Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

My Photo
Name:
Location: United States

American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Friday, December 21, 2007

Xavier Léon-Dufour Died

グサヴィア・レオン-デュフルが死んだ

「死んだ」とはなにごとかと叱られるかもしれないが、私にとっては「今死んだのか」と不思議な気持ちだ。いや、実に恥ずべき不明なことであるが、1912年生まれの彼が今の今まで生きているとは思わなかった。Times 紙の訃報は一月以上経ってからのことだった。

ローマカトリックの学者(神学者、聖書学者、歴史家)の中では進歩派からも保守主義者からも誤解されたが、そのどちらでもなかった。当時は、ドイツプロテスタントの自由主義的流儀が何もかも「悪」と見られた第二ヴァチカン以前のカトリックという陣営において、正しくその新しい流儀の是非を判断していた数少ない学者の一人だろう。

昨年出版した拙著のテーマ(復活と空の墓)に関すれば、彼の著作の中では Résurrection de Jésus et message pascal が有名だが、拙著においては、実は脚注で彼の名前を挙げるに留まった。最近の研究に焦点を当てた拙著では古すぎるという理由で詳論を避けたのだが、「空の墓」の伝承に、何らかの史実を含む要素があると見抜いていた人だ。

カトリックの学者は奥が深い。写真に見るように、おとなしそうな柔和な顔なのに、若いときはリベラルとか言われて苛められたのだろうね。逆に、「空の墓」伝承に史実的要素を見つけると、その結論だけで保守派だとか言われる。どちらからも誤解されながら、信念の学者であり信仰のキリスト者だったようだ。

24 Comments:

Anonymous Anonymous said...

クリスマス前の殺人的なお忙しさに少し踏ん切りがついたようで、本家と分家に立て続けに面白いブログを書くお暇ができたようで、何よりだとお喜び申し上げ奉る次第で御座いますれば、そこはかとなく愚見を此処に書き綴らふかと存ずる今日此の頃で御座います。

Dottore il Uomo di Aqua (= Dr. Waterman) が今回のブログの冒頭付近に貼っておられたリンクにある Times 紙の記事を僕も読んでみました。Dottore のおっしゃるように、散々苛められてかわいちょ~な人だったのですね。本当に良心的な人というのは、どの時代でも大多数の人の先を行ってしまわざるを得ないので、かわいちょ~な人生を送ることになるんでしょうね。でも彼の場合は、元々の類まれなる才能と努力のおかげで、おそらくは世の中の主流の座を占めることになって、大いに賞賛されもしたんでしょうけど。

Dottore の引用された記事の中から、僕が面白いと思った部分を拾います。

***************

>>> Xavier-Léon Dufour... often found himself at odds with the conservative Catholic hierarchy, not least with Pope Pius XII himself.

なるほど、すごいですね。カトリックの偉い人たち、特に法王から白い目で見られたんですね。さぞかし辛かったでしょうに。


>>> The new scholarship which had its origin in the work of 19th-century German Protestant scholars, met resistance both from the Catholic hierarchy and from parts of the Protestant establishment. Dufour himself was accused of seeking to deprive priests of their faith.

というわけで、Dottore il Uomo di Aqua が仰ってたように、19世紀のドイツプロテスタントの学者たちが始めた学問に Xavier-Léon Dufour が取り組んでいたわけですが、カトリックから非難されるのはわかるとしても、肝心のプロテスタント側からも抵抗されてしまうのは、辛いですね。


>>> He received anonymous letters

匿名の手紙が DuFour の元にじゃんじゃん届いていたんですね。猫猫先生や Dottore Waterman のお嫌いな(そして僕自身も心から憎んでいる)匿名の誹謗中傷に出会っていたわけですね。


>>> He joined the Jesuits at l7. His training at Jesuit faculties in both France and Rome lasted more than a decade.

DuFour は、イエズス (Society of Jesus) に17歳のときに入ったのですね。イエズス会っていうところがどういうところなのか、どれくらい教義が厳格だとか信心深いとかいうことについて、僕はまったく知らないんですけど。ともかくそこで、彼は10年にわたって修練を受けたわけですね。


>>> Dufour also made himself a specialist on St John's Gospel,... The final volume appeared in 1996 when Dufour was already 85.

というわけで、最も難しいといわれているヨハネ福音書についての著作集を出版したわけですが、その最終巻が出版されたとき、彼は85才だったわけですね。単にエッセイとか短い論文を書くだけでなく、本格的な難しい分厚い本を書き終わったのが 85 才とは、すごい。そして彼が亡くなったのが、95才ですね。まさに超人みたいです。

そう言えば、つい最近、僕は "Le Bon Usage" というタイトルの、1,600 ページにわたるフランス語文法をフランス語で解説した本を買いましたけど(猫に小判もええとこや)、この本は二人のフランス人が書いたんですけど、この本が出たとき、このフランス人の学者は二人とも80才を越えてたということです。フランス人って、けっこうすごいですね。

それはともかく、すごい本を買ってしまった。無駄にせんように、ちゃんと勉強せな。志だけは高くて、いつも見分不相応な本を買いまくって、本棚に眠らせてしまう僕ちんなんですよね。

7:24 AM  
Blogger Mark Waterman said...

南都さん、

いつも不親切な案内で澄ましているところなのに、今回は南都さんが The Times の要約をしてくださってありがとうございます。とても読者の役に立つと思います。

実は、あの記事の見出しの「自由主義神学者デュフル(英語の人はドフォーとか言ってる)」というのが気に入らなかったのですが、内容はその通りです。どういうわけか、私はSJの神学者の考えとはよく合います。

げっ、そんな本まで買っている。しかし、文法書は辞書と同じで、頭から読んでも面白いし(←辞書を頭から読む人はいますよね)、辞書みたいに必要なときに引けるので助かります。

MWW

8:12 AM  
Anonymous Anonymous said...

ほう、そうですか。Signore dottore il Uomo di Aqua (= Dr. Waterman) は、SJ の人たち(the Society of Jesus、イエズス会)の人たちとウマが合うのですね。イエズス会って、どんなところなんかいな~。これからはそれにも注意して世の中を見ていくことにします。僕にとっては、小説などに出てくる Baptist, Methodist, Presbyterian, Jesuit などという宗派が記号みたいに見えて、その内容が全然わかんないんですよね~。

フランス語の文法書に関しては、他にきちんとした詳しい文法書がなかったので、ええい、とばかりに買ったのです。この本は 1,600 pages にも及ぶものですが、かなり使いやすいと評判です。ほんまかいな~。それはともかく、これよりも小さい文法書というと、大きくても高がしれていて、350 pages とか 500 pages。そんな小さな文法書を何冊も持ってます。ほんとは最初から通読してみたいのですけど、なかなかそうもいかない。(っていうか、怠惰なんです。)

実は、22年ほど前に4年間ほどすげえフランス語に凝ってたときがあって、英語を完全に忘れてしまうほどまでフランス語にどっぷり浸かりました。その後、再び英語に戻ったら、今度はフランス語を完璧に忘れました。アホとちゃうかいな。

ほんで、そのあとはやっぱり英語が好きやから英語ばっかりやってて、フランス語は20年ほどほとんど勉強もせんでほったらかしにしてたんですけど、5年前からルーマニア語をやってたら、ルーマニア語を勉強する限りは、同じくロマンス語 (Romance languages, Romanic languages) であるフランス語が無視できないんですよね。

たぶん、たとえば英語とドイツ語をやった人なら、オランダ語とかスウェーデン語を勉強するときに、いつもドイツ語に戻らざるを得ないのと同じですね。僕の場合、ルーマニア語をきちんと勉強しようとしたら、ルーマニア語の文法をきちんと解説した本がないに等しいんです。ルーマニア語の文法書と言えば、周りにあるのは、200 pages ほどのものばかり。そしてどれもこれも、お茶を濁したものばかり。

だから、必然的にフランス語とかイタリア語とかスペイン語の文法書や辞書を眺めないとルーマニア語のかゆいところに手が届かない。というわけで、遅ればせながらフランス語を勉強しなおそうと思って、最近はまたフランス語に対して、重い(100 kg くらい)腰を上げているわけですわ。

それはともかく、僕はロマンス語には比較的強いんですけど、ゲルマン諸語とかギリシャ語にはすごく弱いていうか、ほとんどわからない。ドイツ語は、一年ほどだけ勉強したことがあって、15年ほど前、一時的にブロークンながらもドイツ語がしゃべれたときもあります。初級文法を曲がりなりにもマスターしたかな、と思ったあと、またもやドイツ語への熱が冷めてしまって、あとは急激に忘れっぱなし。

ギリシャ語は、何度もアタックして、いつも 2 週間ほどで挫折。とはいえ、ドイツ語とギリシャ語の辞書は、中型のものをちゃんと持っていて、ときどき引いています。Agalma 大明神と monsieur le docteur Waterman とのお話を聞いていると、いつも「あ~、ギリシャ語とドイツ語をやらんとあかんな~」と痛感させられます。やっぱ、あれでんな、どの学問をやろうと思うても、最低限は次の語学は必要でんな。

英語
フランス語
ドイツ語
ギリシャ語
ラテン語

これが最低限であって、そのあとに、その学問の種類に応じて、たとえばヘブライ語とかルーマニア語とかイタリア語とかペルシャ語とかサンスクリット語なんかが来るわけでんな。はたまた、コプト語とかアッシリア語まで。そんなことを考えとったら、僕なんかは永遠に学問がでけへんていうことになる。まあ、微力ながら頑張らなあかんというわけでっけど。

8:37 AM  
Blogger Mark Waterman said...

南都さん、

南都さんほどのポリグロットがよく言ってくれました。そうなんですよ。使っていないと急速に忘れるのが言葉です。みんなそうです。古典語の先生で、忘れないようにギリシア語とラテン語を1年ごとに取り替えて教えようよと協定を組んでいた二人の先生が実際にいました。

先日、柳宗玄という90歳の日本の美術史家の対談を読みました。15箇国語を理解するということでしたが、実際に話せるのは6箇国語で、上手なのは英語とフランス語ということでした。米国に住む者は、よく5-6箇国語話すなどと言いますが、実用的なのはそのうち2-3のようです。それにしても、多少でも理解すれば旅行などでは便利なのでしょう。

自分のことを言えば、日英を含めても学校で習ったのは7つです。習ったからといって碌なものではありません。しかし、基本文法と辞書の引き方がわかるだけでもいいと思っています。

実は、フランス語はこの7つには入っていません。しかし、フランス語で読む授業に参加したり、フランス語の文献は独力で読んでいます。つまり、独学ですから、いい加減に読んでいるのではないかと思い、近頃はフランス語に興味を持っている妻とどこかに習いにゆこうなどと言っています。現在の私たちの関心は読み書きではなく、フランス語会話です。

生活環境としては、Korean, Spanish, Modern Hebrew にとても有利な場所にいるのに習おうという強い欲求がないので駄目です。(ここは、その面では、語学好きには夢のような所です。)昨日、女性の名で Modern Hebrew を教授しますという手作りチラシがメールボックス入っていたので、いつかのためにファイルしています。まだ、欲求はありません。

本当は、ルーマニア語だって習える環境にあります。メリーHおばさんはルーマニア語を教えたくて仕方がないのに、私のほうが「後でね」となってしまいます。いつもおいしいご馳走を作ってくれ、昨日はクリスマスカードとチョコレート(←マークしか食べてはいけないとの注釈付き)をくれたのに、私がつれない。そこで、ふと、南都さんの言葉を思い出しました。先輩のエウジェンもメリーHおばさんも、ルーマニア人の人情は日本人みたいだ。

MWW

9:16 PM  
Anonymous Anonymous said...

アウグスティヌスについて教授資格論文を書いたドイツ人が言つてゐましたが、彼もラテン語のテクストだけを研究するのではなく、殆ど翻訳を使ひ疑問のある処だけ、原文を確かめるのださうです。

日本の学者は原語で読むが、西欧の学者は翻訳しか使はない、それでは駄目だ!と云ふ人も居ますが、それが可能なのも西欧の言語が翻訳によつても語彙でも文法でも浮き出して来るからに違ひありません - 勿論それだけの訓練が学校でされてゐる。
例へばvino, wineが(v)oinoから来て本来のギリシア語では最初のディガンマが無くなつてもvやwが残つてゐる現代語の感覚により、より細部に渉つて理解出来る?やうなものでせう。

シリア(シリア語とはアラム語のことらしいが)でギリシア語がアラビア語に翻訳された時に構文上や意味の理解の上で(インド・ゲルマン語でありながらアラビア語に近い)ペルシア語の知識が役に立つたに違ひありません。

翻訳無用論を唱える人もありますが、日本語への翻訳も少なくとも索引の替りにはなるし、それに誰も - 南郷さんのやうにパラフレーズをする訳でもなく - 本などは好い加減に読んで、色々な理解や誤解が織合はされて自分の理解になるのですから。

外国語(母語でも)は、勿論すぐに忘れるし、大人が10年や20年(或は後半生の全部)その国に居てもマスター出来るものではない!
23.12.07.

3:29 AM  
Blogger Mark Waterman said...

あがるまさん、

基本的にはそうです。全体把握のためには読みやすい言語(翻訳)で読むのが学者とて同じです。苦労する原語にこだわって、結局は中途半端に終わらせてしまうようにしたのが昔の日本の学者(の一部)です。だから、哲学でも、全体を見ずに、一生の間、誰かの思想にこだわって人生の無駄をする。

また、近接する言語においては、多少両語に通じていると、原文がどうであるかがわかるし、訳し方によっては違うかもしれないという勘が働いて、原語をチェックしやすいということもあります。欧米語と日本語との間でもそれは可能ですが、やはりどちらかというと難しい。

>教授資格論文

ドイツにおける人文社会科学系では、この論文は普通、学位論文を提出してから数年以内に提出するわけで、その苦労たるや大変なのですが、学位論文の単なる延長ではいけません。幅広い教授資格となる見識を披露するものですから、自分にとって読みにくい原語にこだわる必要はありません。また、新発見が重要な博士学位論文では、原語で読みながら発見していくケースが教授資格論文より多い気がします。

ついでながら、ドイツで学位を得る日本の学者は多いが、今まで日本人で教授資格論文まで書いたという事例を知りません。本当にいないのでしょうか。実は、アメリカ人でもこれは稀なものであり、単なる秀才では無理なようです。

>外国語(母語でも)は、勿論すぐに忘れる

子供時代に両親と日本語で話し、日本の女子大学に留学したハワイの大叔母も、私が日本語で話しかけると、エンジンがかかるまでに時間がかかった。大学を卒業するまで日本で暮らしたはずのK牧師は、何十年も英語の世界に暮らしたので、話が込み入ってくると英語になってしまう。

MWW

9:13 AM  
Anonymous Anonymous said...

有名なところでは、大橋良介がZeitlichkeitsanalyse der Hegelschen Logikを書き1983年ヴュルツブルク大学(バイエルン州)のHeinrich Rombachの許で教授資格を取つた。
西田や西谷と云つた連中を引き合ひに出したオリエンタリズムかと思ふがさうでもないらしく、Symposionと云ふ優秀な学位論文を専門に出してゐる叢書で出版されてゐる。

ドイツなどは分り易いがフランスの学位制度は説明されても良く分らない。
リクールなどは正式の資格もなく大学で教へてゐたのでは?

<学位論文はオリジナリィテイが要求される>さうだが、さう云へば教授資格論文は分厚いものが多いやうな気がする。
E.TugendhatのTi kata tinos,1958は前述のSymposionで出版された100頁くらいの学位論文だが,彼が今でも価値のある論文だと思つてゐるらしい。彼の教授資格論文である400頁の『フッセルとハイデッガーの真理概念』1964も名著とされてゐるが(ハイデッガーは)失敗作ださうだ。

トゥーゲントハットの先生であるKarl Ulmerは桑木努の親友だつたさうだが、桑木はHabilitationを書いたやうな気がする。
23.12.07.

11:21 AM  
Blogger Mark Waterman said...

ほう、大橋自身のホームページ英語版で日本人初の哲学博士(D.phil.)の教授資格論文合格者と書いていますね。ドイツ語が得意そう。多分、神学(D.theol.)ではまだでしょうが。

学位制度は難しい。オランダ人の編集者がDrs. John Doe という名刺をくれたから複数の学位かと思いきや本当の博士になったら s が取れるんだそうでポカン。いわゆる昔のドイツにもあったドクトランドス(博士修行中、博士候補)のことだそうだ。UCLA なども博士号と間違えられるような称号を博士候補に上げるから問題だ。ちゃんとPh.D. cand. と明瞭に示すならはっきりしているのに。

フランスその他の国もめんどうなので、よく学歴詐称の原因になるそうですね。まあ、ご勝手にというところですが。

MWW

3:59 PM  
Anonymous Anonymous said...

Also sprach Uebermensch Agalma:

>>> 西欧の学者は翻訳しか使はない、(中略)それが可能なのも西欧の言語が翻訳によつても語彙でも文法でも浮き出して来るからに違ひありません(中略)例へばvino, wineが(v)oinoから来て本来のギリシア語では最初のディガンマが無くなつてもvやwが残つてゐる現代語の感覚により、より細部に渉つて理解出来る?

=========

まことに Uebermensch の仰せの通りですね。Indo-European languages で育った人たちが「裏の山師」またの名を「浦山氏」。あるいは「裏山で死す」そして「ベニスで死す」... Thomas Mann よ、いずこへか行かん...。ふざけ始めると止まらぬ僕チンの悪い癖。

それはともかくでんな。Indo-European langauages で育った人が羨ましい反面では、僕らの方が有利な面も大いにある。というのは、日本が文化的かつ言語的に世界の中で孤立しているのは、他の国から征服されて言葉と文化を奪われずに済んだからだ、というわけで、独自の文化と言語を守ることができた稀有の恵まれた人々が日本人だとも言える。

他の人たち、特に Indo-European languages で育った人たちは、数千年のあいだに何度もお互いの言葉や文化を奪い合い、征服し合い、強姦し合ってきた結果として、日本やアジアやアフリカに比べて、どちらかというと均質な文化と言語を持っていて、互いに話も通じやすいわけですよね。

日本はともかく、アジアやアフリカは別だろう、と言われそうですが、アジアやアフリカの言語や文化の多様性を見てくださいよね。インドやアフリカでは、50km ほど離れると、途端に話が通じない。インドでは 3,000種類の言語や方言があると言われる。アフリカでも、家族としゃべる言語、友人たちとしゃべる言語、学校でしゃべる言語、会社でしゃべる言語、そして国内の他の人たちとしゃべる言語、そのそれぞれが違った言語であり、5種類くらいの言語がしゃべれないと通常の生活ができないと言われる。もちろん、これらの言語は、日本語を例に取れば、大阪弁と東北弁との違いくらいしかないんですけど、それでも、お互いに話が通じにくいような別個の言語なので、方言とは言え、やはり数種類の言語を話さなければ社会生活ができないという話。これは不便なように思える。

統一した方が、経済効率から言えば好ましい。言語や文化が多様だから経済が発展しにくいとか国家的な意思統一がしにくく、その結果として外国(たとえば昔の帝国主義的な大国)から自分たちを守りにくい、という点もあった。でも、逆に言えば、彼らは、自分たちの言語や文化を優位だと言い張って他の言語や文化を奪おうとは「それほど強烈には」しなかった、つまり優しい人たちだったから、彼らの言語や文化は多様なままで終わっているとも言えるんではないでしょうかね。

Indo-European languages で育った人たち、つまり大多数の欧米人は、自分たちの言語や文化が優位だと信じ込み、多様な文化や言語に対する寛容さが少ない(まったくないとは言えないけど、寛容さがアジア人やアフリカ人に比べて低い)からこそ、中央の言語や文化を押し付けていった。

そしてその結果として、欧米を初めとする白人中心の地域(つまり欧米、オセアニア)は、文化や言語の点で比較的に均質で、その結果として意思疎通が比較的に楽で、それだからこそ経済発展や政治的な権力を握りやすかったのではないでしょうかね。歴史音痴な僕がこんなことを言うとおこがましいのですが、そんな気がしてならないんですけどね。

あるいはこうも言える。白人はよい意味でも悪い意味でも積極的というかエネルギッシュというか aggressive なので、自分の言語や文化が最高だと信じやすい性格を持っている。そして、善意であれ悪意であれ、ともかく自分とは違ったものを変えさせて、自分たちに合わせさせようとする。

それは押し付けにもなるけど、反面では、自分たちが「よい」と信じる道を相手に教えてあげているという意味で善意の愛の行為だとも言える。少なくとも、自分とは違った人々の生き方を認めないという意味で悪意な人たちも多いだろうけど、あらゆる人たちを「よい」方向に変えてあげたいという善意な人たちも多いのだとも言える。その結果、言語や文化が均質な世界を生み出しやすいというわけですね。

12:45 AM  
Blogger Mark Waterman said...

南都さん、

しばらく踊り疲れていらっしゃるのかと思いきや、比較言語の見方から比較文化へと詳細な議論をありがとうございます。Caucasianの鼻につく押し付けがましさも、見方によっては、善意の表れなのかもしれませんね。

MWW

5:50 AM  
Anonymous Anonymous said...

〈Indo-European languages で育った人たち、つまり大多数の欧米人は、自分たちの言語や文化が優位だと信じ込み、多様な文化や言語に対する寛容さが少ない(まったくないとは言えないけど、寛容さがアジア人やアフリカ人に比べて低い)からこそ、中央の言語や文化を押し付けていった。〉

と云ふこともないでせう。
ギリシア人はエジプトやペルシアなどの外国に憧れたし(ヘロドトスやプラトンが証拠)、ローマ人は武力で征服したギリシアに文化の点では征服された(キケロ)。中世のシチリア王国では人種や宗教による差別はなかつたし皆共存してゐた(フェデリコ2世)、これが文化と云ふものでせう。
本質的に反文化であるキリスト教徒が、そんな現代にも繋がる独善的なことを始めたので、末期古代ではキリスト教は全世界の敵だと誰もが思つてゐた(W.Tarn)。

西欧が翻訳の国だと云ふのは、別にインド・ゲルマン系言語だけではなく、中国も日本もインドもイスラムも分析し翻訳し、血肉化し対決して行つた訳で、それは西欧人だけが普遍的な理性を発見したから可能だつたに違ひありません。
人間の論理は一つしかありません。日本の誰かのやうに西洋の主語の論理に対してそれを顛倒した論理があるなどと怠惰なことを言はずに彼らは真面目に対決した。

ユリアヌス帝が冴えない男だつたと云ふのはバワーソックG.W.Bowersock,Julian the Apostate,1978第二章に出てました。小柄で毛深く煽情的でおしゃべりで、彼の理想だつたアレクサンダー大王やマルクス・アウレリウスとは正反対だつた。
軟かく折れたやうな首、震える肩、不安定な両脚、目立つた長い鼻、神経質で止まらぬ笑ひ、演説は途切れ途切れでその回答は決して明確ではない、と彼の彼の反対者である、(Gregorius Nazians)、だけではなく賛美者のAmmianus Marcellinusも身長が低く毛深いと書いてゐるさうです。
メレジュコフスキやカヴァフィスの彼を主人公にした小説や詩はどうでしたか?
プリニウス、ガレノス、ケルソス、ポリュフィリオス、ユリアヌスについて書かれたR.L.Wilken『ローマ人が見たキリスト教徒』1984.と云ふのは面白かつた。

4:54 PM  
Blogger Mark Waterman said...

>本質的に反文化であるキリスト教徒

こういうのがねー、どういうことなのかわかりません。

>人間の論理は一つしかありません

だと思います。

>ユリアヌス帝が冴えない男

Bowersock ですか。ありがとう。IAS(これを日本では誰が言い始めたかわからないが「プリンストン高等研究所」などと言っているのはプリンストン大学みたいで紛らわしい)の男ですね。内村鑑三がアメリカに携えていった Gibbon の古代史に凝っている男だと思います。

>R.L.Wilken『ローマ人が見たキリスト教徒』1984.と云ふのは面白かつた

The Christians as the Romans Saw Them は、当時よく読まれたようです。この人のは他にも面白いのがたくさんありますよ。

MWW

9:20 PM  
Anonymous Anonymous said...

あがるまさんの議論は面白いと思います。でも、やはり白人全般を見ていると、どうも自分たちの言語や文化を最善のものと見る傾向がアジア人やアフリカ人よりも強いように見えることは確かだと思います。

ギリシャ人が異国の文化に憧れただけでなく、たとえば例の高慢ちきにも見えるフランス人たちでさえ、19世紀でしたか、japonisme という芸術様式さえ生まれ、日本文化に憧れていましたね。ゴッホもそれに影響された絵を描きました。

僕が言いたかったのは、確かにどの民族も異国の文化に憧れたりそれを吸収しようとはする。でも、「どちらかというと、どういう傾向の方が強いか」という話になると、また別の答えが出てくると思うわけです。

それから、キリスト教徒が周りとは違ったことを始めたとか、あるいはみんなから嫌われたというのは、確かなんですか?もちろんそういうことを言う人たちは常にいたでしょう。でも、全般的に見て、ほんとにそういうことが言えるのかどうか、疑問です。

論理が本当に一つなのかどうか、これも疑問です。それを証明した人なんているんでしょうか?証明したと思い込んでいる人はもちろんたくさんいるでしょうけど。

また、西欧人だけが普遍的な理性を発見した、というのも、確かなんでしょうか?

というわけで、反論ばかりしてしまいましたが、あがるまさんに楯突くつもりはありません。あがるまさんの議論が面白いと思ったからこそ、返答してみました。

9:46 PM  
Anonymous Anonymous said...

<例の高慢ちきにも見えるフランス人たちでさえ、19世紀でしたか、japonisme という芸術様式さえ生まれ、日本文化に憧れていましたね。>
浮世絵がフランスの藝術に影響を与へ得たのも、伝統と意味の重みで疲労してゐた当時の絵画に対して、装飾的な色彩のマッスが持つ軽味を新鮮に感じただけで、日本の絵画や文化が本質的に評価されたのではないでせう ― マンガが象徴するやうに日本の近世文化などは結局、娼婦やヤクザや人殺し(武士)どものサブ・カルチュアでしかないとも云へるでとは思ひますが。
それはゴッホやモネやドガの功績であり、商業的な成功を除けば日本とは何の関係もない。それに対して中国趣味Chinoiserieはもつと本質的で、持続的な長い伝統を持つてゐます。ともかく西欧のみがどんな異国の生活習慣や文化の評価も出来る原理を二千年間で確立したことは間違ひないでせう。それは直観洞察の事柄で証明不可能なものです。
南郷さんの文章は私には良く理解出来ないのですが、何か「選ばれた者の栄光と悲惨」と云ふ感じで、太宰治を連想させます。

<多分、神学(D.theol.)ではまだでしょうが。>
ドイツのどこかの大学で神学を教へてゐるとタケダと云ふ日本人のことを聞いたことがあります。RodopiとKoenigshausen&Neumannで共同で出してゐるElementaと云ふ叢書の中にあるTakeda Sueo, Die subjektive Wahrheit und die Ausnahme-Existenz,1982.と書いた人物と同一人だと思ひますが、、今ネットで調べてもこれが教授資格論文かどうかは分りませんでした
31.12.07.

5:16 PM  
Blogger Mark Waterman said...

あがるまさん、

ジャポニズムが西洋人によって「発見された」という面は確かにあると思います。その面では、「発見できる」西洋人の能力に感心するべきだと思います。しかし、「発見を誘う」素地は、やはり日本文化そのものにあったはずです。

神学というより哲学のような気がしますが、竹田壽惠雄が70歳くらいのときの本ですから、それはないでしょう。なお、ドイツで教えるだけならハビリタツィオンはいりません。田川健三だって教えました。

MWW

7:59 PM  
Blogger Mark Waterman said...

あがるまさん、

ついでながら、彼は Elemente にもう一冊書いているのですよ。そして、彼の最初のドイツ語の本は彼の50歳くらいのときのものでオランダのNijhoffから出したのですから大したものです。

この本はカントの哲学ですので、UCLAも持っていましたが、神学にも触れているからかFullerも持っています。どちらの図書館も2日まで休館ですので、後でどんなものか見てみましょう。

しかし、この本もそうですが、日本じゃめったにない本が、LAはアメリカ第二の都市で、UCLAもFullerも特別の学校とはいっても、ここにいるほうが入手が楽で、日本にいるより日本の(国際的)学者が身近というのは不思議なものです。

MWW

8:24 PM  
Anonymous Anonymous said...

あがるまさんは、かく語りき
>>> 日本の近世文化などは結局、娼婦やヤクザや人殺し(武士)どものサブ・カルチュアでしかないとも云へるでとは思ひますが。

===

いやあ、かなり手厳しいですね。でも、美術も含めて実に広範囲にわたっていろんなことをご存知で、いろんなことを考えてこられたあがるまさんの言葉だから、真面目に受け止めます。

これから僕もいろんなものを見たり考えたりしながら、果たしてあがるまさんの言う通りかどうか、自分なりに突き止めていきたいと思います。でも、かなり難しい問題ではありますね。


再び、あがるまさんは、かく語りき
>>> 南郷さんの文章は私には良く理解出来ないのですが、何か「選ばれた者の栄光と悲惨」と云ふ感じで、太宰治を連想させます。

=========

僕の文章のどの部分について仰ってるのかよくわかりませんが、今まで数ヶ月間にわたって僕があちこちで書いた文章を全般的に指しておられ、特に、一部の人たちの生き方を強く批判しているときの僕の文章のことを仰ってるんでしょうね。

選ばれたものなんていうことは、決して思ってません。第一、誰にも明らかな通り、僕はこの通り知性や感性や強さにおいても、あらゆる意味で凡庸な人間です。

ただ、もし僕が「選ばれている」者だとしたら、大多数の人は自分の弱さや愚かさを隠しますが、僕は隠さない。わざと弱く、わざと愚かしく振舞っているという意味ではありません。自分が弱いということと愚かだということを正直に認めて、もし文句があったらいつでも応対できるように自分の居所を相手にちゃんと知らせているということです。そういう意味では、選ばれた人間でしょう。

しかし、本当はすべての人間が選ばれているはずです。というか、すべての人間が本来ならこのように生きてしかるべきなのに、虚勢や嘘に満ち満ちた生き方をして怠惰な自分に甘んじているというのが、大多数の人間の姿でしょう。

太宰治を連想させるような僕だから、ダメなのでしょうか?僕は17才のときから51才になる現在までずっと、一度たりとも太宰を嫌いになったことはなく、常に彼は僕にとって手本ですけどね。もちろん、彼もたくさんの悪いこともしたでしょうけどね。悪い点は見習いません。彼のよいところだけを見習っています。

いずれにしても、もし僕を批判なさるなら、堂々と正面からはっきりと、「南都さんのこれこれこういう点がどうだこうだ」と批判してください。あがるまさんは前回も今回も、僕の件についてはっきりとは批判せず、持って回ったような、婉曲な、一般論を述べているかのような言い方しかなさいませんでした。もしそうなら、どうか初めから黙っていてください。お願いします。

私はすでに別のところで言いましたように、基本的には誰をも批判しない男です。僕は誰かから攻撃されたときにしか、強い言葉を吐きません。僕は、もともとあがるまさんから一ヶ月ほど前に攻撃されたからこそ、今回、応酬しただけです。この攻撃とは、たとえば嫌味や皮肉や、一般論を述べているかのように見えて、実は暗に僕を批判しているかのような言葉も含みます。

ただ、こうは言いながら、あがるまさんの深く広い学識にはいつも脱帽していますから、もしあがるまさんが嫌味みたいなことを言わないで、あくまでも学術的なお話のみに収支なさるのなら、僕は喜んでこれからもその知的なお話を楽しんで読ませていただきますよ。

ただ、もし他人の行き方を批判するなら、どうぞ堂々と面と向かって(つまり、「あなたのこれこれこういう点が間違いだ」という言い方で)批判してください。一般論みたいなあてこすりは、どうかおやめください。もちろん、覚えてらっしゃるでしょう?あの、一ヶ月ほど前の、「閑話休題」という言葉の直前に仰ったことを。

8:43 PM  
Blogger Mark Waterman said...

南都さん、あがるまさん、

うわわわわー、仲良くね。というか、もうある意味では仲がいいのかもしれませんが、傍から見ていると。

ところで、南都さんは太宰のファンでしたか。彼もさまざまに誤解されますよね。ほら、富士山の小説でせっかくの二人の写真を撮りそこなうところなんか、太宰はひどい人だといって怒る読者もいますが、ちょっと違うんですよね。

あがるまさん、南都さんは本名が南都ですから、もし意図的に南「郷」と書くのでしたらいけないと思います。しかし、単なるミスでしたらごめんなさい。

MWW

10:08 PM  
Anonymous Anonymous said...

あがるまさんに対して今回は応酬した、なんてことを言ってしまいましたが、不正確でした。あがるまさんはあくまで一部です。実は、5年前から僕は至るところ(ルーマニア関係のあちこちのサイト、英語翻訳者関係のあちこちのサイト、僕のルーマニア語や英語についてのサイト、そしてその他のサイト)で、そりゃあもう、数十人の人からせせら笑われ、僕の最も恥ずかしい私生活の秘密を数百人の人に暴露され、匿名の数十人の人から痛め続けられてきました。そういう人たちすべてに対する応酬でした。

特に僕は、例のクズどもがあつまる2チャンネルとか、例の「したらば掲示板」の首謀者である STZZ というクズからは、一ヶ月ほど、毎日毎日、数百人の前で罵倒され続けました。それでも僕は、あの STZZ というゴキブリが翻訳業界の人たちから嫌われているから可哀想で、かばってあげていたのです。僕は馬鹿を見たのです。

僕は、翻訳業界から抹殺されるかもしれない(仕事をもらえなくなるかもしれないし、殺されるかもしれない、いや、少なくともみんなから嫌われる)ということを覚悟の上で、あらゆる平和な人たちから反対されていたのにも関わらず、あのゴキブリである STZZ をかばっていました。そのゴキブリが翻訳業界の全員から嫌われて追放されていて、僕のルーマニア語の掲示板に彼が亡命してきたから、かばってあげていたのです。

僕が、誰をも信用しなくなった直接のきっかけの一つは、あのゴキブリにあります。でも、そのきっかけはあくまでたくさんのうちの一つです。実は、実生活で本当にもっとひどいことが重なっていましたけどね。

10:23 PM  
Anonymous Anonymous said...

前に南都さんを南郷と誤記したので今度は正しくと思つてゐたのですが、結局また間違へてゐますね。申訳ありません ― オンラインで書いてゐると、時々消えてしまふのでロクに見直さないせゐもありますが、これが単なる不注意なのか、それとも何か無意識の影響なのかどうか分りません。
南都と云ふ方を他に知らないのですが、少し前に武道の達人だと云ふ南郷継正と云ふ人のことをネット上で知つたので印象に残つてゐたこともあります。(私が苦手とする武道と外国語の達人の類比からでせうか?)
南都さんの英語や日本語で書かれる文章は同じ主題が何度も繰り返されてゐることは分るのですが、それにより一体全体何を訴へようとしてゐるのか私には理解出来ないので、何処に違和感を持つのか具体的に指摘出来ません。
「選ばれた者」とは、トマス・マンの小説の連想もありますし、罪人のことだと理解してゐます。
<一部の人たちの生き方を強く批判しているとき>と仰るのも良く分りません、愚痴をこぼしてゐるか自己批判をされてゐるやうにしか見えないのです。
<一ヶ月ほど前に攻撃された>と云ふのも忘れてゐました、パラフレースが「長すぎる」と言つたことなら、私の非を認めたはずですが。
南都さんが、努力とか頑張ることが嫌ひな怠惰な私の、一番苦手とするタイプであることは慥かですが、折角外国語の能力に優れてゐるのですから、特殊個人的なものではなく、もつと普遍的に活用する方法があるやうに思ひますが。

1:11 AM  
Anonymous Anonymous said...

竹田壽惠雄とオランダの出版社で3冊の本を出したと云ふTakedaSueoは凡て同一人なのでせうか?
武田か竹田なのか知りませんが、私が聞いたのは最近のことで、Wuppertalか何処かの大学の神学部の教授だと云ふ人物なので年齢も違ふやうです。
学位論文があれば大学で演習を受け持つ資格はありさうですが、講義は教授資格論文を書いたC3以上の教授しか出来ないでせう。
竹田壽惠雄の専門はカントやドイツ観念論のやうで(日本にも弟子の多いR.Berlingerの編輯する)Elementaは哲学畑ですが、『主体的真理と例外者』と云へばキルケゴール論でせうから、哲学と言へば哲学ですし神学と云つても通る。31/12/07/

1:27 PM  
Blogger Mark Waterman said...

あがるまさん、

私もこの方のことは知りませんが、あがるまさんが書いてくれた本もその他の2冊の本も著者の生年は同じですから同一人物でしょう。偶然の一致ではないようです。

確かに田川は何をどのような形態で教えていたかはわかりません。しかし、ドイツでなくスイスではありますが、例のWilsonなども教えていますし、アメリカでも講義そのものは博士候補で可能です。

他に何かあったら教えてください。彼の本は新年になったら見てみます。

MWW

5:40 PM  
Anonymous Anonymous said...

竹田壽恵雄の娘です。日本でもほとんど知られていない大変マイナーな父のことを話題にして下さり、誠にありがとうございます。父は信州大学人文学部等で哲学を教えておりました。他界して10年近くになります。ロドピーやNijhofからドイツ語で出した本の他、和書も『主体的真理・・・』以外に刀江書院からのカントも関する研究書など、いくつかあります。最後の著書は地湧社から出した小説(キリスト教を扱っているみたいです)でした。ドイツでは、Bonn大学で、Gast Professorをしたことがありますが、ドイツの教授資格を取ったというものではありません。日本での学位も取っておりません。

10:10 AM  
Blogger Mark Waterman said...

竹田様

それこそこんなマイナーなブログを訪れご尊父様を紹介してくださりありがとうございました。現在、各種の締切に追われ時間がありませんが、近いうち、来週末ごろにでも改めて紹介させていただきます。

晩年は小説をお書きとのこと、実は私もひょんなことからブログで書き始めています。お恥ずかしいのですが、これとは別の下のブログです。

http://d.hatena.ne.jp/DrMarks/

MWW

3:29 PM  

Post a Comment

Subscribe to Post Comments [Atom]

<< Home