In Venice
ヴェニスにて トップの写真のみ拡大可、大画面のたそがれの太平洋へ
なんて書くと、イタリアの Venezia (ヴェネツィア)にいるの?!、と勘違いされる。というか、勘違いさせるようにしているのだが、LA のヴェニス、正確に言えば、太平洋に面した Santa Monica Bay (サンタモニカ湾)の Venice Beach だから、英語の表題も In Venice ではなく At [the] Venice [Beach] とかするべきだ。だから、ごめん。イタリアではありません。だいたい運河の写真じゃないもんね。
日本と違い、こちらは正月といっても2日から仕事で忙しくなるのが普通だ。しかも、明日は夕方から客を迎えるし、元日はここ数年恒例の親戚の家で新年会だ。同じLAにいながら、親戚といっても、年に1回元日に会うだけの人もいるし、この機会にアメリカ各地から集まってくる人もいる。だから、不義理は許されない。というか、やはり楽しみだ。従って、束の間の休みといっても、その束の間さえ予定でびっしりだ。
今日の午後はいい天気だった。3時過ぎになって、ふと思い立って海を見にゆこうと小さな車を車庫から出した。日曜の午後の、しかも今日のようにいい天気の浜辺は駐車が大変だから、小さな二人乗りの車のほうが便利だ。これも羨ましいとよく言われるのだが、自宅から混んでいなければ30分で海に着く。しかも、高速など使わず、普通の道である。
幸いにして、浜から数十メートルのところに空きがあり駐車。無料駐車、ラッキー! しかし、着いてしばらくしたらもう日没。サーファーたちも、日没だから海から上がれ、とのガードのアナウンスで、名残惜しそうに浜辺に戻ってくる。海の向こう、すなわち日本の方向に太陽が沈むと、急に海も寂しくなるものだ。浜辺の土産物屋を少しひやかして早々に帰路についた。
帰ったら晩飯持参の客人来訪。その持参料理に、私がスープだけささっと作って夕食だ。あーあ、何だかいつも誰かがいるなー。それにしても、今朝、腹回りやほっぺたに異常を感じて、久しぶりに体重計に乗ったら、クリスマス太りで6ポンド増加していた。罪悪感というより、悔しい。皆様、正月太りにご注意あれ。
19 Comments:
僕を煙たがる人が多いと思うので僕は黙っていた方がいいのかな、と思いながら、まあいいや、てなわけで、またもやコメント。そのうち、どうしようもなくなったら、僕は消えますので。
クリスマスとか正月に太る人は多いですね。僕は頑固で、体重が変わるのは断固として拒否するタイプなので、食べ過ぎたら吐いてでも体重を守ります。というか、初めから自分なりに計算した分量しか絶対に食べないし飲まない。だから人からまたもや煙たがられるんですよね。たぶん。
今日は大晦日。最近には珍しく、年末年始にかけて仕事が入っているので、今日も仕事してます。父母が近くに住んでて、歩いて 15 分ほどの距離ですが、「散歩してきた」と言いながら父親がさっき来ていました。30分ほど雑談して帰りました。僕と父とのあいだにはいろいろなことがあったけど、まあ何とか共存しています。
「以前のようなクラブ通いをまた始めたんや。腰が抜けそうになるまで踊ってるんや」と言うと、父は、「そないにまで踊ったら、体に悪いやろ」ですと。僕が「そんなもんが体に悪い言うとったら、ラグビーとか野球も体に悪いやんか」と言ったら、「それもそやな」という馬鹿げた応答。僕の父親は、僕みたいに自分を酷使するタイプではないので、僕の生き方は奇異に感じるときが多いんですよね。
というわけで、今は夕方の5時30分。早く Friday Night Fever の日が来ないかな。疲れを知らない老いぼれの51才。
昨日、6時間ほど一緒に散歩した相手の友人が、「最近は、マツケンサンバっていうのが流行ってる」というのです。松平健という有名な時代劇の役者が踊っていて、とても受けているのだそうです。日本でもダンスが流行っているとはとてもうれしい、と思ってさっそく見てみました。
http://www.youtube.com/watch?v=5PdIrUfe4qo
呆れました。日本にはこの程度の文化しかないのか。あがるまさんは正しかった。僕は他人を基本的には批判しない人間のはずだけど、ダンスにこだわる僕としては、この程度の偽物のダンスが流行るとは、なんていうことでしょう。こんなものはダンスではない。
ダンスには情熱や恋や苦しみや悲しみや力強さや絶望や、そういうものが渾然一体となった「生きんとする意志」が爆発したようなもののはずだ、なんていうふうに僕は思うので、このような日本の盆踊りを中心としたダンスには、言い知れぬ違和感を感じる。ダンスは、やっぱり欧米人でないと踊れないのではないかという気がする。
すんません。ぼやきでした。ただ単に幼児や老人のためのダンスなら、マツケンサンバで十分ですよね。
>そのうち、どうしようもなくなったら、僕は消えますので。
どうしようもないとは何ですか?コメントを貰って嫌な人はいないと思いますよ、本当は。気の回しすぎで失敗したらつまりません。
ええ、私も体重は維持しているほうなのですが、食べる機会が多くて今回は油断というところです。しかし、6ポンドといってもベルトの穴一つくらいですから、これから運動して減らします。食べないで減らすより、運動して減らすのがいいですね。
そうですか。ご両親が近所で健在は羨ましい。私の場合、母はいても近所にいるわけではないし、父のことは空の墓の私の本をお持ちならおわかりかもしれませんね。ドイツ語で前扉に我が父へと書いてありますが、本の完成を見なかった父であることは、習慣として右肩に付けた+印でわかることになっています。
(もっとも、こんなものは著者自身の独白であって、読者には何の関係もありません。私と天国の父がわかれば、あるいはわかりあえばいいことです。)
どうやら、つまらないことを書いてしまいました。今晩は(今深夜ですが)は雑事を終えてメールチェックをしたら南都さんのコメントがあり、嬉しくなりました。とくに、お父様と仲良くお話ができることや、そのお父様が(きっと恥ずかしそうに)照れ隠しで、「散歩してきた」と言いながら南都さんの顔を見に来るなんて、とてもいい。
お休みなさい。MWW
南都さんへ、
コメントの順序が錯綜しています。今、あがるまさんから以下のようなコメントが前のほうのエントリーに入りましたので、ここにも掲載します。
ところで、私も「南都」は珍しいと感じていました。関西では普通ですか。私は南都雄二しか知りません。
以下引用。MWW
あがるま said...
前に南都さんを南郷と誤記したので今度は正しくと思つてゐたのですが、結局また間違へてゐますね。申訳ありません ― オンラインで書いてゐると、時々消えてしまふのでロクに見直さないせゐもありますが、これが単なる不注意なのか、それとも何か無意識の影響なのかどうか分りません。
南都と云ふ方を他に知らないのですが、少し前に武道の達人だと云ふ南郷継正と云ふ人のことをネット上で知つたので印象に残つてゐたこともあります。(私が苦手とする武道と外国語の達人の類比からでせうか?)
南都さんの英語や日本語で書かれる文章は同じ主題が何度も繰り返されてゐることは分るのですが、それにより一体全体何を訴へようとしてゐるのか私には理解出来ないので、何処に違和感を持つのか具体的に指摘出来ません。
「選ばれた者」とは、トマス・マンの小説の連想もありますし、罪人のことだと理解してゐます。
<一部の人たちの生き方を強く批判しているとき>と仰るのも良く分りません、愚痴をこぼしてゐるか自己批判をされてゐるやうにしか見えないのです。
<一ヶ月ほど前に攻撃された>と云ふのも忘れてゐました、パラフレースが「長すぎる」と言つたことなら、私の非を認めたはずですが。
南都さんが、努力とか頑張ることが嫌ひな怠惰な私の、一番苦手とするタイプであることは慥かですが、折角外国語の能力に優れてゐるのですから、特殊個人的なものではなく、もつと普遍的に活用する方法があるやうに思ひますが。
僕は被害妄想が強いらしく、嫌われてなくて単に敬遠されてるだけのときでも、まるで蛇を避けるかのごとく忌み嫌われているように感じてしまうことが多いので、僕のコメントも嫌われてるに違いないと思いがちです。
Dr. Waterman による博士論文の奥付に
Meinem Vater+
と書いてあったのは、真っ先に気づいていましたよ。そして +(実際には十字架の形のサイン)の意味もわかっていました。言い知れぬ感動を覚えましたよ。
父親と息子は敵対するどころか殺し合い寸前になることが多いのに、お父様は夏目漱石全集を買ってくれるし、そのお父様に対して博士論文を捧げるときの Dr. Waterman の思い、そしてそれが英語や日本語ではなく、あえてドイツ語であるということの意味、そして、そのあとにそっとさりげなくつけてある + の印、とても奥ゆかしく控えめでいて、とても迫力ある言葉です。
僕の父親は、確かにいつも、恥ずかしそうに僕の部屋を外から覗き込み、僕が部屋に招きいれてくれるのを期待します。僕の心の中は複雑でも、僕はいつも笑顔で彼を迎えます。雑談の下手な父ですが、僕がかなり話題の豊富な人間なので(自分で言うなよな)、いくらでも話は弾ませることはできます。
あがるまさん、コメントをありがとうございます。僕の名前を間違われても、まるっきり僕は気にしません。神経質な僕ですが、そういうことには無頓着です。
あがるまさんのことについては、僕がまたもや気を回しすぎたようですね。すみません。これからも、どうかよろしくお願いします。あがるまさんの学識には、ほんとに脱帽してますので。嘘ではありません。
外国語を生かす道については、確かに他にたくさんあることは承知です。でも、僕のきわめて難しい性格では、一人でひっそりと翻訳するという道しかありませんでした。少なくとも今まではね。でもこれからは、違ってくるかもしれません。
南都という名前は、全国的にきわめて稀です。僕は、同じ学校や同じ職場や友人知人で、南都という人に出会ったことはありません。
でも、関西には少しですが南都の姓を名乗る人はいます。すべて僕とは赤の他人です。奈良県には、昔は南都北嶺(なんとほくれい)のうちの南都があったそうですね。ともかく、「南の都」(みなみのみやこ)ですから、奈良県にその姓を名乗る人がいくらかいるのです。奈良県には、南都タクシーと南都銀行さえあります。すべて僕とはまるで縁がありません。
南都雄二は、本当の名前ではなく、あくまで冗談で作った名前だと聞いています。漢字の読み方がわからなかった人が「これ、何と言う字?」とぼやいたとき、「そうや、南都雄二ていう芸名にしよ」と思ったそうで。
あがるまさんが言っておられたように、僕は同じことを何度も繰り返して言う癖があります。だから、繰り返しを嫌う人にとっては、僕の話は耐え難いそうです。
ただ僕としては、同じことを繰り返していても、そのたびに別の表現をしたり付け加えたりしているので、何度も同じことについて書いているうちに、いつの日かきちんとその問題の真髄をつかめるんじゃないかと期待しているのです。それから、何度も繰り返してしまうということは、それだけ激しくそれに僕がこだわっているということです。
もし、面と向かって口頭で話しているときに僕がこのような繰り返しをしたら相手は疲れるでしょうけど、文章に書いたときには、問題は少ないだろうと期待しています。というのも、書いたものの場合、「これは例の繰り返しだな」と思えるところは飛ばして読めるからです。そして、イヤならばさっさと読むのをやめるか、後日にまわすこともできますもんね。
あがるまさんが努力を嫌がるタイプだなんて、僕にとってはとても意外です。努力を嫌がる人が、なぜそんなにまで超人的な知識を獲得できるのか、天才だからすごいスピードで難解な本を読みまくることができ、一度だけ読めばすぐに内容を覚えてしまえるからだろうか、とかいうふうに思ってしまいます。
僕は、何度も言うように凡才で、記憶力なんてひどいもので、僕の一番好きな英語を覚えるときでさえ、しかも記憶力が最高潮であるはずの 13才のときでさえ、一つの単語を覚えるのに、文字通り(ほんと、文字通り)200回か300回くらい読みながら書きながら大声で発音しないと覚えられませんでした。抽象的思考力もかなり劣っているらしく、あまり難しいことも考えられません。
でも、死ぬほど学問と芸術を愛していた。そのためなら死んでもいいといつも思ってた。だから、ほんの少しでもいいからその世界を知りたかったし、その世界で生きていけるような職業に就かないではいられなかった。
凡才の僕が学問または芸術に少しでも近い職業に就こうとしたら、何をしないといけないか?命がけで、気が狂う寸前まで勉強するしかなかったのです。だから、人生を楽しむ暇なんて、あるはずがない。空をゆっくり見上げたこともなかったし、トイレでボウッとしたこともなかった。歩きながら常に本を読んでたし、トイレでも外国語の暗記をしながらでしたから。
いい加減にほんの少しでいいから人生を楽しみたいと思って、5年前からしばらくは外国人のホステスのいるナイトクラブに行って遊んでましたけど、そこでも、外国語を彼女らから覚えるので必死になってしまう。
こりゃいかんというわけで、1年6ヶ月前から始めたのが、ダンスだというわけです。でも、これもまた、修行みたいにして自分を酷使しながらダンスしてしまってる。果たして僕は、何かをほんとに楽しんだことなんてあるのかな?
>僕の父親は、確かにいつも、恥ずかしそうに僕の部屋を外から覗き込み
そんなものなのでしょうね、父親は。
>南都雄二?
えっ、今そういわれて見てみたら、これは「何という字」だったとは。そうですか、実名としてはやはりめずらしい。
>果たして僕は、何かをほんとに楽しんだことなんてあるのかな?
間違いなく楽しんでいます。楽しむ形はいろいろあると思います。努力の形もいろいろあるもので、確かに私はあがるまさんも努力の人だと思う点は南都さんに同感です。
MWW
そうそう。僕のさっきのコメントは舌足らずでしたけど、Dr. Waterman 五百万石のいみじくも(しつこいっちゅうに)仰せしが如く、あがるまさんは、間違いなく努力家です。僕が太鼓判を押します。それをあがるまさんが努力だとは思っていないだけです。
おそらくは、本を読むことが呼吸するのと同じくらいに、あがるまさんにとっては自然なんでしょうね。僕にとっては、読書はちょっと苦しい。
ところで、パラフレーズが長すぎることについて僕が気を悪くしていたのではありません。僕が気を悪くした点は、あがるまさんがまるで一般論でも言っているかのような雰囲気で、「日本人は言い訳が多すぎる。そういう長い言い訳をそのまま英文にしたところで、果たして英文と言えるのでしょうか。閑話休題」というようなことを書かれたのです。
僕が博士に対して無礼なことを言ったことについて一生懸命にお詫びしたことを、あがるまさんは「言い訳」だと断定したのです。何の証拠もなく。
でも、もしあがるまさんが僕に対して面と向かってはっきりと「南都さんのこれこれこういう言い方は、言い訳だ」と批判してくれていたら、まだ僕は許せたでしょう。でもあがるまさんは、まるで僕の態度ではなく、全般的な一般論を述べているかのような雰囲気でした。だから僕は余計に気を悪くしました。
証拠もなく何でも断定してしまい、相手の気持ちをまるで無視して言い放ってしまわれる癖があがるまさんにあるのではないですか?それは、僕だけが言っていることではないはずです。たくさんの人から言われてきたはずです。
南都さん、
どうもそこの詳しいところは忘れてしまいましたが、原文の舌足らずなところ、あるいは俳句的に凝縮しすぎている場合(Cadyの例)何らかの explanatory interpretation が必要になります。一種の拡大解釈ですが、悪い意味での拡大解釈とは別で、原文の意を十分に汲み取ろうとする努力です。極端な例になるかもしれませんが、教会で短い聖書の引用から長い説教になるのもその一つでしょう。
だから、長いからといって悪いことはありません。逆に、字幕ならまだしも音声吹き替えの映画翻訳などでは、俳優の元の台詞の長さに合わせて翻訳するので、意味だけとって思い切り短くすることもあります。長くするにしろ短くするにしろ、大事なのは原文の意図や意味を勝手に解釈するのではなく、原文を裏切ることのないように努めることだと思います。
私自身は、一次的な原資料、例えば古写本の断片などの翻訳では、できるだけ余計な解釈を含めず、直訳するべきだと考えますが、なるべく広く新しいことを紹介するような翻訳においては、読者に合わせて大胆な意訳をすることも構わない、否、そのように翻訳すべきだと思っています。
つまり、矢鱈に直訳を気取っているが、ひょっとしたら、この翻訳者は書いてあることの真意を知らずに機械的に訳してしまったなと思うことがあるからです。もちろん反対に、この翻訳者は原文を正確に分析できないものだから、気分で適当に訳してしまったなと勘ぐりたくなることもあります。
だから、学術的なものにおいては誰でもすることなのですが、普段でもなるべく重要なものは原文を括弧に入れるなどして読む人が解釈に参加できる余地を残すようにしています。しかし、一般的な出版社などはそれでは煩雑で読みにくいなどと言うかもしれません。
なお、今まで門外不出の内輪話ですが、10年以上たって責任者も代わりましたし、時効だと思いますから少しだけ。①まず、本のタイトルですが、原著にある Theology が落ちているでしょう。日本では「神学」が入っていると売れないという出版社の方針でした。私は反対でしたが已むを得ません。出版で経済的なリスクを負っているのは私ではなく出版社ですから。②索引類も出版社でなく、私がデータをFDに入れて渡しました。普通そこまでする人はいませんが、私としてはどうしても人名などは元の綴りも入れたかったから編集者に任せませんでした。③あんな簡単な目次でなく、小見出しまで一覧できる詳しい原稿を作って、やはりFDに入れて渡したのですが、本になったらありませんでした。単なるミスか印刷コストを下げるためかわかりません。済んだことなのでクレームもしませんでしたが、あの詳しいほうの目次があれば全体が見通せてよかったはずです。
どうも南都さんのコメントから外れてしまいましたが、この際、私の翻訳観のようなものを述べさせてもらいました。(それから、出版社には迷惑は掛かっていないと思いますが、怖いな、ブル。)
MWW
慥かに私はそのつもりで書きました南都さんは(太宰のやうな)典型的な日本人だからです。
数行を眺めただけですが、南都さんのパラフレーズよりも原文の方が遥かに分り易い - これが私の正直な感想で、それ以上は読む気にならなかつた。
概念には歴史があるので云ひ変へるとその意味も盥の水と一緒に流されてしまふ。
誤解されることを悩んで居られるやうですが、そんなことで悩むWASPが居るとは思へません(インド人は分りませんが)。誤解の総体が人間でせう?
31.12.07.
相変わらず、あがるまさんの言葉はまるで理解できません。相手に理解されることを拒否しておられるというふうにさえ見えます。
僕が何度も「パラフレーズの件について話しているのではない」と言っていて、あくまで僕が博士に謝っていたことについてあがるまさんが「言い訳が多すぎる」と言ったことについて述べているのだと言っても、相変わらずあがるまさんは自分の非を認めず、常にご自分の言い訳ばかりしている。
他人をそんなにまで批判し、僕を批判するだけでなく、日本文化とか有名な思想家とかいろんなものを高いところから見下すのなら、それなりの覚悟をして批判し、まずは自分が他人のための手本になろうと努力するのが普通です。たとえば Dr. Waterman や小谷野敦博士は、かなり大きな批判もなさいますが、まずは自分の顔と本名をさらし、自分の研究とか業績をきちんと世間に公表して、努力しています。
あがるまさんは、何もしていない。それなのにその大きな態度。
私はもともとあなたとは話をする気はなかった。僕が一度でもあなたを偉そうに批判しましたか?僕があなたを攻撃していないのに、なぜあなたはそんなにまで何度も何度も僕を攻撃するのですか?
二度とあなたには話しかけませんので、死ぬまであなたは僕に話しかけないでください。
それよりも、まずは僕がここから消える方がいいですね。あがるまさんのいる場所には、二度と姿を現しません。吐き気がする。
博士へ、今度こそ、私の言葉はそのまま公表してください。
どうせ私のコメントは公開してもらえないと思うので、メール代わりにここに書きそえます。
再びあがるまさんをかばうなら、二度と僕にはメールも何も書かないで下さい。
百歩譲ってあげてるのに、それでも僕を侮辱し続けている彼の態度は明らかではないですか?
もし、「そうではない」と仰るのなら、どうかもう二度と私には近づかないでください。私もあなた(博士)には近づきませんから。
さようなら。あなたを尊敬していますが、他人のやることなすことにケチをつけながら、自分では何もせず、労働さえせず、社会の寄生虫として生きていき、そして自分の名前も明らかにしないような人をかばうような博士とは、二度と口を利きたくありません。
時代が感じられて、すごく面白いですね。逆に「いま」が何なのかを考えさせられます――と、横槍を一本。
あがるまさん、南都さん、
いつも言うことですが、お互いに無視できないのですよ。気づいていないかも知れませんが、お二人には感性や真理探究における熱情において、共通性というか temperament まで双生児のような酷似点があります。私がこんなことを言うと、お二人ともどこも似ていないとお怒りになるかもしれませんが、読者の多くは同意してくださると思います。似ているもの同士は、どうしても表面上はうまくいかないものです。その似た者同士は、一方が押すと、そっくりなものですから他方も押そうとします。だから、どちらかが止めろと私は申しません。どうぞ、疲れるまでやり続けてください。
他の読者(1日数回訪れる人の分を差し引いても)の数は分家より少ないのですが、こちらへの来訪者はどちらかというと硬派です。その硬派の人たちが、単なる好奇心ではなく、お二人の真剣なコメントまで丁寧に読んでいることは、ある程度知りえることをご存知の方はご存知ですね。何しろこのブログはそのデータまで公開しているはずですから、わかる人はわかる。(おっと、プライヴァシーまではわかるはずはありませんよ。ご安心を。)
私がとことん言い合って構いませんよというわけは、①既にお互いがお互いをある程度わかっている、②二人とも低級な罵詈雑言は使わない、の2点にあります。確かに、売り言葉に買い言葉が応酬することもありますが、おおむねご両人はどちらかといえば知的表現で議論しているように感じられますので、お互いがお互いを理解するというより、自分を理解するためにもこの場でとことん言い合ってはいかがでしょうか。(実は、聞いてる私たちも、新しい知識をお二人の応酬から得るだけではなく、なるほどと考えさせられることがあるのです。)
もっともっと言いたいこともあるのですが、というか私自身話し出すときりがない性質ですので、今日はこのくらいとします。なお、最後に一言。
よく言われることで、書き付けたものをすぐ送らず、一晩寝かしてから送れなどといいますが、そんな分別くさいことも私は嫌いです。もうお互いが、そんな性格もわかっている頃でしょうから、生の熱いものを思い切りぶつけ合ってはいかがでしょうか。チャッチャカ書いてジャカスカ送る。
そのためにしばらくの間 moderation key を off にします。つまり、お二人が投稿したら、私のチェックなくそのままコメント欄に現れます。しかし、お二人でなく誰かがいたずら的投稿をした場合は key を on にするだけでなく、そのようなコメントは削除します。私にとってもこれは冒険ですが構いません。
Mark W. Waterman
博士に対する先ほどの無礼について、再びお詫びします。僕の博士に対するひどい言葉にも関わらず、再びこんなにまで寛大な処置をしてくださいまして、ありがとうございます。
そして、あがるまさん、ここで再び「言い訳するな」なんてことを言わないでください。私は一度だって、言い訳したことがどこにありますか?言い訳しているのは、あなたではないですか?
僕とあがるまさんとの関係は、たとえて言えば、こういうことです。つまり、博士の近所にあがるまさんが引っ越してきた。そのあとに僕が引っ越してきた。たまに数人で出会ったとき、僕が「あがるまさんのお庭は立派ですね」と褒めていた。あがるまさんは、それに対しては常に黙っていた。
僕が今度はあがるまさんや博士に見習って、庭を自分なりに工夫して作ってみた。あがるまさんは僕の庭にずかずかと上がりこみ、「こんなのは日本的な庭だ。アメリカ的ではない」と言う。僕は何もアメリカ的な庭を造ろうとなんてしてません。日本的かどうかも知りません。ただ僕は、僕が好きなタイプの庭を造っただけです。
そして、何も僕は、僕の庭を見てくれと誰にも強制はしていません。僕の庭について批判してくれとか攻撃してくれなんてことを頼みもしませんでした。一つでは物足らず、僕は自分なりに庭造りを上達させたかったので、独学で庭について勉強し、二つ三つと庭を作った。あがるまさんは一つしか作っていない。
でも僕は、いつだってあがるまさんの作ったお庭を褒めはしたけど、絶対に変な批判はしなかった。もちろん、あがるまさんが「どうか批判してくれ。どこかがおかしいはずだ」と言ったら、僕なりの意見を言ったでしょう。もちろん、あくまであがるまさんにとって建設的な情報になるような助言だけを選んで言ったでしょう。でもあがるまさんは「私の庭を批判してくれ」とは仰っていないので、もちろん僕は批判などしません。
仮に心の中で気に食わないところがあったとしても、そんなことは言わないのが礼儀です。人それぞれ、好き嫌いがあって当然です。でも、いろんな人が暮らしているとき、自分に危害が加わらない限りは、相手の庭にずかずかと上がりこんで、「なんだこの庭は?変な庭だ。見る気もしない」と言って、相手の庭のあらゆるところをあげつらって批判し攻撃するようなことはしてはならない、というのは、誰もが知っているルールでしょ?
それをあがるまさんは何度も僕に対してやってこられたのです。それでも僕は耐えてきたのです。最初にあなたが僕を攻撃した一ヶ月ほど前、僕は返答しましたが、少しその言い方が過激だったので、moderation key を使っておられた Dr. Waterman は僕にメールをくださり、「あがるまさんの心を思いやってあげて、彼のためになるような建設的な返答をしてもらえませんか」と私におっしゃいました。博士とはそのあと数十通のメールを交換して、その結果、僕は納得して、あがるまさんのよい面だけをなるべく見るように努力しました。
一ヶ月以上、経ちました。そのあいだも、僕は一度もあがるまさんを攻撃したことも批判したこともないはずです。それなのに、あがるまさんは一度や二度ではない、何回も何回も私のやることなすこと、一つ一つに難癖をつけました。私が切れて当然だと思いませんか?
あがるまさんに、僕は何も、「僕を好きになってくれ」なんてことを言っていません。人間には好き好きがあります。僕もあなたが大嫌いです。でも、だからと言って、僕があなたのやることなすことに難癖をつけたり、あてこすりを言ったり、皮肉を言ったりしましたか?
あなたの言うこと一つ一つを、「それは~~~的だ」と言うステレオタイプな言い方で括ってしまうことによって、ちょっと聞いたところでは知的議論に聞こえながらも、実際には私を攻撃したような物の言い方を、僕は真似たことがありますか?
僕があなたを少しでも批判したことがありますか?僕があなたを批判したことがあったとすれば、それはあなたが僕を攻撃してくるから、「もし攻撃するなら、それなりの覚悟をして、きちんと面と向かって攻撃してください」というふうな形でしか批判していないではないですか?
もしあなたが僕を攻撃しなかったら、以前の通り、僕は常に、あなたに対して好意的な言葉だけで終わっていたでしょう。僕があなたのことをいくら嫌いであっても、僕には「僕はあがるまさんが気に食わない。~~~的だからだ」などという権利はないのです。
あがるまさんにも、そんな権利はないはずです。このブログに来られる人たちで、そんな真似をしている人がどこにいますか?誰だって、誰かが嫌いなのです。でも、嫌いなら、黙って去っていくか、それとも嫌いな相手とは話をしなかったらいいのです。
僕を嫌っている人は他にもたくさんいるでしょう。でも、その人たちは、僕が彼らを攻撃しない限りは、その人たちが僕を攻撃することはないのです。それは、その人たちが大人だからです。そういう大人のお付き合いをしましょう。僕はあがるまさんを絶対に攻撃しませんから、どうかあなたも、僕を攻撃しないでください。
Waterman 博士、ありがとうございます。それから、ここに来られている他のみなさん、もし嫌な思いをさせてしまっていたら、本当に申し訳ありません。(そして、あがるまさん、またもやこれを「言い訳」などとは言わないでしょうね。僕が他の人に謝罪することが、なぜ言い訳なのですか?なぜそれが日本的であり、ダメなことなのですか?)
南都さん、
再び不快な気持ちを抱かせてごめんなさい。でも、また忌憚のないところを表明してくださってありがとうございます。隠さず正直に述べてくださる南都さんを私のブログの読者は決して疎んじることはないはずです。
あのですね、関係者はここを見ることはないから私も書いちゃいますが、昨日は大変でした。細君が(私も含まれるのでしょうが、細君の名前だけでした)実の兄から絶交状を貰ったのです。兄でもなければ妹でもないって。
このところ遅れて来るクリスマスカードbelated cardsもありますから、細君は兄からだと喜んで封を切ったら、なんと絶交状! それから細君は姉に電話するは何やらで大変。書状には大昔のことまで書いてある。本来、彼女の兄はそんなことは言わないのですが、どうやら細君と兄(私にとって義兄)の嫁さん(義姉)は初めから折り合いが悪く、また義姉が何か義兄に対して私の細君がよろしくないと言っているらしい。
どうやら、義兄は「私の細君を種」に義姉に苛められているのはありあり。義兄の家庭の平和のための絶交状ならこちらは大人しくしてそっとして置きなさいと細君に言ったのですが、今度は細君が納まらないようで。今日はこれから親戚の家に行くのですが、どうなることやら‥‥トホホ。
南都さん、本年もよろしく!
MWW
Dr. Waterman へ、
奥様を巡る問題で大変そうですね。僕は Dr. Waterman みたいな人には、インターネット上であれ実生活上であれ、初めて出会ったと思います。だからこそ、僕は脂汗を文字通り両脇にドロドロと流しながら、震えながらあのときに博士に対して喧嘩を吹っかけたのだと思います。
なぜ脂汗が出たかというと、本来的に僕は喧嘩などできるタイプの人間ではなく、しかも、博士はたくさんの人から慕われていることは明らかなので、その人に僕が楯突いているのだから、誰かに殺されるか、それ以外のひどい仕返しを受けるかもしれないと思って、とても怖かったのです。
でも、それくらいに怖くても、博士だけは特別な人間だと思ったので、どうしても僕のこだわっている思いをぶつけたかったというか、いつのまにかそうしてしまっていたのです。
そして、僕がそんな思いをしてまで、つまり殺される覚悟をしてまで博士にぶつかったあと、今度は必死で謝罪していたときの僕の思いは真剣そのものだったし、恥ずかしさのあまり死にそうだったのに、それをあがるまさんがせせら笑うかのようなことを言ったので、僕は切れたのです。
あがるまさん、その意味がわかりますか? 人を批判するにあたっては、相手に殺されるかもしれないことを覚悟しないといけないのです。その覚悟をしていることを表明するために、実名と写真を公開しているのです。あるいは、実生活において相手の前に顔を現して、堂々と批判しないといけないのです。
それができないのなら、批判などしてはならないのです。そして、仮に批判をしたとしても、みんなから結局は笑いものにされるだけなのです。
どのように言い訳しようと、これは最終的な真理ではありませんか? Dr. Waterman や小谷野敦博士のおられる場所に出入りするということは、そういう人間としての責任ある態度を学ぶためでもあるのではないですか?
というわけで、Dr. Waterman、行ってらっしゃい。それから、月並みな言い方ですけど、その他のみなさん、どうぞ正月を楽しんでくださいね。
Post a Comment
Subscribe to Post Comments [Atom]
<< Home