Between the Scylla and the Charybdis
悪魔と深海の狭間
今日は体の調子がよくいくつかの仕事ができた。何でも食いたいから直ったのだろう。こうなると食べ過ぎて太るのが困る。いつもは避けているラッシュの時間帯に Pasadena から110 号線で自宅に向かったところ、LA downdown から 101号線に分かれるほんの少しのところで 30 分もかかってしまったから、空腹を覚えて困った。普通は20分の道程が今日は1時間かかっている。
タイトルを牧師の娘(だから大変)の細君の奨めでなるべく(強引にでも)聖書からにしているのだが、昨日はテレビのコマーシャルからで情けなかった。今日は「あがるま」さん好みのオデュッセウスの冒険譚からだから少しはましかもしれない。しかし、この言葉、昨日紹介した故 Funk 先生による辛口の Bultmann 評の中で使われていたのだ。
一難去ってまた一難。Hades (冥界)を後にして帰路についた Odysseus は、美声の魔女 Siren をやり過ごしたのも束の間、海峡を進むうちに Charybdis の渦巻きを避けようとして Scylla の岩に近づきすぎ、Scylla に住む六頭の怪物に襲われる。だから、「悪魔と深海の狭間」とも言えるのだが、Funk の表現は、"between the Scylla and the Charybdis" そのものだ。曰く、
「……(前段略)、ブルトマンが、信仰の史的基盤であるスキュラと信仰の体験的基盤であるハリュブディスの狭間の極細の筋を辿って歩かなければならないのは明らかだ。ブルトマンが、後にこの狭い道を進むための自分自身の道しるべとして携えてゆくことになったのが、脱(あるいは非)神話化(Entmythologisierung)であった。」(前述書 p.20、拙訳)
ところで、いくら日本語の神学用語に疎い私でも、Entmythologisierung が主に非神話化と訳されていることくらいは知っている。アメリカ英語では、Funk がしているように demythologizing だ。しかし、私はこの場合の ent- は「離」くらいが適当ではないかと思っている。Bultmann は、Funk も同所で述べているように、新約の信仰から神話の部分を除こうとしたのではない。むしろ、初代教会の「ナザレのイエスがメシアである」との神話的な宣教内容(ギkerygma)以外のどこにもキリスト教信仰はないと考えているのである。
元来、ルーテル派信仰に立つ Bultmann は、Barth や Gogarten 同様、いわゆる正統派信仰に立っており、Albrecht Ritschl やその師 F.C. Baur (この人のやったユダヤ的ペテロ vs. ヘレニズム的パウロというのを大真面目に受け取っている日本の神学生がいたのにびっくりしたことがある。最初は信じた Ritschl も後には否定したくらいなのに…)的な自由主義神学に与する者ではなかった。また、宗教史学派の成果は尊重しながらも、特定の神学を(例えばTroeltschのように)一般化した社会学に平準化してしまう杜撰な宗教史学的「神話」として kerygma (proclamation) を捉えたのでもなかった。かといって、史的イエス研究の科学的性格が、地上のイエス以外の探究の役に立つとは思えなかったのである。彼にとって、quest for the historical Jesus は、イエスをキリストとする復活の神の業に触れ得ないものであった。むしろ、教会に与えられた使信は、目に見えたイエスではなく、目に見えぬ復活のキリストであるからだ。
かくして Bultmann は、宗教史学派的な「神話」もとらず、「史的イエス」を客体化する道もとらず、己の「離」神話化という神学伝統の中を危なげに進むことになる。歴史の不可知を確信しながらも、Luther 的信仰義認は確信しながら進むのである。おそらく、Bultmann にとって double-standard ではなかっただろう。ただ、史的イエスの限界を余りにも拙速に設定したにすぎないのかもしれない。
後世の徒が、Bultmann 先生をどう誤解したのか、信仰はナザレのイエスには基づかないだの、聖書は神話だらけだの、ぐだぐだ言って、神学の徒と自称しながら「聖書」も読めなくなり、開き直って「信仰は実存の(?!)我が心にあり」などと嘯いている。
ねー、神学生諸君、まず聖書を読もうよ。二流、三流の、いやいや、たとえ一流だって、一人や二人の神学者に関わって一生を棒に振る必要はないんだよ。聖書を読んで読んで、疑問を一つ一つ自分で解決しようとする活動の中から、聖書学(旧約学、新約学、外典学、古文書学)なり、教会史学(含考古学)なり、神学史学(教義学史)なり、実践神学(牧会学、宣教学)なり、その他諸々の専門に進むのもいい。もっとも、「観念」で遊んでいるよりは、体力的にも精神的にも(家族のこととか金銭のこととか)大変だから、根性のない人はやらなくてもいいよ。(エペソ書4:11)
11 Comments:
今日のブルトマンの解説を読んで、自分がなぜ新約学に躓いてしまったかの原因の一端がわかったように思いました。大学の副指導教官が新約学のO先生で、彼の影響でブルトマンを読み始めたのですが、「非神話化」というところで、内容を読みながら何が「非」神話化なのだろうと、当時二十代半ばの学生の弱い頭では混乱してしまい、読み終えはしたものの、ついに理解するのを諦めてしまいました。
今、手許にブルトマンがないので何とも言えませんが、「Ent-」が「離」または「脱」程度のニュアンスであると考えれば、まだわかるような気がします。(ドイツ語原文で読むのは無理ですが、日本語で読むより、英語で読んだ方が分かり易い、ということはあるのでしょうか???)
私もブルトマン信奉者たちが、なぜか読んで心酔すればするほどに、信仰から離れてゆくような気がしていたのですが、これで、ブルトマンが誤読されたメカニズムがわかりました。
コメントありがとうございました。
日本語訳があるかどうかわかりませんが、私は英語のほうが楽なのでまず英訳を読み、自分が正式の論文等で引用する場合や、疑問に思ったときだけドイツ語原文にあたっています。O(nk)先生のように自在にドイツ語が使えないというのが理由です。(先日、ブルトマンの孫弟子の Dr. Scholer の口からO先生の名前がでましたから、こちらでも有名ですね。)
私はブルトマンは好きですが、ブルトマンで止まっていてはいけないと思っています。(当たり前ではありますが。)ただ今現在、拙著でやり残したことに彼の立場が出発点としてありますので、次の仕事のために彼を読み直しています。
MWW
ArendtやAratosや F.de CoulangesまたVattiomoなど、無責任な放言をしたやうな気持ちで、少し調べてみるつもりが、どれも数ページを見ただけです。
新しい話題にもついてゆけなくて応答が出来ません。
BultmannとHeideggerの詳しい関係は知りませんが、二人を繋ぐのは Hans Jonasなのでせう - 或る解説によるとHeideggerの弟子であつた彼が1930(1928?)年にBultmannにグノシス神話の実存論的解釈に関する学位論文を提出したが、その影響でブルトマンは1940年になつて雑誌Kerygma u.Dogmaを始め、新約聖書の脱神話化を公表し始めたのだと云ふのです。
Entmythologisierung はHans BlumenbergのUmbesetzungに該当するのでせうか。伝統的な解釈や永遠のために、現実の人間が生き残れなくては何にもなりませんからね。
Vattimoの、神が自己を弱め人間と友達になると云ふkenosis の出来事はWatermanさんの専門(らしい)kenotaphの研究 - 実際には何の研究か知らなくて、イエスが死んで埋葬された墓には死骸が亡くなつてゐたと云ふことだと(勝手に)想像するのですが - 何か関係することなのでせうか?
久々のコメントありがとうございます。
ご指摘の3人は皆 Heidegger ゆかりの方々で気にはなりながらも、正直申し上げてまともに読んだことはありません。
Jonas のことですが、Bultmann と Heidegger はもともと友人だと思っていたのですが、Jonas の紹介とは知りませんでした。Jonas はそういえば両人の弟子ですね。Heidegger のことは後で憎んだとは思いますが。
Blumenberg の Umbesetzung もよく分かりません。宗教的なものから世俗的なものへの解釈の「転化(拙訳)」をUmbesetzung とすると、Entmythologisierung の一面と似ているかもしれません。
Vattimo の weak theology との関係なのでしょうが、よくわかりません。kenosis は古典的なキリスト論(というよりもパウロ、あるいはパウロ以前の原始キリスト観)で重要なものです。そのうちエントリーにするかもしれません。ピリピ書2章(キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって「自分を無にして」、僕の身分になり、人間と同じ者になられました)のテーマです。kenosis (emptiness, 空、空虚、無) は「 」の部分に関わります。私は確かに「空墓(キリストの空の墓)」の研究をしましたが、kenotaph(文字通りには確かに「空の(keno)墓(taph)」ですが正しくは遺骸が入っていない普通の「顕彰碑」のこと)の研究ではありません。言われてみれば確かに同じようなものかもしれませんが……(冷や汗)。
MWW
〔前便を訂正しました、着いて居れば前のを破棄して下さい。〕
kenotaphと入れてみても『記念碑』と云ふ意味しか出て来ませんね。
現代ギリシア語(kenotaphio)も同様らしい。
E.Rohde の『Psyche』によるとホメロスによく出て来るkenotaphとは外国で亡くなり、正式に埋葬が出来ない人の魂を、友人たちがが故郷に呼び戻すためのものだつたさうです。
日本には埋め墓と参り墓と云ふ両墓制があつたやうですし、墓の他に奥津城(オクツキ)と云ふ言葉もあります。でもこの言葉の違ひ方が両墓制と関係あるのかどうか?
さう云へばやラテン語系の言葉にはtumurus (tomba, tombeau,tomb)と sepulcurum(sepolcro, sépulture,sepulcher)と云ふ2つの言葉がありますね。後者は埋葬の儀式のことのやうですし、前者は単に遺骸を埋葬するために掘られた穴のことのやうですが、エトルリアの墓は、学術用語では『トンバ・何々』と云はれても、現地の案内図ではセポルクロです(?)から、意味の区別はなささうです。
あと個人の名前から取つたMausoleumと云ふのも有りますが、マウソロスの奥さんが造つたのですから、多分その中に遺骸が葬られたのでせうし、ローマのサンタンジェロ城はハドリアヌス帝のマウソレウムださうですが、彼が生前に造らせて死後そこに埋葬されたのかどうか(迂闊にして知りません)。
ローマ時代の石の棺桶が沢山ありますね。棺桶と云ふのは地下に収めるものだとばかり思つてゐたのですが、トルコ(東海岸)の村の墓地には地上に石棺が並べられてゐました。ローマ時代にもこのやうにしたのでせうか。
empty tombで検索したら、すぐに300頁分くらいの資料が集まりました。
例のWilliam Lane Craigの専門なのですか?
Wikipediaの解説しか読んでませんが良く纏まつてゐました。これはWatermanさんが書かれたものではないのか?
あがるまさん、
今は急ぎのお答えとして、後でエントリーにしたいと思います。
そうなんです。私も、宗教学でいう両墓制を思い出しました。
MWW
間違!
tumurusではなくてtumulusですね。
昔日本のある偉い考古学者への記念論文集の『アーガルマ』と云ふ表題の下にAGA〔R〕MAとギリシア語で書かれてゐて、その上に紙を張つて訂正してありました。印刷屋か出版社が間違へたら無料で印刷し直すでせうから、編集者(弟子の学者)が間違へたのか?
でも考古学ではtumulusは遺跡のある丘のことですね - 丘の斜面に墓が設けられるのは普通ですが。
あと、お墓にはGrabとかgraveと云ふ言葉もありますね。これは文字通り『掘る』と云ふことでせうけれども。
更にトルコの『東』海岸など何処にあるのか?勿論『西』の間違へです、エフェソスだつたか。
小堀さんのサイトに、「墓を竈の近く家の中に設けたと」Coulangesの本に書いてあると証拠に挙げた箇所は、かまどfoyerとお墓tombeauが同様に尊重されたと、云ふだけのことでした。
でも墓が家の扉の近くにあつた(或は自分の地所の中にあつた)と云ふことは書いてありますから許して戴けるか?
もうお出掛けかな?
追加の情報ありがとうございます。
出発前にメールだけチェックしましたので、publish します。
MWW
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あがるまさん
Coulanges の『古代都市』2章にあるように、確かに死者礼拝に伴ういわゆる「拝み墓」(両墓制を言うまでもなく、ポータブルは位牌などもそうだと思いますが)は家の中だったのでしょう。
拝み墓には Coulanges が書いているように、食べ物、飲み物に不自由する(?!)死者のために、また生者がそれらを持っていく(捧げる、供える)のに便利なように家の中にあったことは容易にうなずけます。
更に、飲み食いが重要な生活の課題であった古代人は、竈も、また拝み墓も大事なものだったかもしれません。なぜなら拝み墓は、死者にも食を捧げることで、生者の飲み食いの祝福を加護してもらう場でもあるからです。
MWW
家の中にkenotaphがあつたのか?
仏壇や位牌のやうな携帯用の墓を想像するとすれば、AEneasが一家でトロヤを脱出する時背中に負はれたAnchisesが手に持つてゐたPenatesが思ひ出されます。
これはカマドの神ですけれど、果たしてkenotaphと同一出来るのでせうか?
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