥離という病で入院したときの体験を契機に、それまでのものを一切棄て、神学と聖書学を本気でやることにした。
当初の学問的目標は、「何が分かっていて何が分からないかを見極めること」だったが、この目標はまだ達成したとは言い難い。否、達成など不可能であろう。達成したと思ったときに、思考が停止する(思考が停止するのは危機的症状だが、判断を停止するのは方法的停止であり、健康な証拠 = Husserl がドイツ語で「括弧に入れる」とかギリシア語で「判断停止」と表現したのはこのこと。方法的停止はデカルトの方法的懐疑を参照のこと = Descartes は疑うために疑ったのではなく、確実なものを得る方法としてまず全てを疑った)。
しかし、それでも学校教育とはたいしたものだ。目標は達成できなかったが、達成に至る道筋やヒントは色々と学ぶことができた。正に「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」(徒然草 第52段)。極楽寺や高良神社で満足する生真面目和尚にならぬように(こういう人は生真面目なほどタチが悪い)、一流の先生方に「この先にまだある、先だ、先だ」と叱咤されたのは感謝であった。
ただし、人より大幅に遅れてこの道に入ったので、10種類以上の古代語使いがごろごろいる聖書学の専門家になるのはもはや無理と思って、自分の経歴と経験を生かした神学基礎論(神学哲学よりもっとラディカルな研究分野 = 神学哲学というと神学思想史的だが、基礎論は現代の諸々の学問の成果と方法論を駆使して教会教義学・組織神学とガチンコ勝負)を専攻にした。しかし、実際は聖書学者の集まりにも隅っこでおどおどしながら(ずばり私の語学コンプレックス = 彼らはヘブル語・ギリシア語・ラテン語の達人であるばかりか、アッカド語・コプト語・グルジア語・シリア語等々にも明るいのに、私は屁語・義理語・L語程度で終り、この寒い冗談分かったかなー?)加わっている。
聖書学に首を突っ込むのは、初期キリスト教、キリスト教の起源、とくにイエス・キリストの復活伝承と史的イエスが研究テーマなので、古代諸文書の本文、当時の歴史と社会、更に初期神学思想の変遷のいずれにも通牒する必要があるからだが、当時の社会や思想についての解釈が、本文をないがしろにすると、恣意的になりやすい傾向に歯止めする効果もある。ところで、復活の研究というと「死人が生き返ることの証明」を試みているんですかとよく聞かれる。ふざけて Yes and No と答えるのが普通だが、そうではない。イエス(地上でのナザレ人)をキリスト(油注がれた = すなわち神)と崇める契機であった初期の復活信仰の正確な記述を試みるのであって、復活の証明そのものではない。私の学位論文は、1861年以来の大部分の北米の博士論文が収められているデータベース Dissertation Abstracts で “empty tomb” (つまり空のお墓)とキーワードを打ち込むと真っ先に出てくるのがそうである。ただし、私の名前の一部が違っているが、このキーワードで最初に出る(出てしまう)のは、間違いなく私の論文だ。(これを基にした近刊書については Library of Congress Online Catalogue 参照のこと。丸善や教文館にも売っているヨ。高いけど。)
はて、私は何を言わんとしていたのか。そうだ、日本の若いキリスト教学者、宗教学者のブログにこの夏からお邪魔していて非常に気になって仕方がなかった。特にキリスト教学者は、キリスト教の学びから離れて、あるいは初めから学んでいなくて、20~30年前に流行したキリスト教思想にとりつかれている。それはそれでいい。アメリカの学会でも Tillich などの部会は今でも大流行なのだから。(今年のAAR/SBL のプログラム参照。ウェッブで探せます。)予想はしていたことだが、教会のサンデースクール程度の聖書知識でいきなり Tillich だ。
あなた方は Michael Goulder というイギリスの聖書学者を知っているだろうか。すでに亡くなられたが、本格的な学者だった。どうも彼のもので日本語になったものはないようだ。彼には John Hick と共著の “Why Believe in God?” (1981刊)という本があるのだが、NACSIS Webcat によると西南学院大学だけが所蔵している。しかし、一般向けの本なので今でも古本で容易に手に入るだろう。
Goulder は、死ぬまで聖書研究は続けたが、神学大学での教職と司祭職とキリスト者であることを放棄した。この本の中に書かれているが、「無益な聖書研究や神学研究で、あたら有能な若者の人生をくるわしたくない」というのが理由らしい。(家のカミさんは牧師の娘だが、男兄弟は医者や弁護士で牧師や神学者はいない。くそ、俺だけ貧乏神学者。彼らは読書家だから、Goulderを読んだのかな。カミさんは本など読まないから俺に騙された?!)確かに、1970年代から1980年代は、世界中でキリスト教や聖書の研究が終わったと思われた時期でもある。(他方、カリズマ運動とか、精霊刷新とかのファンダメンタリストの教会が栄えた時期でもある。この辺りの事情は、日本では青山学院の Dr. Paul Tsuchido Shew が詳しいと思う。)しかし、その後 1990年代から史的イエス研究が復活し、2000年代に入ると初期キリスト教研究者の数が増すにしたがって到達可能な未知の世界が広がることになった。
Goulder は潔く辞職したが、今も生きていたらどうだったろうか。辞職を取り消して、「若者よ、我が許で学べ」と言ったような気がする。今日本の若い有能なキリスト教学者は、既にキリスト「の」研究などやめているくせにキリスト教学者と僭称する老人たちに騙されて、「無駄な人生」を送っていなければよいが . . . 。
そんなこんなの愚痴を言い続けた男がいた。言わずと知れたエリヤだ。何度も何度もイスラエルの神に愚痴を言う。「今や全うな預言者はわたしだけですよー。この先、この国はどうなるんですかー。」正に自分だけ、自分だけが重荷を背負って戦っていると思い込んでいる。そのとき、エリヤに臨んだ神の声がエントリーの言葉だ。「こら、ヒステリーのエリヤ。お前のほかに7000人もいるぞ。」7000という数は、7000という実数ではない。十分に多いという意味の完全数(修辞的な数)である。
使徒行伝には、自分も口汚いくせに、不信心者に口汚く反抗されて落胆していた男がいた。つまり、パウロだ。すると復活のイエスが、「こらっ、パウロ。臆病風に吹かれるんじゃない。この町(コリント市)には私の民が大勢いるのだから。」パウロのこの体験は、ロマ書11章のイスラエルの残りの者から異邦人の救いに更に詳しく述べられることになるのだが、今日はここまでにしよう。もう十分に長い。長い説教ほど駄目な物はない。
私にとっては二つの教訓がある。まず、「そんなにカリカリしなさんな。あんたが一人じゃないよ。そのように思っているのは大勢なんだ。」 そして、「もう疲れたとか飽きたとか言って、小言コウ平役を降りることはない。ひょっとしたら、それがあんたの役目。」