Be Amazed - Be Greatly Amazed - θαυμάζω - εκθαυμάζω
ビックリした-おったまげた
久々の「あがるま」さん。ドイツにまたお帰りですね。コメントありがとうございます。コメントは前の記事なので、ここに記事として引越しさせました。
このところ日本の内田樹という先生が-とてもいい先生らしくわたしも彼のブロッグは好きです-アメリカの銃規制に何かおっしゃっていましたので、一言書いたら少し五月蝿くなりました。「誤読知らず」さんが言う通り、状況の全く異なる日本でアメリカの銃規制を云々してどうなるものでもないでしょう。勝手で無責任なな井戸端会議なら御免被りたい。ちょっと大袈裟に言えば、わたしは命をかけて学校に行っているのだし、学生を置いて先に逃げるわけにもいかない当事者なのです。それなのに気軽に小児的なことを言う。内田先生にも日本のインテリの悪い癖はあるようです。
おっと、あがるまさんには関係のない話ですね。あがるまさんのコメントは、復活祭のわたしの挨拶代わりの記事に対して次のようなものでした。
ハイデッガーはthaumazein(thambeinはそのコイネー版でせうか)をbefremdenと訳したさうですが、そんな異化的な作用がこの話にあるのでせうか?『空虚なる墓』が何故問題になるのか - どうせ荒唐無稽な話だらうから - 不思議にも思ひませんでしたが、偶々、R.オットー『聖なるもの』と云ふ文庫本を見て居たら、付属論文(の註)で問題にされて居ました。ルター派の保守的教義学者のFrank(彼が何物かは知りませんが、1880年に出版された本の中で)は『パウロは実際、物質的な血気の身体ではなく霊的の身体が復活すると云つて』ゐて、フランクにとつては、身体の本質はその『形体』であり、そしてその形態が分離した霊に回収されると主張したので、フランクにとつては『肉体』の復活なるものは存在し得ないし、かつ『空虚なる墓』を引合に出す(?)のは何等の意味をも持たず、全く不可能なことである、さうです。慥かにイエスが人間として蘇つたのなら葬られた墓の中に居るはずなのに、居なかつた。そして後になつてそれに付加的にイエスが皆の前に現れた、と云ふのは辻褄の合はない話です。
「驚き」こそギリシア哲学の源。ハイデッガーのドイツ語訳も妥当でしょう。不可思議なものに対する驚きが、真理探究の動機となるのです。また、オットーの「聖なるもの」も、説明が付きにくい聖なるものへの宗教感情探究の動機となるのかもしれません。オットーのあの本は、先日、近くのBarnes and Nobles に行ったときも書棚で見つけました。本当にロングセラーですね。さて、どうやらマルコは ek を付けて「おったまげた」というのが好きだったようです。この言葉に関しては古典期もコイネー期も変わりないように思いますが、あがるまさんいかがですか。
正典聖書だけからすると、復活は、イエスの場合とわれわれの場合とで違いますが、パウロはわれわれの復活について言及していることが多い。なにしろイエスの復活のときには、パウロはイエスの弟子たちとは無関係で、言わば遅れてきた弟子であり、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会い以外の経験はないのです。しかし、ユダヤ的な(パリサイ的な)神学思想を駆使して、われわれの復活の体について述べますが、コリント第一書などを見ればわかるようにしどろもどろです。
フランクに限りません。復活を信じる立場からも信じない立場からも、空の墓などどうでもいいというのが、今も実は主流です。教義的にというか、原則として空の墓伝承は重要であると表向きは言っても、空の墓などにこだわるのは陳腐な神学と考えるのです。つまり、復活の体は栄光に満ちた超自然的な体なので、セミの抜け殻のような古い体は、墓の中にあろうがなかろうが、議論の本質ではないと考えるのです。ところが、近年は、というか初めから、イエスの復活を見たと信じるのは、見たと信じる人間の側の心理的な現象であるとの説明が流行しています。そこで空の墓は、人間の心理とは無関係にそこに実際ある事実ないし証拠として、やはり意味があるとの意見が出てきました。
しかし、意見は単なる意見。そうではなく、イエスの復活伝承には二つの流れ(墓が空だったという「空墓伝承」と弟子たちに現れたという「出現伝承」)があるが、歴史的にも神学的にも、かつ文献的にも、空墓伝承が先であるだけでなく、実は出現伝承の基ではなかったのか、というのが、実にわたしの近著のテーマなのです。Review of Biblical Literature に書評が載りました。
Mark W. Waterman
The Empty Tomb Tradition of Mark: Text, History, and Theological Struggles
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5543
Reviewed by Michael R. Licona
ヤコブのことを書くどころか、11月に約束したSBLの会長講演のスクリプトが発行され届きましたので先にそちらを今度のエントリーとする予定です。なんだか色々と忙しくなりました。来月には、近所と遠方での説教にも行く予定で、それなりの準備もありますから、遅れ遅れになるでしょう。あらかじめスミマセン。
10 Comments:
R.オットーの付属論文(何処から取られたかは不明)と云ふのは日本語訳だけに付いて居るのでせうから、感動的なその部分を引用して置きます。
『「空虚な墓」についての後の問題を、私たちは、後になつてイエスの誕生の周囲に発生した物語と同様に判断するだろう。すなわちそれは、当時の直観の様式に従い、時間的なものに対する永遠なものの非合理的関係を反映している聖なる伝説である。それは秘儀そのもののの無比な力強い象徴Symbolと表象文字Ideogrammとしての価値を保有している。もし私たちがこの伝説を聖書の中から…見失つたならば、どんなに愛惜に堪えないだろうか』
と『その特別な品位と美と深い内容』を賞賛して居ます。
イエスが神として復活したのなら何の驚きも神秘もありませんが、彼もNouminoseを持つてゐたと云ふことの表現なら、オットーがその17章でNoumenを本来的にその土地に根付いたElやBaalとしてゐることと矛盾するやうな気がします。
手許の辞書ではεκ-θαμβεομαιもθαμβεωも新約聖書だけの言葉として載つてゐます。
今帰ったところで、あがるまさんはもう寝たな。手許にオットーの Das Heilige がないので附属論文のところが何かわかりませんが、ありがとうございます。宗教史学派のアイディアが如実に出ていて面白いですね。
ヌミノーゼはラテン語の numen からオットーが造った言葉とされますが、オットーにとって、聖なるものとして畏れおののくものとしては、もろもろの宗教の宗教心もキリスト教の宗教心も同じなのでしょうね。
今、手許のBDAGでεκθαμβεω を引いたら(-μαι 形はこの中動/受動相)、確かにそのとおりですね。しかも現存文献では「マルコちゃん」だけにあると書いてありました。勉強になりました。
MWW
綴字の間違ひはnumenとnoumenonを同じ(やうな)ものと思つて居たためですが、前者は感性的な対象ですし後者は限界概念ですから区別しなくてはならないですね。でも本質的な意味でnumenも超感性的なものです。
精々Walter Friedrich Ottoのギリシア神学まででRudolf Ottoは関心になくて、カントと(Hans Albert以来Muenchhausen-Trilemmaとして有名になつた)フリースを研究した、Reitzenstein やBoussetのやうな宗教史学派の学者であることを忘れてました。
例の書評を見ると、短い中に2回もデカルト的方法論的懐疑と云ふ言葉が出て来ます。デカルトのcogitoはアウグスティヌスが発見したものでQuando quidem, etiam si dubitat, vivit, si dubitat, cogitat(De trinit. X, 14)、思考することと実在することは鏡に映つた2つの(或いは無限に多い)像ではなく、同一性の事態を現す『背後に廻ることが出来ないun-hinter-geh-bar』場所toposのはずなのに、方法的に最終原因まで無限遡行が出来るかのやうに扱はれてゐるからでせうか - それが、何か間違つてゐるのではないかと云ふ、異様なbefremdend感覚を齎すやうです。
内田樹と云ふ方にも異議を申し立てようとするのですがどうもいけません。
村上春樹、宮崎駿などと同様、何か教はることが出来るかも知れないが、その気にはなれないと云つた対象です。
果たして日本文化は、遊女やヤクザや武士道が作つたサブカルチャーに過ぎないのでせうか?
また誠実なユダヤ人はKarl KrausやOtto Weiningerのやうに皆ユダヤ嫌ひ(自己憎悪)になるので、LévinasやFranz Rosenzweigは何処にもない始原(故郷)に戻ることを指差すだけのイデオローグに過ぎないではないでせうか?
市民武装は核開発とも係る問題なのでせう。世界中の誰もが(日本でも何処の国でもが)原子力発電をするのは核爆弾のためだと思つてゐます。米国人の中には広島・長崎の復讐のために自分たちに向けられると思つてゐる人もゐるかも知れません(米国の論理ではそれが当然だからです)。他方日本人は暢気で原子力の平和利用が可能だと云ふ政府の話を信じ(ようとし)てゐます。この自己欺瞞を明らかにしないといけないやうな気がします。
あがるまさん
またまた有意義な情報をありがとうございます。やはり、ギリシア哲学・神学でしたね。
アウグスティヌスとデカルトの関係はその通りです。前にも書いたかもしれませんが、哲学専攻で取ったわたしのBAはフッサールの Catesianische Meditationen に関するものでした。これはデカルト的省察の現象学的考察をしながら、アウグスティヌスの引用で終わっています。
あのU先生のユダヤ論はまだ読んでいませんが、おっしゃるとおり、少なくとも(わたしの知る限りでは)レヴィナスのユダヤ主義はユダヤ的ユダヤ主義ではありませんね。人間皆同じ主義です。クラウスと言えば、わたしにRクラウスという友人がいて、この人はいつも日本やらアムステルダムやらシドニーに行ってるあがるまさんみたいな人ですが、久しぶりに古巣のLAに帰ってきたので、彼のおごりで寿司屋に行きました。彼、突然、俺はドイツ人だ、と言うではありませんか。嘘です。彼は父も母もユダヤ人!
いつもの週末で、今日、明日とドライヴが長くなります。夜、コンピュータにアクセスできるかもしれませんが、失礼するかもしれません。
MWW
現代ギリシア語で、驚くと云ふ意味のθαυμάζωはサブマーゾ(Θは英語のthと同じ、αυはafとかavと発音)。
マルコ伝のεκθαμβεισθε(受動相 ― deponentでせうか - の2人称複数命令形)はその時代にどう発音されたのでせう、現代語で発音するとエク・サ(ム)ビースセとなるのでせうか(βはヴィータvでbの音はμπと書き表はしますが、μβでも同じでせうから)。発音に従つて綴字が変つたのだとすると、現代ギリシア語の発音は既にコイネー時代からのものかも知れません。
アウグスティヌスは三位一体論を志向性の概念に含まれる3つの要素(意識する主体(神)、その対象(イエス)、意識作用(聖霊))により説明してゐたのですから、フッセルもデカルトも(或いはフィヒテも)既に含まれてゐます。また彼が古代のθρησκεία
やευσέβειαと云ふ概念を逆転?する定義をreligioに下したことは小堀さんのブロッグで強調しました。
クザヌスなどにあると云ふ、無から創造する人間と云ふ、自己神化が彼から既に密かに始まつてゐたのかも知れません
あがるまさん
今回もありがとうございます。
発音のことはよくわかりません。わたしの新約学の先生のうち二人は、いずれもハーヴァードの出身ですが(一人は修士課程、一人は博士課程でHVD)いつも舌を噛みながらギリシア語を発音していました。読めても発音はいい加減なものです。一番すごいと思ったのが、コイネーを教えてくれた正教系の先生で、博士号など持っていませんが、実力はあった。古典、コイネー(古代、中世)、現代なんでもござれで、せっかく音韻の変化についても教えてくれたのに、当時はその重要さがわからず、よく覚えませんでした。ただ、わたしたちは聖書は綴り通りに発音するように教えられ、そのようにしています。
志向性ですが、その通り。人間のアイディアは急な飛躍はないものです。ただ、アウグスティヌスの場合、内観に重きを置いているように思いますがいかがですか。小堀さんへのコメントわたしも読みました。
MWW
Watermanさんが言及されたフッセルの『デカルト的省察』最後の、自己の中に沈潜せよ!と云ふアウグスティヌスの引用は、超越論的な主観性は超越論的な共同主観性だ,と云ふことの例証のつもりだと思ひます。
釈迦に説法ですが、
アウグスティヌスにとつては、神の像imado deiの論議の中で自己意識se-nosseのアナロギーを用ゐることが、傲慢の罪ではなかつたのは、人間は神のやうな知的直観がなく、diskursivな(遠回りする、時間に束縛された、概念による)思考しか出来ないと云ふ、神と人間の違ひを厳密に保持し得たからで、それが近代の人間中心主義的な神学との違ひなのでせう。
あがるまさん
フッサールが引用したのは、厳密な意味でアウグスティヌスと比較したというよりは、ちょっと気の利いた締めになるなという程度かもしれません。もちろん、あがるまさんの言うような関連性があるから気が利いているわけですが。
アウグスティヌスの神観はその通りかもしれません。近現代的に、神を人間の閾に落として、他者(他人)との共存在の中(仲)で捉えるか、伝統的に、神を絶対者(超越者)として、人間同士の関係と一線を画すかは、神概念の捉え方の相違ですが、前者の人間主義的な形而上学、あるいは認識論上は「下からの神学」になり後者は「上からの神学」になるわけです。もっとも、Pannenberg などは下から始めて結局上から戻りますが、アウグスティヌスにその萌芽を見てもいいのでしょう。
MWW
思ひついたことを記憶だけで書いてゐるのでこれも単なる思ひ込みかも知れませんが。
Watermanさんのご贔屓のパンネンベルクも今では、古い、時代遅れの(ハイデッガー的な)神学だとされてゐるやうですが。
あがるまさん
ハイデッガーとの関連性は初耳ですが、今も元気なのと Systematic Theology 3巻は Bromiley がじゃんじゃん英語に訳したので買っちゃいました。
MWW
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