Biblical Junk Themes
聖書をめぐるくだらない話題
最近、しばしばコメントをくださる南都隆幸さんから次のような質問が来た。長文のコメントの形で寄せられたものなので、要点だけここに引用する。全文は直接コメント欄を開いてほしい。南都さんは、すでにご紹介したプロファイルのほかに、40年にわたり英語とアメリカ社会に関心を持っていた様子が、そのコメントに詳しく書いてあるので、そのことについても直接 "Agalma in Egypt" のコメント欄を参照してほしい。以下は南都氏のコメントからの引用であり、[…]は途中の省略を表わす。
キリスト教社会や神学についての質問
(1) 同性愛について
(2) 進化論について
[…]一つ目。キリスト教社会や神学では、同性愛というものをどのように考えているのでしょうか? […] 少なくとも、聖書を文字通りに読もうという態度を取れば、同性愛は罪であり、神ははっきりと「同性愛」の行為を営んではならないと言っていることになります。[…] いくつもそういう聖句があることは知っています。[…] 聖句を文字通りに読む人たちがいるかと思うと、それをあくまで寓話のように読み、自分たちでその時代や社会情勢に合った読み方をして解釈し直そうとしているように思える人たちもいます。[…] 神学の世界においては、この同性愛 (homosexuality) という問題をどのように扱っているのかと思いながら、アメリカを初めとする欧米社会をぼんやりと私は眺めています。
次に、二つ目の問題です。欧米社会においては、神が宇宙や地球を創造しただけでなく、動物や人間をも最初から現代のようにさまざまの種類の生き物を最初に創造したのだという考え方(創造論つまり creationism)と、神は確かに最初に生き物を創造したけれども、そのあとに Darwin の進化論の説くように生物は進化していった、という考え方(進化論つまり evolutionism)とが拮抗しているようです。さて、前者(creationism)のように進化論を認めない立場の人は、どれくらいいるんでしょうか? そしてそのような人たちは、どの程度に社会でインパクトを持っているのでしょうか?[…]このような原理主義的(と言うのでしょうか?)なキリスト教信者がアメリカにはまだたくさんいて、進化論を学校で教えるべきかどうかというような議論も盛んに行われていることは知っていました[…]。[…]このような進化論を認めない学校教育というのは、アメリカ(そしてその他の国)ではどのくらい流布しているのだろうか、と思います。
[…]Dr. Waterman の専門分野を外れていたり、この blog にはふさわしくない問題であれば、そのように仰ってくだされば結構です。[…] それぞれ、膨大な学問体系を成しているのだろうと思いますので、いくら Dr. Waterman が答えようとしてくださっても、そう簡単に私のような無知な人間に対して説明はできないような大問題なんだろうと思いますので、適当にあしらってくだされば結構です。[…]
南都隆幸(なんと・たかゆき)http://8003.teacup.com/gosh/bbs
お答えします。しかし、おそらく落胆なさるでしょう。南都さんご存知のように私の現在のテーマは初期キリスト教ないしキリスト教の起源であり、もっと細かに言えばマルコの福音書の成立事情です。社会学一般を学んだ経歴はありますが、同性愛や反進化論の社会統計は関心外であるだけでなく(←したがって、この統計上の件については答えられません)、「同性愛問題issues on homosexuality 」や「創造論 vs. 進化論」については、キリスト者(Christian)としてご勝手にどうぞという立場です(←どうでもよい無駄話ということです)。しかし、無関心とは違います。「そんなことは、それぞれが勝手にやっていろ」という私なりの意見とその根拠があります。(以下、丁寧体を止めます。)
結論を先に言う。これら二つの議論は「大問題」などではなく、暇人の暇つぶしにすぎない。
(1)確かに、真性の同性愛者が現実にいることは無視できない。私自身同性愛者の親しい友人がいる。同性愛者と友人関係をもつのは、私自身が他の友人たちと接することと何ら変わらず、私自身の自然な生活の一部にすぎない。また、私はHIV患者をサポートする団体の店も積極的に利用することで微力ながらHIV患者(当然ながら少なからぬ割合で同性愛者が含まれる)と連帯したいとも思っている。しかし、私の乏しい医学知識での範囲だが、同性愛者のうちほとんどの場合は、後天的にあるいは社会的に構築された性向であり、その性向を生まないようにしたり、異性愛に目覚めさせることも可能だと信じている。
(2)創造論であろうが進化論であろうが、どちらかに与することができると思っている人間は不遜な馬鹿者だと言い切りたい。発生学や考古生物学などでこつこつと調査する真面目な学者に申し訳ないとは思わないのか。知りもしないことで大法螺を吹いたり、論理的飛躍どころか疑似科学で舞い上がる能(脳)無しは、どちらの側であれ、恐ろしくておぞましくてお近づきにはなりたくない。確かに、一部の私立学校では創造論だけで済ましているところもあるだろうし、簡略版(古典的)進化論で済ます学校もあるだろう。いい先生のいる学校に子供たちを送りたいものだ。
と、吼えたところで、南都氏の言う「神学の世界においては」の中身から行こう。「神学の世界」と言っても「キリスト教の世界」と同義ならばいざしらず、普通は信仰をいったん括弧に括って「学問的な探究を事とする世界」と解釈される。もっとも、探究者が信仰を持つか持たないかで探究の態度も異なるであろうが、その問題に深入りする必要はなかろう。第一、信仰があると言ってもあるいはないと言っても、どうせ個々の探究者の事情は一枚岩ではありえないからだ。
南都氏はこうも言う、「聖句を文字通りに読む人たちがいる」。しかし、神学の世界の意味を上記のごとく捉えれば、このような人々は、実は神学の世界には一人もいない。理由は多少複雑である。一般のキリスト教の世界の信者もまた信者でない一般の人も、聖書は一国の法律の条文のように固定した(実定の)文言によると思われるかもしれないが、実はそうではない。翻訳における訳文の違いという単純なものだけでもない。
日本の古典である『平家物語』でも高野本や屋代本など、テキストに違いがあるように、聖書のテキスト諸版(手書き写本)のどれをもって真正とするかの論議は絶えることがない。その上で文字通りと言う場合は、我々が大別する二つの解釈段階が関係する。それらはexegesis (exegetical method) と hermeneutics の二つである。手許に資料がないのと私には日本語による聖書学・神学の教育がないため間違っているかもしれないが、前者は釈義学、後者は解釈学と日本語では言うのだと思う。Exegesis も hermeneutics もギリシア語起源の言葉でどちらも解釈という意味であるから、本当は厳密な違いはない。
しかし、便宜上、前者は、テキストの文字面に集中し正確な語彙的知識と文法的知識を駆使して「どのような意味であったか」をあらゆる角度から(ただし、テキストそのものという範囲の中で)検討し、現代の言葉で捉える作業である。後者は、その exegesis を踏まえた上で、テキストの範囲から飛び出て、当時の社会的状況等を勘案した上で、言い換えれば、いったい「どのような意味であるのか」を探るものだ。しかし、この一見科学的に見える後者も、正確な古代史などの知識に基づかないと、現代人の勝手な解釈に堕する危険性がある。私がブログで度々言及するancient mind versus modern mind は、この危険性に対する留意点の一つでもある。以上の区別は基本的なものであり、種々の学派・個人によって千差万別であることは当然である。
さて、これで終わりかというと、まだ先がある。ごく大雑把な言い方をすれば、exegesis → hermeneutics と進んだ後に、狭い意味での神学(多少意味合いが変わるが組織神学 systematic theology と言ってもよい)が控えている。ここでは、聖書全体の整合性、すなわち他の聖句との関係上も無理なく解釈できるかという問題である。法律の条文も互いに矛盾した解釈があってはならないことに、このことは一理通じると思う。これで終わりか? いやいや、まだまだ先がある。ここまでの古典的な組織神学なるものは閉じられた体系の中での話である。この先は、正典聖書を超えた領域に自由に広がって行く。すなわち、種々の非正典文書や古代文献、更に単なる古代史を超えて古代人の心理や、それを解釈する現代人の価値観、ありとあらゆるものを巻き込んだ神学で、英語では fundamental theology(原理主義 fundamentalism とは全く逆なものなので混同しないように)あるいは単に theology と言う。
すると、この最終段階に至ると、もっとも精密な解釈が得られるのであろうか。答えは、yes and no。Hermeneutics で述べたように、勝手な解釈が逆に無制限に広がる恐れがあり、基本的な聖書本文や初期のキリスト教思想から甚だしく逸脱する傾向もある。日本の一部の神学者について私が為したコメントにも、これらの悪例があったはずである。もちろん日本だけでなく、世界中に単なる思い付きが神学の顔をして歩き回っている例は尽きるものではない。
だいぶ長くなったので、少しだけ応用に入ってとりあえず終ろう。私も贔屓にしている Ben Witherington III(何しろ三世様だかね、彼のブログも面白いから探してみるのもいいだろう)の十数年前の本(Conflict and Community in Corinth: A Socio-Rhetorical Commentary on 1 and 2 Corinthians)に第一コリント書6:9fに関して(p. 166)、その頃までの研究状況が平易に述べられている。まさに、この箇所に、日本語聖書新共同訳では「男娼、男色をする者」はよろしくないと書いているのである。ここでの「男娼」の原語は malakoi (pl.) 「男色をする者」の原語は arsenokoitai (pl.)である。 [べンのブログとベンのホームページ←それぞれをクリックしてください]
実際において、この並立した言葉は、二語で一対の意味(二語同義)と取ることもできるが、二語別々の意味と取ってもいい。同性愛推奨派の神学者は、malakoi (sg. malakos) の原義「滑らか」から、また古代の用例から、これが通常の同性愛ではなく、滑らかな肌を持つ若年者、すなわち幼児・少年への性的虐待と解釈して、パウロ(コリント書の著者)は同性愛を非難していないとしばしば議論することがある。多分、この議論をどこかで読んだ方も少なくないはずである。
しかし、その後の arsenokoitai (sg. arsenokoites) はどちらがどちらの役をするにしろ、大人の一般的な男色に間違いはなく、malakoi だけを強調する議論には無理があることは明らかだ(なお、男女の交わり・密会に arsenokoites が使用された例もない)。むしろパウロは、ロマ書1:26-27においては、「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」と、明瞭に同性愛の不自然さとその不自然さゆえの結末を警告している(非難というよりは警告と取っていいだろう)。
時代を旧約にさかのぼり、レビ記18章を見ると、いとうべき性関係が羅列されている。ぜひ一読してほしい。実に丁寧に不自然な男女の関係が長々と述べられた後、お終いにやっと「女と寝るように男と寝てはならない」とあるのだ。多分、男と寝て何が悪いと反論する人の多くは、この前にある男女の不自然な関係については異論がなかろう。すると、ここだけ反論し、不自然でないと主張することも考え直してみる必要があるのではなかろうか。
自然、不自然という分け方に反発する方も少なくないことはわかる。最初に申し上げたように、例外的に異性愛が自然にできない医学的資質があることも事実だからである。(私は、見かけは両目だが、実際は生まれたときから片目である。通常は生来の訓練で片目でも距離感を取れるが、空に舞い上がったボールなどは全く距離感がなく、野球のグラブに受けるのに前に出ればいいのか後ろにさがればいいのかわからない。多数の人々とは違う医学的資質だが、これを異常といわれれば確かに腹が立つ。)しかし、不自然にする必要もない人が、ことさら不自然にしていたらどうであろう。
少なくとも福音書の記述によれば、生涯結婚することのなかったイエスだが、例えば、私の紹介した『秘密のマルコ伝』などを根拠に、イエスは男色をしていたと主張する学者もいる。しかし、かなりの飛躍があると私は思う。イエスの愛した旧約聖書の初めには、神が男(アダム)と女(イヴ)をつくり、「産めよ、増えよ」(創世記1:28)と祝福したとある。男同士であるいは女同士で子供はできまい。もちろん男と女だから子供がいるとは限らない。(私と細君の間に子供はいない。)しかし、男同士があるいは女同士が結婚の真似事をして、養子を迎えたとしても、その子が「自然に」育つのであろうか。そこに至ると、単なる同性愛者の傲慢と我侭のような気がする。ここには救いなどありようがない。むしろ、まともな(あるいは普通の)同性愛者なら、パウロがあるいはレビ記の記者が心配したように、その不自然さに由来する心の問題に悩まされているのではなかろうか。
かなりの長さになり、読まれる方も大変だと思うが、進化論との関係を簡単に述べる。(後は、どなたでもコメントやクエスチョンをくださったら、そのとき詳しく述べることにしたい。)「無からの創造」(この言葉は旧約正典の創世記にはない、旧約続編の第二マカバイ記7:28参照)の業は、進化論とだけ対比されるものではない。さまざまの論点があるが、一つだけ述べたい。
我々は一つのアメーバから進化したとしよう。人類になってからも我々は親子孫の繋がりの中で、血筋からの祝福あり、また血筋ゆえの怨念もあるが、一律の進化の実感はめったに浮かぶことはない。ただただ、自分は進化の中で最も親しい(近い)はずの親、兄弟、子や孫とも違う一個の、また唯一の我として世界に投げ出されている。この我、私はどこから来たのか。
帰って来てからここまで書いて疲れたが、そういえば神は六日間で天地創造の業を為し終え、七日目に休まれた。今は世界のほとんどすべての人が七日間のサイクルで食べて寝ているのだ。私ももう寝る。書きなぐって見直していないので誤植もあろう。明日になったら見直して書き直そう。今日はこれまで。お休み!
15 Comments:
南都隆幸です。お疲れのところ、丁寧な blog による返答を下さいまして、本当にありがとうございます。本来なら誤植などの訂正を Dr. Waterman が終えられてから再び私がそれを読み直し、そのあとに初めて私がお礼なりコメントなりをさせていただく方がよいのかもしれませんが、一応はここで少し書かせて頂きます。なお、何らかの訂正をあとで Dr. Waterman が加えられるかもしれないので、しばらくしてからまた同じ blog を読み直します。
聖句が法律の条文のように固定した文言によるものでもかく、訳文だけの問題でもなく、さらにはどの写本を定本とすべきかという問題もあるし、さらにはもっともっとたくさんの段階のさまざまな問題があるということ、なるほど、やはりそうか、と私は納得しました。
私は基本的には自分の目ではっきりと疑い得ない証拠をつかまない限りは、たとえ世界中の偉い学者や権威者が言っていることでさえ本当には信じないという立場を持つ、ある意味では不届きな人間ですので、むしろ Dr. Waterman のそのお話を伺って、安心しました。
進化論 vs. 創造論についてもしかりです。私はいつも、この二つのいずれにしても、証拠不十分だからまだどちらかを絶対的に心理だなどと言えるはずはないのに、なぜみんなはこのうちのいずれかが正しいはずだなどと思い込めるのかな、と不思議に思っておりました。進化論の正しさを証明しようとしても、missing link が多すぎて、何とも言えませんからね。もしかしたら、進化論でもなければ創造論でもない、第三あるいは第四の学説が登場し、みんながそれにまたもや飛びつく日が来るかもしれません。
Dr. Waterman が別の blog で「何がわかっていて、何がわかっていないかを突き止め」たいというようなことを仰ってましたが、このことは簡単なようで、実は最も難しいことなんだと思います。
たとえば10人あるいは100人の専門家が「AはBであるという可能性が高い」というと、マスコミや一部のオピニオンリーダーがこぞって、「AはBであると専門家は言っている」といつの間にか尾ひれがつき、ついには「AはBである」という断定形で人々の頭には定着してしまいます。
端的な例で言えば、
「地球温暖化が進んでいる。そしてその地球温暖化を進めている主たる原因は、人間による諸活動である。そしてその地球温暖化のゆえに、これこれこういう大きな影響が発生しつつある」
というような話です。私はこれについて詳しく知っているわけでもなく、もちろんのことながらそれをきちんと研究する当事者でも何でもありませんが、このことについても証拠不十分という感じがします。学者たちの中でも意見が分かれていると聞きます。
それなのにマスコミは、かなり断定的にこれが十分に証明されたことであるかのように取り扱う、あるいはそういうふうに取り扱っているかのように見えるような報道の仕方をするので、大衆はそれをそのまま信じてしまう。それぞれの主張をしている科学者の論文を自分で読みもしないで、ともかくマスコミの話をそのまま信じる。
このような地球温暖化を巡るマインドコントロールとでも言いたくなるような現象と似たものが、同性愛の問題や進化論・創造論の問題をも覆っていると私は思っていましたが、Dr. Waterman の今回のお話を伺って、やはりそうか、と思いました。
ともかく、どの主張を受け入れるにせよ拒否するにせよ、ともかく原点に立ち戻り、「実はどこからどこまでがわかっているのか、どこからは不明なのか」を常に明らかにしていかねばならないと感じます。そのような作業を怠っている人たちが、証拠不十分なことをそのまま鵜呑みにして喧々囂々(けんけんごうごう)と論議し、一部の人に対する普段からの恨みをそういう一見合理的・科学的に見えるような論議によって排斥しようとしているんだろうと思います。
というわけで、本当に丁寧なお話をくださいまして、ありがとうございます。これについてはまたお話を発展させてさらに問いかけをするかもしれませんが、一応はひとまずここで休息したいと思います。
ところで、私は MySpace 上で blog を一つだけ書きました。途中で挫折するかもしれないし、辛抱強く続けるかもしれませんが、ともかくやり始めました。ここにお集まりのみなさんから見れば笑止千万なお遊びに見えるかもしれませんが、当人の私としてはこれでも必死のパッチなのです。どういうものに発展していくかわかりませんが、ともかく衰退しないように頑張り、できればいろんなことをいろんな国の人と一緒に考えたりしゃべったりする機会を前々から持ちたかったので、MySpace で物を書くことにしたのです。自己宣伝してしまって、すみません。
南都隆幸
<MySpace 上の blog の URL>
http://www.myspace.com/takayuki_nanto
1)同性愛を禁止するのはそれが極く普通(自然)だからでせう。
<arsenokoitai (sg. arsenokoites) はどちらがどちらの役をするにしろ、大人の一般的な男色に間違いはなく、malakoi だけを強調する議論には無理があることは明らかだ(なお、男女の交わり・密会に arsenokoites が使用された例もない)。>
20世紀初頭に作られた手許の学生用の辞書(W.Gemoll編
)ではmalakosには柔らかいとか弱い(NTで病気?)と云ふ意味しか載つてゐません。
arsenokoitesはNT(だけ)の言葉でKnabenschaenderつまり少年愛を実行するものと云ふ意味で同性愛一般を意味するものではないやうです。
(arsenikos(arrenikos)は男性的と云ふ意味ですし、koitosはkeimaiから来る言葉で(一緒に)横たはる、と云ふことですから男色一般や女が男と寝ることも意味しても好ささうですが。)
coitusは(co-ireから来る)純粋なラテン語かと思つたらギリシア語でもあるのですね?。
2)創造論者から言へば進化論には反証可能性がないので科学ではないと云ふことになるのでせう。
(日本の)ウェッブ上での常識では米国の原理主義者は7千万人と云ふことになつてゐるやうですが、具体的に何処からの数字か知りません。
南都さん
早速、丁寧なコメントをありがとうございます。私としても、日頃は余り表明することのない話題について語る機会を与えてくださって本当にありがとうございました。
世間では gender identity disorder(性同一性障害と言うのでしょうが)という、まるで病気でもあるかのような名称が通っていますが、これが嫌いなので記事では使いませんでした。なにしろ実際の生活では彼らと付き合うことは全く自然なことであり、だから権利をとか保護をという議論自体が好ましくないものだと考えています。
そのことと聖書の記述そのものを考えてみますと、child molestation(少年虐待、カトリック内で蔓延していましたね)に対する激しい怒りは当然ですし、たまたま習慣的に男女愛ができなくなったケースに対する遺憾の意も当たり前だと思います。
今申し上げたカトリックでのケースは(実はプロテスタントの牧師の間でも少なくないのですが)、不自然な性欲の抑圧が原因の一つだとも思っています。私自身、聖職者の独身主義にはいろいろな意味で賛同するのですが、私にはとても無理であることも強く自覚しています。
創造論対進化論は確かに木を見て森を見ない教育論争となっているのが気掛かりです。保護者としては、なるべくバランスよく冷静な教育方針の学校と教師を選ぶしかないでしょう。しかし、バイブルベルトと言われる南部諸州の一部の教団立私立学校(parochial school と言っています)以外には、それほどガチガチの反進化論教育はいくらアメリカでもないように思います。←それこそ専門家ではないのでデータとしてはありませんが、一個人の感触です。
以上、常々は触れることのない問題について語ることができたことを重ねて御礼申し上げます。なお、MySpace の記事はこれから読ませていただきます。ご紹介ありがとうございました。
MWW
あがるまさん
BDAG(Bauer, Danker, Arndt, Gingrich: Geek-English Lexicon)を今自宅で確認しました。αρσενοκοίτης は pederast=boy gay を含みますが、一般的な男性の同性愛者(a male homosexual, pederast, sodomite)を指すようです。Kittel & Friedrich の Theologisches Wörterbuch zum Neuen Testament (英語版 Theological Dictionary of the New Testament) は自宅にないのでまだ確認していません。
お前なんで持ってないのと言われそうですが、高いし置くところがないし、←ということを今朝食時に話していたら、細君に買いなさいと言われました(感涙;)。さあ、本棚のゴミ本をガレージに放り込んで買いますよ。(とりあえず古書で安いのを探しますが。)
MWW
同性愛についても、進化論についても、どちらも宗教学とは全く関係のないものだと思います。政教分離とは申しますが、特定の宗教観を前提にした、前述のような分野へのアプローチは極めて偏ったものとなりかねません。私は同性愛者ですが、その事で思い悩んだ事はありませんし、神父さまや牧師さまに、「どうか私の心の病を治して下さい」などと言うつもりは全くありません。同性愛は一つの個性です。それについて先天性、後天性などと論じるのはそれこそ下らないと思っています(両方の様々な要因が複雑に絡み合って生じるものだと思います)。確かに個人として振り返ると、「女性への嫌悪感」故の後天的なもののような気もしますが、小さな頃から女の子と遊ぶ方が楽しかったという先天的なものも感じます。いずれにせよ原理主義的な思想こそが排除されるべきものと主張したいです。
南都隆幸です。Agalma さん、Dr. Waterman、ご両人ともコメントをありがとうございます。
深南部 (the Deep South) では進化論 (evolutionism) に真っ向から対立する厳格な創造論 (creationism) を初めとして、どのようなガチガチのキリスト教教育を中等教育の中で行っているかについての記事を紹介したいと思います。ここに引用するのは、実はすでに私が私自身の「命がけの英語」
http://8829.teacup.com/takayuki3/bbs
という掲示板ですでに書いたことなので手前味噌のなって恐縮ですが、すみませんがここでそれを引用させてもらいます。少なくとも私にとってはとても面白い内容だったのです。
なお、Britney Spears が通ったこの Parklane Academy という学校は、McComb, Mississippi にあり、そのすぐ近くにある彼女の生まれ育った家は、Kentwood, Louisiana にあります。州境 (state border) の脇に住んでいたので、自宅と学校とが州境をまたいでいるわけです。
<引用初め>
<記事のタイトル> 厳格なキリスト教教育を受けた Britney Spears
Britney Spears は大人になってから盛んに羽目を外した生き方をするようになりましたが、羽目を外すとは言っても、それはごくごく普通の人と同じような行動であって、別に不道徳とは言えません。でも、多くのアメリカ人たちは盛んに Britney を非難します。「有名人は一般人たちのための道徳的な模範にならないといけない」というわけです。
それはともかく、Britney はもともと、非常に厳格なキリスト教教育を受けており、道徳的にもきわめて厳しい躾を受けたようです。それについて述べた一節。
In many ways, although Parklane (南都注: Parklane Academy は Britney が通った学校) was very zealous in its pursuit of fundamental Christian principles, it was merely reflecting what the children were already learning in their home environment. Darlene Hughes, Britney's third-grade teacher, confirms, "She came to school with these values." Britney's own family heritage was strongly Southern Baptist and very strict. Religion filtered through the teaching of Parklane but not in a way that these Southern children thought was in any way unusual or against the norm. Arithmetic problems, for instance, were devised within a religious framework along the lines of -- Jesus was dispensing 5,000 fish equally to a crowd of one hundred men and women. How many fish did each person receive?
(中略)
By far the most contentious element of the school curriculum at Parklane was creationism. This is an extreme view of world history which believes it to be fact that God created the world in seven days. I does not tolerate evolutionary theories or Darwinism. This is what Britney, and all her schoold friends, were taught as children and reveals the strength of the Christian element in her upbringing.
("Britney: The Unauthorized Biography," Sean Smith, p.34)
というわけで、面白い文章がいくらでもあるので、すべてを引用してしまいたいぐらいですが、著作権の関係もあるので、我慢します。できればこの本を他の人にも読んでもらいたいです。すでに言ったように、内容も文体も語法的にも面白い。
というわけで、Britney Spears はこのように、神が世界を文字通り7日間で創ったのであって、生物の進化なんてものはなかったと教えられて育ったのです。彼女は今25歳ですから、ほんの10年くらい前にもそういう教育を受けていた子供たちがたくさんいたわけですね。アメリカの保守的な地域ではそういうことが今でも行われているらしいことを他で読んではいましたけど、Britney Spears もそうだったということ、そしてその具体的な内容をこのように読んでみると、本当にいろいろと考えさせられます。
そして、このような厳格というか極端とさえ言えるキリスト教教育を受けた彼女が、道徳を超えた、というか、時には不道徳とさえいえることにさえ挑戦せねばならない音楽という分野に進まねばならなかったとは、なんとも皮肉な人生ですし、さぞかし Britney の人生は苦難に満ち満ちていることでしょう。次の一節は、そういうことをつづったものです。
All her life, Britney has had to try and reconcile her devout Christian upbringing and schooling to a music business with a reputation as one of the most amoral, or immoral, you could choose. Britney's adult sexy image would sit very uneasily among certain of the more fervent Christian supporters of Parklane -- to such an extent in fact that the school is reputed to have turned down a considerable donation from Britney which would have been worth several million dollars.
("Britney: The Unauthorized Biography," Sean Smith, pp.34-35)
というわけで、Britney の母校に彼女がのちに数億円にも上る寄付をしようとしたのに、「そんな不道徳な女からの寄付金など受けとるわけには参らぬ」とでも言わんばかりに、母校はその寄付を断ったそうですね。
<引用終わり>
南都隆幸
http://www.myspace.com/takayuki_nanto
Linus さん
コメントありがとうございます。排除もなにも放っておけばいいのです。何であれ(プロであれアンタイであれ)逆に排除しなければならないものもないように思います。要するに、話題自体がくだらない、というのが私のスタンスであり信念です。このような議論というより無駄話は自然にまかせておけばなるようになる。
夕方から病人の見舞いに行きました。今までの老人ホームから追い出され、終末のケアセンターに入る人です。病人が自分で雇ったナースはいましたが、身寄りのない人を見舞ったときの常で、いろいろ用事を頼まれ3件の店を回ってから多少の世話をしてようやく帰ってきました。
自分がほとんど今いる老人ホームに帰る可能性はなく、これから移るケアセンターが終の住処となると予感しながらも、ひょっとしてまた元気になって帰ってこられないかと目の奥にかすかな希望の灯を点している人の顔を思い出しながら、ドライヴして帰れば、私が書いた記事がもととはいえど、またこの話題です。
この機会だから同性愛者のLinus さんにお尋ねしたい。非同性愛者に話題にしてもらいたいことですか?
MWW
南都隆幸です。Linus さんの blog は、すべて読んだわけではないですが、その一部を興味を持って読ませて頂いておりました。今回の話題にも参加して下さって、ありがとうございます。Linus さんの自信に満ちた説得力ある発言は、素晴らしいです。あまりにも素晴らしいから、ここで引用させてもらいます。
<Linus さんの言葉>
私は同性愛者ですが、その事で思い悩んだ事はありませんし、(中略)「どうか私の心の病を治して下さい」などと言うつもりは全くありません。同性愛は一つの個性です。
<引用おわり>
偏狭な考え方は排除したいという Linus さんのご意見はごもっともだと思います。そのまま放っておけばいい、そのうちになるようになる、という Dr. Waterman のご意見も頭に入れておりますが、僕自身としては、そのまま放っておくと、同性愛者の意見を直接に尋ねたり実際の医学的あるいは心理学的な知識をまるで無視して、無知なまま、「同性愛は不自然であり異常なことだ」と言い張って言葉および力の暴力、さらには政治権力や宗教的な権威まで振りかざして差別をする人たちが力を持ってしまいますので、Linus さんの言うように、ある程度は「排除」への努力はしておいた方がいいと、私としては思っています。ともかく、同性愛者に対する侮蔑的な発言は、MySpace や YouTube 上を見てみただけでも、すさまじいものがあります。
南都隆幸http://www.myspace.com/takayuki_nanto
博士がお疲れの所、余計なコメントを送って済みませんでした。おっしゃる通り放っておいて欲しいです
Nanto the Anonymous さん
再びコメントをありがとうございます。しかし、いくつか唐突でわからないことがあります。(あっ、その前に今日の午後にコンピュータにアクセスする時間がありましたので、MySpace の記事は皆読みました。学生時代のご体験は凄まじいですね。)
>多くのアメリカ人たちは盛んに Britney を非難します。「有名人は一般人たちのための道徳的な模範にならないといけない」というわけです。
と言われて、アメリカ人の私も妻もこの人のことは知りませんし、誰がこのような理由で人を非難しているのか不思議です。
>非常に厳格なキリスト教教育
にしても、何が厳格なキリスト教なのでしょう。私などのキリスト者の立場からすれば南部の原理主義者の気違いじみた教育がさもそうであるかのような、こういった表現のステレオタイプの見方には鼻白みます。
>I does not tolerate evolutionary theories or Darwinism.
の I はもちろん It のミスタイプでしょうが、この Britney という歌手に思い入れていることなしには、これらの Sean Smith の文章が果たして
>内容も文体も語法的にも面白い。
ものなのかどうか判断しかねます。ただ、はっきりしているのは、南都さんが初めに断ってくださったように、アメリカ社会の一断片としての興味ならいざしらず、基本的にはキリスト教の問題ではありません。
もし、この種のアメリカのキリスト教事情をもっとお知りになりたければ、1993年の本で少し古いのですが、私が推奨しているLinell E. Cady の Religion, Theology, and American Public Life のほうが一歌手の伝記より役に立つと思います。日本語版はタイトルや内容を少し変えて玉川大学出版部より1997年に出版されています。
MWW
南都さん
いろいろと同性愛者を気遣ってくださってありがとうございます。しかし、この次は、もし南都さんが同性愛者なら(あくまでも「もし」ですが)、ご自分の体験のみをお語りください。読者の方、一人一人のことは存じ上げませんが、私は喜んで拝聴したいと思います。
MWW
Linus さん
不躾な質問に率直にお答えいただきありがとうございます。
MWW
今回のコメントは、博士への反論です。
南都隆幸です。Dr. Waterman のお勧めの本については、いずれ読みたいと思っていました。
さらに、私は同性愛者ではなく、heterosexual です。でも、そのことはまるで関係がないことだと思うのですが、どうでしょうか。なぜ私の個人的体験だけが関係するのでしょうか?他の人にしても、仮に同性愛者の方が他に参加してくださるとしても、その人の個人的体験が聞ければもちろん素晴らしいことなので私も詳しく聞きたいですが、それが聞けなかったらそれはそれでよいのです。なぜ Dr. Waterman は個人的体験だけを聞かせてくれと仰るのか、まるでわかりません。
さらには、Dr. Waterman がお勧めになる本は神学の本なので、一歌手の伝記を読むよりももっと宗教関係の事情が学べるというのは、当然のことです。私は何も宗教関係の事情を知るためにのみその本を読んだのではありません。
すみませんが、高飛車に何でもかんでも他人のやることなすことをガミガミと批判し馬鹿にするのはおやめください。特に、同性愛とか進化論・創造論の問題を「くだらない」としか仰らないことにも、本当に私はがっくりします。
特に同性愛のことについては、くだらないとしかいえないのは、まだ無学な隣の家に住むおじさんが言うのならともかく、客観的な態度と大衆への指導的な立場を持つべき神学者しかも博士が言うべきことではありません。
もし同性愛を論じることが下らないとしたら、博士のやっている学問こそ、くだらなさの極致です。
そもそも、同性愛にしても何にしても、それを不自然だとしか言えないのは、bigoted つまり偏狭で石頭で無知蒙昧で、幼稚そのものでしかありません。
私は、いろんな人からのそういう差別的かつ偏狭な言葉に耐えてきましたが、いつも黙っていました。馬鹿を相手にしても仕方がないと思っていたからです。しかし Dr. Waterman は別だと思っておりました。なんせ Dr. は博士であり神学者でありクリスチャンですからね。三重の意味ですごい方であるはずなのです。その方がなぜそんなことしか言えないのでしょうか?それは博士が生まれ持った偏狭さという「障害」であり「不自然さ」です。同性愛者が不自然なのではなく、そういう偏狭さこそが不自然な障害であり異常なのです。
ご意見なり何なりあれば、私はいつでも私のサイトにおりますのでお聞かせ願います。私は他のクズどもとは違って、匿名で博士をなじっておきながらさっさと匿名性のかなたに逃げるような卑怯なゴキブリとは違いますので。
南都隆幸
http://8829.teacup.com/takayuki3/bbs
今回のメッセージは、「お詫びとお別れの言葉」みたいなものです。
Waterman 博士、さきほどは、博士への反論のメッセージをお送りしましたが、感情的になってしまってすみませんでした。でも、たとえ言いすぎのような、過剰反応のように見える私の言葉も、実は本心です。もしもう少し冷静に書けば、もっと如才ない、市民的かつ礼儀正しい文章になったでしょうが、私はあの言葉を撤回するつもりはありません。
やはり冷静に考えている今でさえ、やはり私は、ずっと前からそうですが、博士の偏狭な考え方にうんざりしております。それならこの blog に物を書くなよな、とみんなから言われるでしょう。そうです。私はうんざりしながらも、ついつい博士の blog を読まないではいられませんでした。
その理由は、やはり博士が博士号を持つ知識人であり、クリスチャンであり、神学という(私から見れば)とても純粋かつ美しい学問に取り組んでおられ、しかも語学に堪能であり、しかもアメリカできちんと生活し、しっかりと根を降ろしておられる、だから私は、どうしても博士の書く文章や博士のお人柄に惹かれてしまうのでした。
でも、博士が他の有名な学者の哲学みたいなものを徹底的にこき下ろしたり、他の人たちに対して高飛車に批判したり、あるいは今回のように同性愛を巡る諸問題を「くだらない」としかおっしゃれない態度には、どうしても我慢ができません。でも、そこまでで終われば私も、博士とのお付き合いは価値観というものを抜きにして、ただ単に表層的な知識上のお付き合いを願うだけに留めておいて、如才なく振舞ったかもしれません。
でも博士は、極め付けに、「南都さんがもし同性愛者だとしたら、その個人的体験だけをお書きください」と仰ったので、私の堪忍袋が切れたのです。
はっきり言って、それは暴力的な発言です。なぜかわかりませんか?そんなことがわからないほどの馬鹿が地球上にいるとは思えませんが、一応、このサイトに来ている人で、倫理観の不足した「障害者」がおられるかもしれないので、あえてここで詳しく理由を話します。
もし私が同性愛者だったとしたら、どうでしょうか? そしてもし私が私の同性愛者であることを人に隠していて、おどおどしながら生きていたらどうでしょうか? もちろん私としては、同性愛者たちみんなに、そんなふうにおびえていないで、どうか Linus さんみたいに自信を持って生きていってほしいと僕は切に願っています。
でも現実は、たぶん違います。どうしても coming out できず、自分も異性愛者 (heterosexual) みたいな顔をして生きていかざるを得ず、たとえば一番の親友だと思っていた人や、親兄弟や、会社の同僚みんなから、毎日毎日、「だからホモって嫌だよなあ。気持ち悪いよなあ」と言われ続けているとしたらどうでしょう?
それに対して、「そんなことを言うな」と反論したらどうでしょう? 「何をそんなにムキになってんだよお。もしかしてお前もオカマかよ」と言われたらどうでしょう? 「いや、俺は同性愛者じゃない」と言えばそれはうそになるので、嘘は言いたくないとその人は思うかもしれない。
でも、ここで思い切って coming out する勇気もまだない。それだけであらゆる人を敵に回すことになるかもしれないし、あるいはもしそのうちの大多数が最終的には自分を受け入れてくれるとしても、その時期が来るまでの数年間、あるいは数十年間にわたって闘い続ける気力がない。そういうふうに生きている人がいるんではないでしょうか?
もし私がそういう同性愛者の一人だったらどうでしょうか?そういう私に対して、博士が「もし南都さんが同性愛者だとしたら、個人的体験だけをお話ください」と言う言葉は、言い換えるとこういうことです。
「南都さん。あなたの同性愛者への共感的な発言は、私に言わせればちゃんちゃらおかしい。私はそんな話は聞きたくない。私は、同性愛はやはり不自然だと思う。はっきり言って、それは異常だ。確かに同性愛者の友達もいるが、彼らが自分たちの同性愛について私に語ってこないことを条件に私は彼らと付き合うし、私はできれば彼らの異常なその病気を治してやりたい」
そういうようなことを仰りたいのです。そこまでひどいことは博士は考えておられないかもしれません。でも、そのように聞こえることもあると思います。いや、毎日毎日、生まれたときから無神経な多数派の言動にさらされて生きてきた人たちは、たとえ博士に悪気がないとしても、博士の「同性愛はやはり不自然」だとか「同性愛を巡る問題を論じるのは下らない」という言葉を暴力的に感じ取ってもおかしくはありません。
もし私が同性愛者で、しかもまだ coming out することができない状態だとしたら、博士のその言葉を受けて、次の二つの道しかありません。つまり、
(1) 黙ってしまう。二度とその話題には触れない。
(2)「同性愛者ではない」と言っておいて、嘘を言ってしまっている自分に嫌気が差す。
(1) の場合にも、やはり私は黙らないといけなくなります。(2) の場合にも、博士は「同性愛者であるならその同性愛者としての個人的な体験だけを聞かせてくれ」つまり言い換えると「同性愛者でなかったとしたら、もうこの話題には触れるな」そして「もし同性愛者なら、話を聞こう」ということです。でも、もし同性愛者であり、そのことをできれば言いたくなかったのにここで言わないといけないとしたら、大変な犠牲を私は払うことになります。そのような犠牲を払わない限り、博士は私の話など聞きたくないよ、と言っているのと同じなのです。
僕が言いたいのは、仮に博士に悪気はなかったとしても、何と言っても博士や私は「異性愛者」(heterosexuals)という「多数派」なのです。多数派は多数であるというただそれだけの理由で、強大な権力を持っているのです。われわれ多数派は、その数を盾に取ってはいけないのです。
多数派に生まれついたわれわれは、たまたま多数派に生まれついたというラッキーな星の元に生まれただけなのですから、少数派の人たちがどのように考えたり感じたり生きたりしているかを意識して、その人たちがなるべく楽に生きて行けるように社会を少しでも変えてあげないといけないのです。
少なくとも、高い知性を持って生まれつき、そのあと(たとえ本人の努力のゆえとは言え)長いあいだ高度な教育を受けるという幸運に恵まれ、そのあと高い学歴と名声を勝ち得た人間は、それだけでも強大な権力のようなものを持っているので、他の人たちは恐れをなして、博士に対しては本音など言いません。少なくとも博士の近くにいる学生たちやアシスタントなどは、絶対に博士に本音をそのまま言わないはずです。
もし、職業や地位や仲間をすべて失うことを覚悟して半ば命がけで博士に対して本音を少しでも漏らしたら、今度はまた、博士の強靭な論理的思考力などを駆使して、烈火のごとく叱られ、とたんにその人たちは黙りこくるはずです。
現に、インターネット上での一時的なお付き合いしかしていない私でさえ、博士に対して一言でも苦言を呈しようとしたら、体が震えます。現に私は、さっきの反論のメッセージを書き送るとき、私の両脇には冷たい汗がとうとうと流れ、顔は火照っていました。「ああ、こんなことを博士に書き送ったら、もう僕はいずれ誰かに殺されるかもしれない。そこまで行かないにしても、博士を慕っているみんなから嫌われるだろう。もちろんこの博士の blog からは立ち去らないといけないし」というようなことを考えていたのです。
インターネット上での付き合いしかない私でさえそうなんですから、博士と顔を毎日毎日つき合わせ、博士と一緒にお仕事したり勉強しないと物理的に生きていけない人たちは、たとえ博士を尊敬し、大部分は信頼していたとしても、博士の言動の一部に対して猛烈に嫌悪を感じても、おくびにも出せません。
それはともかく、またもや長文を書きました。博士や博士を取り巻く他の人たちには迷惑を掛けたでしょう。私はもともと、博士がこういう倫理的な問題には関わりたくない方であり、(少なくとも同性愛については関わりたくない方であり)知識のレベルでのみ世の中と関わりたいと思っておられる方だとわかっていたので、今回のような論議をすべきではありませんでした。
すみません。二度とこういうことは言いません。おそらくはこのサイトに立ち寄ることもないでしょう。基本的に私は、同性愛者や、結婚しない人や、子供を持ちたがらない人たちや、あるいはその他いろんな少数派たちに対して「不自然」としか思えない人たちとは、根本的に付き合えないのです。
ですから私は消えます。どうもご迷惑をお掛けしました。私はこれからも、私のサイトだけで独り言を言っております。そしてなるべく倫理的なことは言わないように(つまり、どうすべきかとか、何が正しいかとか、何が真理であるかという問題を論じないように)していくつもりです。
それから、私が同性愛者を擁護しようと思うあまり、逆に同性愛者たちの神経を逆なでしたり、むしろ侮辱したような結果になってしまったかもしれません。もしそうだとしたら、同性愛者のみなさん、どうもすみません。もしそうだとしたら、すべては私の不徳の致すところです。同性愛者のみなさんからの反論があれば、何らかの形で私に知らせてくだされば、できるだけ自分の落ち度を直すつもりです。
南都隆幸
http://8829.teacup.com/takayuki3/bbs
南都隆幸です。最後に一つだけ付け加えます。
Dr. Waterman は、ご自分の顔写真やプロフィールや本名もきちんと明かした上でいろいろと論議されて来られたことに深く敬意を表してきました。これからも同じです。たとえ Dr. Waterman が私から見れば嫌なことを仰っているときであっても、写真や本名を公開し、このサイトを運営してこられたので、たとえば誰かが博士に反論があったら、いつでもこのサイトで反論できたはずだし、あるいは、極端な言い方をすれば、博士の言葉に恨みを感じた人がいたとして、博士を殺そうと思ったとしても、それが可能だったわけです。たとえ博士は詳しい住所などを公開しておられないとはいえ、本気になれば写真やプロフィールや本名を頼りにすれば、すぐに探し出せるはずです。
というわけで、博士はご自分を危険にさらしながら発言してこられたのです。ご自分の発言に責任を持ってこられたのです。仮にご自分に落ち度があったり、どこかで偉そうなこと、あるいは失言、あるいは暴言があったとしたら、他の不特定多数の人は、いつでも博士に復讐ができるのです。そういう意味で、たとえ仮に私にとっては許しがたいことを仰ったとしても、深く敬意を表してきたのです。
その点、本名も自分の素顔もサイトの場所も何もかも隠しておきながら、偉そうに社会や有名人を批判し、こき下ろし、それどころか固定ハンドル名さえ明かさず、常に「名無し」で通しているゴキブリどもは許せません。博士や(確か)猫猫先生(だったと思いますが)、少なくとも人を批判するときには本名を名乗るべきだと仰っておられ、それを率先して実行して来られているので、本当に頭が下がるのです。
というわけで、私が仮にこれから博士のサイトにお邪魔することがなくなったとしても、そういう点で本当に深く博士を尊敬してきたということ、これからもその気持ちに変わりはないということを申し上げます。
南都隆幸
http://8829.teacup.com/takayuki3/bbs
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