ABC Called Her "Hero"
ABCテレビが「ヒーロー」と呼んだ女
写真の女性はJeanne Assamというボランティアの女性警備員。元警官で、銃を所持していたのでヒーローになった。女なのにヒロインじゃないのかと思う向きは大いなる勘違い。ヒーローとしか言わん。
(それはともかく、その前に、あがるまさん、あなたからのオーヴァベックに関する前回記事へのコメントを何日か見過ごしていたかもしれません。ごめんなさい。リリースして私からのレスも入っています。歴史と歴史叙述に関する短いレスですので読者の方もどうぞオーヴァベックのコメント欄をクリックしてください。)
話を元に戻す。先日、コロラドの2箇所で24歳の男が発砲殺人事件を連続して起こしたが、この女性からの銃撃で更なる惨事が未然に防げた。警察の詳しい調べでは、彼女に銃撃され複数の銃弾を浴びた犯人が自殺したことになっているが、彼女の銃撃が犯人の凶行を阻止したことに変わりはない。(未確認の話では、男の警備員はボケッと立っていて撃たれたらしいが、このジーン・アッサム姉さんは銃声の方角に向かって走り、犯人に一声だけ警告の上、すぐさま数発の弾丸を浴びせている。)
だいぶ前になるが、私が 「武器に対して武装せよ 」という記事を書いたときはネガティヴな反響があった。馬鹿なことを言うなとね。そのせいか、この記事に関してはいまだに時折訪問される方がある。
しかし、諸君、私が言ったとおりではないか。銃を所持することが銃による犯罪を防ぐのだ。銃が悪いのではなく、使う人間の問題なのだから、銃を持たせないと、悪人や狂人だけが銃を持つことになる。銃を持たない平和な囲いの中に、囲いのルールとは別の者が、囲いの外から進入するのだ。囲いの中にも銃は置くべきだ。(また、誰か言ってくるだろうな。)
この問題に関連して、私のこのブログの範疇なので、一言申し述べたいことがある。
教育は社会に任せよ。日本でも、キリスト教関連の人物や団体が、子供を学校にやらず、自宅で教育していることは聞いている。プロテスタントの根本主義者らの考えで、従来のミッションスクールとはわけが違う。やれ、普通の学校に通わせるとダーウィンの進化論を覚えてくるだの、神は迷信だと言われるからだの、世間の俗に染まるのだのと、理屈はいろいろあるだろうが、技術的にも自分たちだけで教育が可能なわけがない。
このような家の学校(home school)で育ったのが、今回の24歳の犯人だ。数年前に、初めに攻撃した若者の訓練機関に入っていたそうだが、日頃から友人に揉まれる学校という生活に慣れていないから、その時はあちらこちらで悶着を起こすトラブルメーカーとして追い出されたらしい。学校は、知識だけを身につけさせるところではない。人と人との関係の難しさや人と人との関係の温かさを学ぶところでもある。体育だってそうだ。大勢で一つのゲームに集中して、これから生きるうえでの人との関係や、更には社会を体得していくのだ。
この若者も、根本主義的なキリスト教思想の親のエゴの犠牲者であり、痛ましい。また、この親は、根本主義に毒された牧師や聖職者による犠牲者でもあろう。他人を殺めたうえ、殺された子供の親は、今どれだけ苦しかろうか。
写真の女性はJeanne Assamというボランティアの女性警備員。元警官で、銃を所持していたのでヒーローになった。女なのにヒロインじゃないのかと思う向きは大いなる勘違い。ヒーローとしか言わん。
(それはともかく、その前に、あがるまさん、あなたからのオーヴァベックに関する前回記事へのコメントを何日か見過ごしていたかもしれません。ごめんなさい。リリースして私からのレスも入っています。歴史と歴史叙述に関する短いレスですので読者の方もどうぞオーヴァベックのコメント欄をクリックしてください。)
話を元に戻す。先日、コロラドの2箇所で24歳の男が発砲殺人事件を連続して起こしたが、この女性からの銃撃で更なる惨事が未然に防げた。警察の詳しい調べでは、彼女に銃撃され複数の銃弾を浴びた犯人が自殺したことになっているが、彼女の銃撃が犯人の凶行を阻止したことに変わりはない。(未確認の話では、男の警備員はボケッと立っていて撃たれたらしいが、このジーン・アッサム姉さんは銃声の方角に向かって走り、犯人に一声だけ警告の上、すぐさま数発の弾丸を浴びせている。)
だいぶ前になるが、私が 「武器に対して武装せよ 」という記事を書いたときはネガティヴな反響があった。馬鹿なことを言うなとね。そのせいか、この記事に関してはいまだに時折訪問される方がある。
しかし、諸君、私が言ったとおりではないか。銃を所持することが銃による犯罪を防ぐのだ。銃が悪いのではなく、使う人間の問題なのだから、銃を持たせないと、悪人や狂人だけが銃を持つことになる。銃を持たない平和な囲いの中に、囲いのルールとは別の者が、囲いの外から進入するのだ。囲いの中にも銃は置くべきだ。(また、誰か言ってくるだろうな。)
この問題に関連して、私のこのブログの範疇なので、一言申し述べたいことがある。
教育は社会に任せよ。日本でも、キリスト教関連の人物や団体が、子供を学校にやらず、自宅で教育していることは聞いている。プロテスタントの根本主義者らの考えで、従来のミッションスクールとはわけが違う。やれ、普通の学校に通わせるとダーウィンの進化論を覚えてくるだの、神は迷信だと言われるからだの、世間の俗に染まるのだのと、理屈はいろいろあるだろうが、技術的にも自分たちだけで教育が可能なわけがない。
このような家の学校(home school)で育ったのが、今回の24歳の犯人だ。数年前に、初めに攻撃した若者の訓練機関に入っていたそうだが、日頃から友人に揉まれる学校という生活に慣れていないから、その時はあちらこちらで悶着を起こすトラブルメーカーとして追い出されたらしい。学校は、知識だけを身につけさせるところではない。人と人との関係の難しさや人と人との関係の温かさを学ぶところでもある。体育だってそうだ。大勢で一つのゲームに集中して、これから生きるうえでの人との関係や、更には社会を体得していくのだ。
この若者も、根本主義的なキリスト教思想の親のエゴの犠牲者であり、痛ましい。また、この親は、根本主義に毒された牧師や聖職者による犠牲者でもあろう。他人を殺めたうえ、殺された子供の親は、今どれだけ苦しかろうか。
24 Comments:
Jeanne Assam は、勇敢なだけでなく、きれいな人ですね。ところで、Jeanne Assam という人名の前または後ろに hero をつけたケースと heroine をつけたケースを比べると、確かに hero の方が10倍くらい多いみたいですね。なるほど、他の国はいざ知らず、少なくとも今のアメリカでは heroine という言葉をあまり使わなくなっているのですね。
ほんと、political correctness は、僕にとっては難しい。女性の俳優も、actress と言うと sexist だから actor と言った方がいい、とアメリカ女性から言われたこともあります。
あるいは、Native American Indians については、Indians という言葉が差別的だと思う人もあれば、彼ら自身が自分を Indians と呼んで、その言葉に誇りを持っている人もいるらしいと聞いています。また、Native Americans と呼ぶべきだという人もあれば、そうでないという人もいるから、ややこしくってかなわない。
foreigner という言葉を「外国人」という意味で使うのはとても悪いというから、それでは、日本にいる外国人をどう呼べばいいのかとアメリカ人に尋ねると、Americans と呼べという。non-Americans に対してはどう言えばいいのかというと、「わからない」ですと。なんちゅうこっちゃ。と言うわけで、仕方がないから僕は、日本にいる外国人のことは people from abroad, non-Japanese などと呼んでいますが、これでいいのかな?
それはともかく、今回の Colorado shooting も痛ましいですね。犯人の Matthew Murray (24) についての記事を Internet 上で読んでたら、彼の書いた次のような shocking な文章が目に留まりました。
UPDATE: Matthew Murray was hearing voices and left behind this anti-Christian screed:
"I'm coming for EVERYONE soon and I WILL be armed to the @#%$ teeth and I WILL shoot to kill. ...God, I can't wait till I can kill you people. Feel no remorse, no sense of shame, I don't care if I live or die in the shoot-out. All I want to do is kill and injure as many of you ... as I can especially Christians who are to blame for most of the problems in the world."--Matthew Murray, gunman at both Colorado shootings.
http://gatewaypundit.blogspot.com/2007/12/colorado-shooter-was-christian-hater.html
南都さん、コメントありがとうございます。最初のコメントは、誰かガンコントロールの立場からのお叱りと思っていたのですが、ほっとしました。
へー、やはり heroine にしている記事もありますか。まー、ないこともないでしょうね。しかし、今では小説や芝居や映画の女主人公という意味でしか heroine は使われないようです。
呼称は難しいですね。LAにいる日本国籍を有する韓国系日本人に日本人と言ったら、いいえZAINICHI Korean です、と言い返されたりします。それぞれに誇りを持ってきたのでしょう。明らかにおかしな表現でなければ、こちらも神経質になる必要もない。
少なくともアメリカの法律用語では外国人は alien を使っています。何となく宇宙人のニュアンスもあるのですが、入国審査やその他の関連書類は皆 alien ですね。
彼は絶望していたし、絶望するように育てられてしまったと思います。やっていることがやっていることですから、ジーンさんが射殺するしかありませんでしたが、私はとてもかわいそうだったと気の毒でなりません。
いわれのない宗教の弾圧もよくありませんが、狂信的な宗教家や大人は、子供たちの敵、社会の敵です。 MWW
"Arm Against Arms!" と叫ばれた Dr. Waterman の気持ちとか立場とか状況は、僕にはよくわかるような気がします。僕は僕の人生の 51 年のうち、4年を除いて残りの 47年間は日本で生きてきたし、guns の所持が自由な国には行ったことはないから、アメリカの事情は直接的にはわかりません。
でも、アメリカを僕なりに外から眺めて来た結果、僕らにはわからないアメリカの特殊な歴史と社会状況を考えると、どうしても guns を持ち続けざるを得ないという感じがします。
さて、Jeanne Assam を heroine とか hero と呼んでいる例文の出現頻度を比較するにあたっては、僕は次のように行いました。
(1-a) Jeanne assam heroine"
--- Google hits: 2
(1-b) "heroine jeanne assam"
--- Google hits: 31
Heroine total: 33 hits
******************
(2-a) "jeanne assam hero"
--- Google hits: 179
(2-b) "hero jeanne assam"
--- Google hits: 514
Hero total: 693 hits
**********
Hero / heroine = 693 / 33
= about 20/1
というわけで、僕は最初 heroine よりも hero の方が 10 倍くらいだと言いましたが、この結果を見る限りでは、20倍くらいですね。ただし、このような Google の検索結果というものは、現実をそのまま正しく映し出しているとは限らないので、眉唾ものです。でも、それなりの参考にはなりますよね。
Matthew Murray についての記事を詳しく読んだわけではないので、あくまで僕の勝手な想像ですが、彼は死にたかったのだと思います。死にたいけど、自殺することさえ許されないというがんじがらめの道徳とか宗教とか人生観に呪縛されていた。
それでも何とか死にたい。でも彼なりの理由のために死のうとしていた。そして彼なりに、彼自身や彼に似た人たちを苦しめ続けている根本的な悪の根源を除去しようとしたわけだと思います。
もちろん、他の人たちに言わせればとんでもない論理ですが、彼なりの、不幸にして捻じ曲がってしまった人生観に基づく死に方を探していたのだと思います。だから、Jeanne Assam によって射撃されてよかったのです。
第一、彼自身が走り書きの中で言ってますよね。"I don't care if I have to die or not." とか何とか言ってますよね、実は彼の本音は、
"I want to die as soon as possible, but something in my mind or outside it tells me not to, so my only choice is to do something drastic that leads me to death."
ということだと思います。彼自身もそれには気づいてなかったかもしれないけど。オウムの信者たちも、あるいはその他の、たとえば fundamentalist Muslims とか、あるいは40年くらい前に Tel Aviv で無差別にたくさんの人を射殺した日本人にしても、みんなそうだったのではないかと僕は勝手な想像をしています。
そうそう。戦時中の軍人や特攻隊の人たちの中にも、やはりそういうふうに死に場所を求めていた狂信者たちがたくさんいたのではないかという気がします。
死にたかったのだから、死んでよかったのだと思います。そして、不幸にして、その人たちは他の罪なき人たちを巻き添えにしてしまったことは、とても悪いことですね。
(なあんて、偉そうなことを僕は言ってます。独り言です。)
Wow, そんなことをしていたのですか。しかし、実感としてもそんな気(1/20)がします。悲劇のヒロインなら納得できますが、やはり女性でもこの場合ヒーローが自然ですね。
(なお、この女性形はギリシア語女性語尾で、わざわざ知ってるぞということになるわけですが、そんな衒学趣味は逆に大手の放送局や新聞社の記者はしないような気がします。つまり、1/20 は地方紙か素人?)
MWW
誰でも死のうと思ったときはそれほど長く続くものではありません。特に若者はそうです。その短い時間さえうまく乗り切ることができたら、生き続けます。
人は生きなければならないし、生き続けられるように助け合うべきです。どうせ何時かは死ぬのですから死ぬまで生きるべきです。(どうせ死ぬのだから今勝手に死んでやるというのは病気です。病気はみんなで治してやるべきです。)
MWW
なるほどね。確かにそうだと断言したいんですが、そうでないようなケースも多いみたいで。というのも、死にたいと思う時期がほんの数年ではなくて、数十年経っても続いている人がいるんですよね。そういう人には、精神的な安楽死をさせてあげたいくらいです。
問題はそこなのですよ、南都さん。楽に生きられるように助けてあげるしかありません。死なすのではなく、生かしてあげるのです。荷物が重いのだから、何とか軽くしてあげれば、死んだほうがいいとは思いません。
MWW
確かに、問題はそこにあるようですね。決して変な議論を吹っかけるつもりはないんですけど、長いあいだ苦しんでいる人や、他の人から見れば精神的な病気に見えるような人たちは、次の二つに分かれるように思うんですよね。
(1) 苦しんでいる本人が、自分が病気だと感じている。助けてもらうことによって、その病気が治るときが来ると信じている。
(2) 苦しんでいる本人は、できれば楽になりたいけど、最終的にはその苦しみはなくならず、しかもその苦しみがなくなることはむしろこの世の矛盾や邪悪さに妥協したことになるから、むしろ死ぬこと(または消極的にのみ生きること)を本人が望んでいる。
(1) のように、本人が「僕自身の病気を治してくれ」って言っている(あるいは潜在的にそれを望んでいる)ときは、おおいに助けてあげればいいと思うし、僕も助けてあげたい。そして、最終的にその人が助からなくても、助けてあげようと思う回りの人たちの善意に、そういうタイプの人は感謝して、それを人生の喜びだと感じることも多い。
ところが、(2) の場合もある。このようなタイプの人は、むしろ、自分以外の大多数の人の方が病気だと感じている。自分は確かに苦しい。そして周りの大多数の人たちは人生を謳歌している。(あるいは、そこまでいかなくても、それなりに「行き続けることはよいことだ」と信じて生きている。)
(2) のタイプの人は、生き続けることに意味を感じていないし、むしろ生き続けることが妥協とか弱さでしかないと思っている。そして、自分自身も、死ぬ「勇気」がないからこそ、生き続けるという邪悪な道を選んでいるに過ぎないと感じている。
そういう、(2) のようなタイプの人の場合で、しかも数十年経っても人生に「意味」を感じることができない場合は、むしろ死なせてあげたいと僕は思います。変に助けてあげようとすると、かえってそれは傲慢なことにもなる。生き続ける方が、途中で死ぬよりも better であるという証拠は、少なくとも (2) のタイプの人から見れば、ないんですからね。
詰まらん議論だったら、適当に無視してください。これこそ junk かもしれませんから。
証拠も何も、明らかに勘違いです。死にたい人など本当はいないのです。死にたくないからいろいろな信号を出すのです。若い人の「死にたい」というメッセージが「死にたくない」というメッセージであることは精神科の常識です。
年配になっての覚悟の場合は、人の世話になどならずきれいに死ぬだろうから、他人がとやかく言ううことはないでしょう。(刃物による自殺の場合、若者にはためらい傷があるが、年配者にはないそうです。)否、その場合でさえ、自殺を幇助する、あるいはプロンプトする、あるいは容認するなら、その人はいわば「殺人者」です。
死は必ず来るが、とりあえず生きなければ取り返しがつかないことになります。あせらなくても誰でも必ず死ぬのですから、死ぬことが幸せなら、行き続けてから、あるいは苦しみ続けてからでもいいではありませんか。時が至って死ぬほうが、最高の死を味わえるでしょう。だから、とりあえず生きよと言うしかないのです。
安楽死とは極めて差し迫ったものを指すと思ったほうがいいでしょう。ローマの死刑執行人への賄賂というのがありました。何だと思いますか。親が吾が子の死刑執行にあたって、特に国家への反逆罪などには十字架刑などが適応されたので、せめて苦しまずに死ねるように密かに早めに致命傷を与えてくれるように頼むのです。命乞いのためでもなく、死体を返してほしいためでもなく(しばしば死体は返却されず、川などに棄却された)、情けの一撃のために賄賂を贈った。これを、キケロが親の「耐えがたき苦しみ(intolerandum dolorem)」といって In Verrem という本に書き残しています。
これだけのむごい状況でない限り、命を粗末にしてはならないと思います。助けてあげることが傲慢であることなど、この「命に関する限り」絶対にありません。
そのような人(死にたい人も、死んでよいと考える人も)は、生きたくていきられなかった人たち(例えばホロコースト)、そして今も、例えば生きたくて生きられないHIVの子供たちに、心からの目を向けてほしいと思います。きっと何か別の感慨が浮かぶでしょう。
命はもともと自分の自由にならなかったものです。むしろ、そう言うと怒られるかもしれませんが、それが自由になると考えること自体傲慢なのではないでしょうか。誰も自分の生誕の期を知らなかったのに、死期を勝手に定めてはいけません。だから、人は、命のはかなさ、命の重さに思い至ったときに、今はわからない大いなる力を感じ、謙虚になることができます。
牧師として言っているのではありません。一人の小さな小さな個人として、心からそう思います。
Mark W. Waterman
ところで、例の Dr. Ehrman による新しい本のテーマは、どうせ古今東西のあらゆる哲学者や文学者や心理学者が論じつくして、まるっきり新鮮味も何もないのかもしれませんけど、気になります。junk だと笑われそうですけど、笑われながらも、ちらりと冒頭だけでも読みたいという気がします。
早くこの本が出版されること、そしてそれについての Dr. Waterman によるこき下ろし評論が楽しみです。できれば僕も読んでみたいと思っています。難しくて、あるいは根気がなくて、読めなかったりして、
Bart D. Ehrman
God's Problem: How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question--Why We Suffer
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0061173975/ref=ord_cart_shr?%5Fencoding=UTF8&m=AN1VRQENFRJN5
死にたいと言っている若者は、実は生きたいという信号を発しているのだ、という議論は、もちろんよく知っていますし、それを踏まえて僕も話をしていますよ。
いずれにせよ、何かを断言すること、確信すること、それこそが誰かを深く傷つけることになることが多いと思います。彼らに対して、生き続けることが大切だとか、彼らの勘違いだとか、そういうことをこちら側で断言したり確信したりしていても、それこそ、こちら側の「勘違い」かもしれないというふうに思っている方が、彼らのためになるという側面もあるでしょう。
ともかく、病気を治してあげる、というような態度こそ、実は一番、彼らを傷つけることだってあると思うのです。Matthew Murray が具体的にどのように育ったのか、彼の親がどうであったかは具体的にはわかりませんが、彼の親とか、その親を教育した宗教的指導者たち自身も、やはり一つの考え方を確信したり断言したりしていたからこそ、たくさんの人を結局は苦しめていたということになります。
「いや、そいつらは狂信的な連中だ。僕らは違う。僕らはむしろ、人に優しく、とか、人生を生き続けることが大切だとか、命を粗末にしてはいけないとか言い続けているのだから、そういう狂信的な連中とは違うぞ」
というふうに人は言うでしょう。でも、何かを確信したり断言したりすること自体が、そもそもおかしいというふうに言うこともできるんじゃないでしょうか。
どうも、説明が下手ですみません。言いたいことの10分の1さえ言えていません。日本語でさえ僕の表現力はこの有様。
彼の文章はわかりやすい。考えは浅い。
この分野での古典に John Hick の本があるのですが、今学部段階での教科書として気にいっている本があります。全頁写真で軽薄な感じですが、哲学と宗教学の両方の教科書に使えそうで気に入りました。
Stephen Law, Philosophy -Eyewitness Companions, New York: DK Publishing, 2007.
MWW
難しいことでも、考えることでもありません。考える必要のない、問答無用で正しいこともあるのです。生きることは正しい。
MWW
「生きることは正しい」と思っている人は、幸いにしてそういうふうに考えるように頭や心が program されていると思います。そして、それをそのように program しているのは、そういう特定の化学物質が特定の働きをしやすい状態にあるからだと思います。
そして、そのような種類の化学物質がそのような特定の仕方で働きやすいがゆえに、心や頭がそのような特定の方向に機能しやすい「傾向性」が高い人(またはその他の生物)が、この世において fit なのであり、survival of the fittest の原則により、そういう人や生物が生き続けていくのでしょう。
そして、そういう傾向性の低い人は、人生のある段階で(遅かれ早かれ)競争に負けることになるので、いつしか生きる勢いが弱まり、病気になったり怪我をしたりして衰退するか、あるいは自殺するか、あるいは何らかの形で勢力が弱まります。
そしてそのような傾向性の弱い人は子孫を生み出す可能性も低いので、自然と、そのような傾向性の高い人が残す子孫の割合が高まり、数千年、数万年、数億年、数十億年のあいだに、そういう傾向性の高い人あるいは生物の割合がこの世の大多数を占めることになります。
だから、そういう傾向性の高い人の論理がこの世を支配するのは当たり前であり、そういう人の論理は多数派なので、それはきわめて自明のことであり、考える必要もないことであり、証明の必要もありません。
というわけで、少数派はなるべく早く衰退した方が、当人たちにとっても、多数派たちにとっても都合がよいのだと思います。
ただし、これは僕がそのように望んでいるのではありません。多数派の人たち自身が望んでいることです。少数派の発想を間違いだと決めつけ、勘違いだと決め付けて、少数派の目線で物を見ようなどという心などまるっきり持たないのです。
そして、多数派はそのような姿勢を持つ必要もないのです。そして、仮にそういうものを持ったほうがよいとしても、永遠に多数派は多数派の発想しかできません。そのようにして数十億年という生物の歴史が展開されてきたのです。
南都さんの考え方を、今現に悩んでいる方が持っているのかどうかが、むしろ私の気掛かりです。
今悩んでいる人は重荷を降ろして生き続けなさい。きっとよいことが待っています。
MWW
僕自身は幸いにして単純に生まれついており、思いっきり学問(学習)に打ち込むことさえできれば、それだけで生き続けることができます。(その代わり、僕の知識追求の邪魔が入ると、とても厭世的になります。)というわけで、僕は、人生の虚無を忘れさせてくれるようなものを持っています。
でも、そういうものを持たない人が、現実にいます。少なくとも、一人、僕のきわめて近くにそういう人がいるのです。その人との付き合いは、この数十年にわたって続いていますが、その人が楽になる様子はありません。彼にとっての唯一の安心できる話し相手は、僕だけみたいです。
その他の人はみんな、彼の「病気を治してあげよう」という態度とか、「そういう考え方はおかしい」とか「それは傲慢」だという発想からしか彼を見ないですから、彼としては本気では話をする気になれないようです。
それはともかく、その人が誰であるかは、尋ねないでくださいね。
よくわかりました。話し相手になってやってください。
議論や哲学的な詮索と、現実の(生身の)人を扱うこととは違います。とても慎重な対応が必要ですね。
(ところで南都さん、お休みなさい。)
MWW
>>> Stephen Law, Philosophy -Eyewitness Companions, New York: DK Publishing, 2007.
この本を薦めて下さって、ありがとうございます。さっそく日本の Amazon でも買えることを確かめました。一部の洋書は、日本のアマゾンではどうしても買えず、高い運賃を払って外国から取り寄せ、さんざん待たされることもあります。
John Hick の古典って、どういうタイトルのものでしょうか? 一応タイトルだけでも頭の隅っこに置いておきたいので、チラッと教えてもらえますか?タイトルだけで結構です。すぐに検索できますから。
南都さん、
Evil and the God of Love という本でベストセラー(bestselling book)になりました。今から40年前の本で、10年後に改訂した版が今でもペーパーバックで出ているはずです。安いはずです。
他に、Death and Eternal Life というのもありますが、上の本ほどではありません。ただ、1970年代までの有名哲学者や神学者の死生観を紹介しているのがあんちょこ的に面白いかもしれません。これもそれほど高くはないでしょう。また、その他の本はWPでもご覧ください。日本語訳もあるのでしょうが、必要はないでしょう。原文で読んだほうがいい。
漠然と死生観を議論したり一人で思い巡らすよりはHickの議論くらいは押さえておいたほうがいいと思います。しかし、現在のこの分野も更に進んでいるし、宗教家の視点はまた違います。そして、Hickに同意する(concur with)としても「激しく」は困ります(笑)。
わが師も出た英国バーミンガム大学で教えていましたがLA郊外の私も度々訪れるクレアモントでも教えていました。クレアモント大学とはそういう大学です。
MWW
「クレアモント大学とは、そういう大学」というのは、神学や聖書学を大切にする大学という意味でしょうか?
その大学を無知なる僕は知らなかったのですが、
http://www.cgu.edu/pages/1.asp
というサイトに出てくる Claremont Graduate University のことなんですね。なるほど、大学院だけでできている大学なんですね。うわ~、すごいな~。Dr. Waterman もよくそこに行かれるということは、そこで教えておられるんでしょうね。
それから、Dr. Waterman の先生が出られたイギリスの University of Birmingham も、やはり神学や聖書学を大切にする大学なんでしょうね。
知らないことばっかりなので、愚問ばかりかもしれませんけど。
University of Birmingham の Department of Theology and Religion の公式サイトの宣伝文句を眺めましたら、冒頭に次のように書いてありますね。
In both size and variety of activities the Department of Theology and Religion at Birmingham is one of the most comprehensive in the country, and in such fields as Textual Studies, Pentecostal and Charismatic Studies, Inter-cultural Theology, Inter-religious Relations, Islamic Studies, Religion in the Contemporary World and Quaker Studies it is acknowledged both nationally and internationally.
http://www.theology.bham.ac.uk/
なるほど、神学や宗教学では、規模と活動の多様さにおいてUK有数なんだということですね。面白いです。
いろいろと誤解されるような言い回しばかりでごめんなさい。更に説明すれば、ますます誤解されるかもしれませんが、以下敢えて。ただし、私の勝手な評価です。
>「クレアモント大学とは、そういう大学」というのは、神学や聖書学を大切にする大学という意味でしょうか?
(MWW)確かに、クレアモント大学というと(http://www.cgu.edu/pages/1.asp)Claremont Graduate University のことになりますが、オックスフォード大学などと同じで、単独のクレアモント大学というのは存在せず、幾つかのクレアモント市にある大学が集まってクレアモント大学群となり、その大学院の名前が Claremont Graduate University となっています。従って、undergradute 学部課程もあるので大学院大学ではありません。とても学費の高い私立大学です。(他に、LA地区ではUSCとPepperdineが高い。)
この大学群には神学大学院Claremont School of Theology もありますから牧師の養成もしています(MBAと同じように3年課程の大学院でM.Div.という修士号を授与)。創立時も今もメソディスト(現在UMC、私もときどき説教する)の教団立神学校で、教団同様どちらかというとリベラルな学校です。ただし、単独でPh.D.の学位を出すことはできませんので、Claremont Graduate University との共同で博士の学位を出しています。
私がクレアモントという場合は、この総体としてのクレアモントを指しています。そして、このクレアモントは、神学も哲学も、伝統的に、私から言うと「変な人」たちが教えているのですが、もちろんそうでない人たちもたくさんいます。(不思議なことに、卒業生も「変な人」とそうでない人に分かれますね。当たり前ですが。)
>Dr. Waterman もよくそこに行かれるということは、そこで教えておられるんでしょうね。
(MWW)教えていません。クレアモントの神学大学院はフラーの神大学院とは図書館の相互利用協定があるため、どちらかに所属していれば両方自由に使えるからです。全体としての規模や蔵書数はフラーのほうが大きいのですが、聖書学の分野では、フラーにない資料をクレアモントが持っていたりしますので、借りに出向きます。また、近所ですので知り合いの先生方も多い。(近所といっても120kmで飛ばして片道45分かかりますから、今は年に4-5回しか行きません。)
>それから、Dr. Waterman の先生が出られたイギリスの University of Birmingham も、やはり神学や聖書学を大切にする大学なんでしょうね。
(MWW)神学や聖書学の本格的な課程があるという意味では、大切にしている大学ですが、欧米の古い大学は皆そうです。日本は、神学部やキリスト教学科があるといっても、本格的な教育をしているのは少ないですね。「変てこなクレアモント」でさえも、日本よりましなことは確かです。
以上は、関係者よりのお叱りを覚悟で私見を述べたもので、文句を言われても議論には応じません。私個人の感想です。
MWW
バーミンガムの大風呂敷も大したものですが、大学群であるオックスフォードやケンブリッジ、更にロンドンも忘れてもらっては困る。単独の場合でも、ブリストルなどもいいし、古いところでセントアンドリューズ、新しいところでシェフィールドもがんばっていると思います。
MWW
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