Comments by Agalma and Nanto on Recent Entries
あがるま氏と南都氏からの最近の記事へのコメント
私のブログのよくないところは、コメントが入っている見出しがないことです。最近の記事である、Overbeck Overturned or Overbeck 101 と ABC Called Her "Hero"には、それぞれ10から20を超えるコメントとレスがあります。途中のコメントはともかく、どちらも終わりのほうのコメントとレスにはひょっとして役に立つ情報もあるかと存じます。
ずーっとドラッグダウンして終わりのほうだけでも覗いていただければありがたい。前者はあがるま氏、後者は南都氏からのコメントが主になります。
22 Comments:
いつもいろいろと教えてくださって、ありがとうございます。John Hicks のお話や英米の大学事情についても、すぐに忘れてしまいそうだけど、なるべく頭に入れておきたいと思います。
あがるまさんと Dr. Waterman との Levinas だとか Overbeck だとかいろんなお話は特に重要であるに違いないので、ちゃんとついていきたいけど、今の僕には無理です。でも、通読だけはしています。
Levinas の「全体性と無限」(La Totalite et l'infini) は、日本語で通読だけはしたことがありますが、内容を理解したわけではありません。日本語版は特に難しそうだったけど、フランス語なら余計にわかりませんでしたが、それでもフランス語版をほんの20ページほど読んだこともあります。日本語版では散文的にならざるを得なくても、原文なら poetic な感じがしました。
そういえば、Le Deuxieme Sexe (Simone de Beauvoir) も、英語版を通読したあと、日本語版をちらりと拾い読みし、さらにフランス語版も拾い読みしました。英語版や日本語版の文体はゴツゴツしているけど、フランス語による原文は、ここでもやはり poetic で rhythmical な感じがしました。やっぱり、どの本でも、原文で読むのが一番と言うわけですね。当たり前ですけど。
南都さん、
聖書の翻訳文でもそうですが、翻訳文そのものに慣れなければならないということがあります。いわゆる、単語や言い回しの習慣の習得です。しかし、せっかく南都さんのように原文で読めればそのほうがいいでしょう。
フランス語から英語への翻訳は割合に素直にわかるのですが、日本語への場合、とくに翻訳単語の選択や独特の言い回しの理解という二重の負担があるように思います。だから、日本語への翻訳者が、文構造はわかっても内容を理解せずに訳す場合があると、まるでわからないことになってしまいます。
内容がわからなくても、仏文から英文ならば直訳してすましていればいいのですが、和文はそうはいきません。だからある程度の意訳(説明訳)が必要になるとも言えます。
何語にも共通する理解の問題としては、わが師のお得意の「野球のルール理論」があります。わが師は元々はイギリス人でクリケットはわかっても野球は知りませんでした。シカゴで野球見物をしたとき、皆が興奮しても自分は一向にわけがわかりません。英語は完全にわかっている!しかし、ルールを知らなかったからです。
しかし、見ているうちに少しずつわかってきて面白みもわかった、と言っていました。趣味と同じでやっているから益々面白くなるわけですね。南都さんの語学もそうだと思います。
最後に、面白いことを発見。南都さんは、私が John Hick を知ったときと同じ間違いをしています。
Hick という姓は Hicks ほど一般的でないので、どうしても John Hicks と言ってしまいます。しかも、John Hicks という人は結構有名人がいる。哲学者は John Hick のほうで John (H.←彼のミドルネーム) Hick のことです。
MWW
南都さんとのやり取り、興味深く読ませて頂きました。銃所有ですが、日本に銃刀法があって良かったなあとは思いますね。でも最近、日本でも拳銃の犯罪が増えて来ています。佐世保の乱射事件では、いみじくも容疑者の遺体はカトリック教会で見つかりました。許しを乞うたのでしょうか?先日、私の大好きなジョディー・フォスターの『The brave one』と言う映画を観て、銃社会に生きて居る事の悲しさ、大変さを痛感しました。それにしてもカトリック教会を選んで正解でした。私は根がラテン系なもので(笑)。
翻訳については、柳父章(やなぶ・あきら)という人が有名らしいですね。僕はこの人の本を4冊くらい読んだことがあります。この下に挙げたリンクをたどると、日本のアマゾンで売っている彼の本のリストに出合います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/250-4280711-8325840?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E6%9F%B3%E7%88%B6%20%E7%AB%A0
この柳父章が書いていることは、僕なりに簡単に言えば次のようなことです。
日本が西洋文化を取り入れるにあたって、特に明治維新以来、急速に大量の人工的な翻訳語を作らざるを得なかった。そのことには利点もあれば欠点もあった。
利点は、学問的・専門的な日本語と日常的な日本語とをきっちりと分けて話をしやすいということである。(ちょっと、この「利点」については、僕の記憶違いかもしれません。)
欠点は、学問的・専門的な日本語と日常的な日本語とが大きく乖離してしまって、この二種類の日本語があたかも互いに外国語であるかのように見えることである。
とまあ、以上のようなことを著者はあちこちの本で書いていて、それを克明に描き出していて、僕にとってはとても面白かったし、役立ったのです。
それはともかく、僕は、(特に明治維新以来の)日本語が二重構造になってしまって、専門分野(学問分野)の日本語が気持ち悪くてたまんない。
僕がカタカナをなるべく使わないで、(他の人にはキザに見えるだろうけど)なるべく西洋諸言語のローマ字のままで表記しようとするのは、そのためもあります。カタカナだったら、それが人名であれ専門用語であれ、その元々の意味や背景を知ろうとしたら、どうしてもその元の綴りを知って、その元の言語の辞書や資料をたどらないといけない。カタカナの固有名詞や専門用語のままで、日本語の辞書や資料を見ても、載っていないときが多いし、載っていたとしても、日本語での資料や情報は、たかが知れている。
だから、日本人の書く文章も、これからなるべく、カタカナで表記するんだったら、必ずそのあとに括弧をつけて、元のつづりもつけてくれたらいいのに、と思います。僕は産業分野でいつも英訳をしていますが、日本人の書くカタカナによる固有名詞や専門用語の元の綴りを探し出すのにいつも苦労しています。
カタカナ語の問題だけではありません。むしろもっと大きな問題は、さっきも言ったように、翻訳語です。翻訳語の大多数は明治維新以来に急速に作り出されたものです。まだ明治維新のころに作り出されたものなら、たとえば福沢諭吉が作ったとされている「自由」という言葉なら、120年くらい使われ続けてきたので、ある程度は日本人の頭の中で定着しています。でも、つい数年前に作り出されたばかりの翻訳語(そしてカタカナ語)が蔓延する中で、そういう人工的な日本語が半分ほどを占めるような日本語を読んでいると、とても気持ちが悪いのです。
だからといって、すべての言語を習得してそのそれぞれの言語で原文を読むわけにもいかないのですけどね。だからある程度は翻訳に頼らざるを得ない。でも、たとえば英語の native speaker なら、僕らに比べて問題ははるかに単純です。
いくら Heidegger が難しいとは言え、そしてドイツ語原文で読める人が限られてるとは言え、その英語版は日本語版に比べたらはるかにわかりやすいはずです。でも、Dr. Waterman がいみじくも仰せられしが如く、ドイツ語やフランス語というような西洋諸言語から英語に訳したときには、意味がわからなければ直訳してすましていても、一応は通ってしまうのですね。読者も、直訳に過ぎなくても、ドイツ語から英語への直訳なら、なんとなくわかる。
そして、仮にわからなくてどうしてもドイツ語を勉強しないわけにはいかないときが来たとしても、英語の native speaker にとって、ドイツ語を習得することは、日本人がドイツ語を習得するときの、100分の1の労力ですむはずです。そして、native speaker の先生でしかも bilingual である人たちが、それぞれの町にごろごろとおられるはずです。
というわけで、日本語の native speaker が複数の主要な西洋諸言語を習得して、哲学・文学・社会学・神学・歴史・科学など、複数の分野にわたって、せめて教養程度でもいいからぼんやりと世界の名著を読んで見たいと思っても、それは夢物語に近いのですよね。
凡才の僕でしかありませんが、そういう夢物語を自分なりに実現したくて、今日ももがいているのです。
Linus さん、
私も多分、気分はラテン系です。そういえばラテン系はカトリックですね。(そのうち、カトリックに改宗するかも。)
問題なのは、銃のないはずの羊の園に銃をもった狼が来ることです。(羊にも銃を上げたい。)
MWW
銃を持つべきかどうかについては、それぞれの国の歴史や国民性などの特殊な事情から、ぞれぞれの国の人たちが自分たちにとって一番よいと思う方法を採ればいいと思いますし、どうせどのようにわめいたところで、みんなはそうしていくでしょう。
そして、アメリカの歴史と国民性とか、国土がやたらに広いのに荒っぽい性格の人が多いという情勢を考えたら、アメリカには、必要悪としての銃を一般の人が持たないわけにはいかないだろうと思います。ただし、こういう問題についてはもちろん、アメリカ人以外の人間がアメリカ人に対して、「こうした方がいい」なんてことは言うべきではないと思います。僕としてはなるべく、「なぜアメリカ人たちは銃を持たないではいられないか」ということを理解したいと思うだけです。
さて、もし日本で「銃を持つべきだ」という考えが台頭してきたら、僕なら反対するでしょうね。一般人が銃を持つことによって、確かにたくさんの犯罪や犠牲者を減らすことはできると思います。でもその反面、一時の激情による犯罪や事故、そして、一般人が銃を持ったばかりに、犯罪者たちの方が以前よりも激しく銃をぶっぱなすことが多くなり、結局は、犯罪や犠牲が減る量よりも、増える量の方がはるかに多くなると思います。
というわけで、日本でどうすべきかという議論になったら、僕ならば「日本では銃の所持は反対」と言います。
Linus さんが仰ってた Jodie Foster の映画、面白そうですね。いずれ僕も見てみます。
南都さん、
柳父章は、明治期の翻訳史で有名な人のようですね。翻訳は良し悪しですが、原文が読めるとは限らないので頼ることになるわけです。
以前、日本語訳の哲学書では、ドイツ語からの訳が矢鱈と漢字を繋ぎ合わせており、フランス語訳はやまとことばで優しいと思ったことがありましたが、最近になってあるフランス語からの訳を見ましたら漢字の繋ぎ合わせでがっかりしました。人によるのですね。いい日本語だと思ったのは、確かメルロポンティーを訳した小木貞孝です。小木貞孝とは、カトリックの小説家で精神科医、加賀乙彦の本名です。
「直訳して澄ましていられたいられたはずなのに」の好例が小谷野先生が舛添要一の授業に出たときの話ですね。(参照:http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/searchdiary?word=%c1%a4%c5%ba%c0%e8%c0%b8)
L'etat de grace を英語なら直訳して the state of grace と澄ましていられたのに、日本語に訳すのだから猫猫先生は困ってしまった。しかし、舛添―小谷野の師弟愛の物語でもあります。
MWW
なるほど。l'etat de grace を the state of grace で済ませられるから、ほんと、僕に言わせたら、(欧米人に叱られるだろうけど)英語とフランス語とのあいだ、あるいはその他の欧米諸言語のあいだでの翻訳とか学習は、馬鹿でもできる。
その点、日本語と欧米諸言語との(言語学的な)距離は、天文学的。ああ、しんど。でも、その代わり、日本語から中国語とか韓国語に移るのは、比較的楽なはずですね。
それから、日本人はそれくらいに欧米の文化や言語から大きく離れたものを持っているからこそ、独自の発想を駆使して世界に貢献できるとも言えますね。だからこそ、こんなにまで言語的に handicap を背負っているにもかかわらず、かなりの貢献を日本人はやっているから、すごいと思います。
<問題なのは、銃のないはずの羊の園に銃をもった狼が来ることです。(羊にも銃を上げたい。)>
それを大規模にやつてゐるのはブッシュの米国ですね、日本も核武装をすべきなの?
(防衛となるとどうしても過剰防衛にならざるを得ない、勢力均衡を言つても自分の方が不利だと考へるのが人間の習性だから。)
ブッシュも(西部の男らしく)ビン・ラディンに決闘を申込めば良かつた!(今からでも遅くはない)
西欧の学問は哲学(形而上学)に基づいてゐるので、それを日本語に直すと意味が違つて来る。
『愛』とは日本では『愛着』のことで、悪いことだと理解され、そんなものを宣伝する宗教を受け入れるのは、新しいもの好きのスノッブ以外にはゐなかつた。
キリスト教徒が日本には50万人程度しかゐないのは日本人の健全さの象徴。
日本は常識の国で哲学や宗教などは本来必要としない - しかし共通原理がないと他の人や国を説得出来ない。
大橋保夫のレヴィ・ストロスが翻訳の模範だと誰かが云つてました。
南都さんのパラフレーズは私にはまだ難しいし長すぎ!口語に直せばよいと云ふものではなささうです。
ラムのシェークスピア物語などを考へても、翻訳や翻案が血肉になつてゐる西欧2千年の伝統との違ひ?
>ぞれぞれの国の人たちが自分たちにとって一番よいと思う方法を採ればいいと思います
Yes, indeed. MWW
>日本語から中国語とか韓国語に移るのは、比較的楽なはずですね
中国人の家庭に行き、中国語しか話せないおばあちゃんは寂しそうにしていたので、得意の(←また偉そうに)漢文力を生かして(そういえば台北にも私の親類一族がいるな)筆談したら喜ばれました。それと、韓国語は習っていないのに何となく会話の内容はわかってしまいます。(中国語の語順は欧米語と同じですからまだしも、日本語と韓国語はやはり大変ですね。)
会話の発音や文法はともかく、フランス語の専門書なんてまるで英文と同じ単語の羅列ですよね。ドイツ語が読めれば、旅行程度の場合ならオランダ語はまるで(発音まで含めて)ドイツ語そのもの。
MWW
>ビン・ラディンに決闘を申込めば良かつた
ははは、しかし彼は逃げ隠れしているのでしょう。
>キリスト教徒が日本には50万人程度しかゐないのは日本人の健全さの象徴
秀吉以前の日本人は健全じゃない。
>日本は常識の国で哲学や宗教などは本来必要としない
そう、神様仏様でなく、世間様の国。
>大橋保夫のレヴィ・ストロスが翻訳の模範だと誰かが云つてました
今度、参考までに見てみます。ありがとうございました。
MWW
僕が思うには、現代の日本語の場合のように、一つの言語の中に大量の外来語や翻訳語が短期間のあいだに流入した場合、その元の言語の話し手たちが、変貌してしまった自分たちの言語に違和感をあまり感じなくなるまでには、千年くらいはかかると思います。
たとえば、英語の場合、10世紀だったか11世紀だったか、イギリスに Normandie のフランス人たちが入り込んで征服し、長いあいだ(たぶん200年くらい)イギリス国内で偉そうにしていた。それまでの英語(つまり10世紀くらいまでの英語)は Anglo-Saxon 語と言われていて、日本で言えば源氏物語の日本語みたいな感じの、実に古い言葉を使っていた。
その10世紀くらいまでの英語(Anglo-Saxon語) には、ほとんどフランス語とかラテン語は入ってなかった。ほぼ純然たる Germanic(ゲルマン語)だったので、ドイツ語(正確に言えば Althochdeutsch, Old High German)に似ていた。
でも、Norman Conquest のあとの200年ほどのあいだに、イギリスに君臨していたフランス人たちは、貴族や知識階級のしゃべったり書いたりする抽象語を中心として、大量に英語の中にフランス語を流入させた。さらには、ラテン語も大量に英語の中に入った。
その結果、Middle English つまり14世紀くらいの英語から現代までの英語の単語のうち、半分くらいはフランス語とラテン語だと言ってもいいくらいの状態にある。
だから、ええっと、僕は何が言いたかったのかな。ともかく、英語の辞書の半分はフランス語とラテン語だと言ってもいいんですよね~。
だから、英語を勉強したあとの人がフランス語を勉強するとき、最初の2年ほどは日常語と文法に悩まされるけど、3年以上勉強すると、めっちゃくちゃにフランス語が簡単に思える。というのも、抽象的な単語や表現は、すべてと言ってもいいくらいにフランス語と同じようなもの。
だから、哲学・思想・宗教・政治・経済など、ありとあらゆる学問における書物を開くと、英語もフランス語も似たようなものと言ってもおかしくないですよね。
戦国時代が健全とは思へませんね。
その頃の人口が一千万として耶蘇教徒(勿論これはキリスト教徒とは違ひますが)は50万もゐなかつたでせう。
心理学の講演を聴いた時、常に人口の5%程度は社会生活が上手く行かないさうです。
日本列島に住んでゐた人々は古代ローマ人と同様何でも新しいものに飛びつく習性を持つてゐたやうです。
Agalma 氏、曰く
>>>
南都さんのパラフレーズは私にはまだ難しいし長すぎ!口語に直せばよいと云ふものではなささうです。
ラムのシェークスピア物語などを考へても、翻訳や翻案が血肉になつてゐる西欧2千年の伝統との違ひ?
====================
なるほど。ということは、僕じゃなくて滅茶苦茶に優秀な日本人が例の文章を paraphrase したとしても、西欧の翻訳や翻案の伝統にはまるで太刀打ちできないということでしょうかね。
僕の力不足は大いに認めますが、本当に深くあの本を理解していて、しかも滅茶苦茶に英語のできる人が paraphrase したら、すごくいいものができるに違いないと僕なんかは思っているんですけどね。
南都さん、
リリースが遅くなってすみません。理由はブログ記事などで明らかにしますが、要するに時間がなかった。
そうですね。専門用語などは英仏共通が多い。そういえば、南都さんはフランス語も長いのですよね。
翻訳の話でいうと、ドイツ語は漢字みたいに造語力がある。漢字の二字熟語や四字熟語に慣れている日本人はそのまま漢字を並べて澄ましている。英語でもハイフンをだらだら続けて澄ましている人もいますが。
MWW
あがるまさん、
もちろん厳密な数で話しているのではないのですよ。現在、50万という数でさえ、我々業界の定説は120万なのです。しかし、この中身も考えれば、50万でもかまわないから、先般は何も言わなかっただけで、いずれにしても余り意味はありません。
切支丹全盛のときの日本宣教の勢いが凄まじいものであったことも、秀吉をして禁教に至らしめたものがあることは事実です。初めは喜んで娘にスペイン語の名前(ねね)を付けたりしたのにね。
社会に適応できない人が5%も意味がありませんね。何をもって社会不適応とし、パーセンテージを出すかによって数字は変わります。たとえば、日本の120万のクリスチャンが社会不適応者なら5%でなく1%セントですが。
おっしゃる通り、日本じゃクリスチャンは住みにくかったですねー。体験しました。(もっとも、近頃は、メリークリスマスとも言わないアメリカでも肩身が狭いのですが。)しかし、これは多数派と少数派の話であって、心理学の話ではないでしょう。
MWW
わわわわ、南都さん、
どれがどれへのレスかわかりにくくなってきましたが、南都さんの書き換えとそれに対するあがるまさんの感想とそれに対する南都さんのレスに関してです。
ありがとうございます。確かに、私も彼女の文章を書き換えることができる気はしますし、彼女自身自覚しているらしく、出版前に何人かに読んでもらったらしいのですが、彼女の持ち味でもあるし、彼女の専門である神学という哲学的な内容は、もともと表現しにくいものです。
先般、比較して聖書学の分野のKarenさんの英文がわかりやすいと書きましたが、聖書学というものはもともとわかりやすいものです。John Dominic Crossan なんかは、その聖書学という表現上楽な分野に加えて、難しいところは対比法(=あることを説明する場合、Aを説明しNotAを説明するとかBのケースも説明すると見比べることができるので、Aが何を言っていたのか理解しやすい)などの文章技術があるので、いくら分厚い本でも皆が喜んで買うわけですね。(クロッサンなんかが流行るのは、私としては気にくわないのですが。)
MWW
5つほど前のコメントで、僕は斯くの如く語りました。
>>> 僕が思うには、現代の日本語の場合のように、一つの言語の中に大量の外来語や翻訳語が短期間のあいだに流入した場合、その元の言語の話し手たちが、変貌してしまった自分たちの言語に違和感をあまり感じなくなるまでには、千年くらいはかかると思います。
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このようなコメントのあと、England を統治していたフランス人たち(Norrman人たち)がフランス語を Anglo-Saxon 語の中に大量に導入してしまった結果、英語の辞書の半分はフランス語とかラテン語ということになった、という話をしていました。それで、何が言いたかったのかをあのときは忘れていました。
僕が言いたかったのは、大量にフランス語やラテン語が入り込んだあとに、Anglo-Saxon 人たち(つまり England に住んでいた人たち)が自分たちの言葉に違和感を感じなくなるまで、おそらくは現代までかかったのではないかと思うわけです。つまり、新しく生まれ変わってしまった英語に自分たちが違和感を感じなくなるまでに、900年くらいかかったというわけです。
しかし、彼らの元々しゃべっていたゲルマン語である Anglo-Saxon は、フランス語と違っていたとは言え、やはり同じ Indo-European languages のグループにあるので、もちろんのことながら文法体系というか、語順や語形変化などという点で、構造的にとても似ているし、語彙だって、ゲルマン語とロマンス語は、一見してまるっきり違っているように見えるけど、よく見てみるとやはり似ている。
そういうふうな、同じく Indo-European languages 同士であるフランス語が Anglo-Saxon に入り込んだだけでも彼らは違和感を感じていて、900年経った今でも、やっぱりフランス語やラテン語から借り入れられた単語よりも、元のゲルマン語である、1,000年以上も前から使っていたと思われる単語を彼ら native English speakers が使ったときは、彼ら自身が安心するんですよね。
それなら、日本語の中に、中国語という、日本語とは構造的にまるで違い、語彙も違う言語が大量に入り、そのあとに英語などの欧米諸言語のカタカナ語と翻訳語が大量に入った結果である現代の変わり果てた日本語に、僕ら日本語 native speakers が違和感を感じなくなるまでは、少なくとも 1,000年、いやひょっとしたら2,000年くらいかかるだろうと僕は見込んでいます。
そうなると、僕らが今の日本語に違和感を感じてもおかしくはないんですよね。
ところで、Dr. Waterman はもしかして、この blog のサイトでは、blogger である Dr. Waterman ご自身がボタンを押さない限りは僕らのコメントがリリースされないようになっていて、どうしようもないのだ、と思ってらっしゃるのではないでしょうか?実は、blog のシステムのたくさんのボタンのうちの一つを押すと、他の人からのコメントがすぐに入力されて画面に表示されるようにセットすることもできるのですけど、ご存じないのでしょうか?
もちろん、中には変な書き込みをする人もおられるでしょうから、それを阻止するためには、あいだに Dr. Waterman が介在してボタンを押してリリースして初めて画面に表示されるようにしておいた方が好都合だとも言えますけどね。
ちなみに、僕が新しく作った英文 blog も、Dr. Waterman によるこの blog website とまったく同じ会社によるシステムを使っていますが、僕は「管理者である南都がボタンを押さなくても、読者によるコメントがすぐに画面に表示されるように」設定していますので、僕が間に経ってリリースする必要はないようになっています。
数字はネットから拾つた怪しいものばかりです!(それもうろ覚え)
今度GoogleからWikiに替るKnolが出るさうですからそれを期待しませう!
少し弁明!
1)南蛮人は日本人を東南アジアや西欧に娼婦や奴隷として売り飛ばしてゐたさうです(http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/716f2edecd271926abc19438f81041b8)。宣教ではなく実は奴隷商売が目的なら禁止する必要はありますね!
2)キリスト教徒50万と云ふのは前田護郎が1973年に書いてゐる数字をネット上から拾つたものです。http://d.hatena.ne.jp/itunalily/?of=20
120万と云ふのは?
3)17世紀初頭の日本の人口は1200万と推定されてゐるさうです。(鬼頭宏『人口から読む日本史』)
4)5%ではなく3%だつたかも知れませんが、常に(潜在)失業者がそれ位はゐると云ふことでした。勿論それが全部キリスト教徒だと云ふことはあり得ませんが、3(5)%と云ふのは無視できる数字だと云ふことです。
私の乏しい経験ではどうやら
1)厚い本は文章が易しくて、薄い本は難しい。(200頁くらいの本が一番良い。)
2)話しを聞いて良く分らない人でもその著書は解り易いが、良く分る人の本は何故か難しい。
3)フランス語やイタリア語の学術文章は修飾が多すぎて、華麗でリズムがあると云へるのでせうが(私には無意味)、要するに何を云つてゐるのか解り難い。
4)パラフレーズは少なくとも原文の3分の一以下の長さにしなければ意味がない。
と思ふのですが。
17.12.07.
南都さん、
はい、モデレーションキーを使っています。コメントについてはエントリーにもお知らせで載せます。
MWW
あがるまさん、
前田護郎の名前を出してくださってありがとう。もう誰も思い出さないだろうと思っていましたが。
数字のことはいいのですよ。どうせ、疑わしい。知っていますか。1世紀のエルサレムの人口なんて、書いてる人すべてがペテン師と言っていい。なお、私の数字は日本の『キリスト教年鑑』にありますよ。この数字だって私は信じてはいません。いわゆる教会籍があることと礼拝出席数は違うし、どちらにしろ基本の数字は嘘だらけ。
また、宣教師が何をしたかと、随伴した連中が何をしたかは別ですね。いろんなことを言う人がいる。南京虐殺とその数のように、近年のことだって人の言うことなど簡単に信じてはいけない。
パラフレーズの長さは、その目的によると思います。実際に私がパラフレーズを指示する時も、一応の長さを伝えます。
文章論は南都さんのコメントと合わせてエントリーで紹介します。
MWW
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