Does the research of gnosticism really bring us back to the authentic or original Christianity?
グノーシス思想の研究が本当に真性のキリスト教に我らを導いてくれるのだろうか?
「真性」を英語のタイトルでは authentic or original としたが、「初期 = early」としてしまうとニュアンスが変わる。そんなことを考えていると、むしろ英語で書いたほうが楽なテーマなのだが、日本向けの意見なので日本語で書く。なぜなら、日本では、荒井献の学位論文を基にした『原始キリスト教とグノーシス主義』以来、荒井の意図とは別であろうが、グノーシス主義(グノーシス思想)こそキリスト教の原型のような誤解があると思うからである。それに英語にすると、関係者に不都合の部分がある(←この臆病者!)。
このところ、だらだらとブログめぐりをしたり、昨年出た本だが読みそびれていた本などを身の回りに並べて読んでいる。たまたまグノーシス関係が何冊かあり、いろいろ考えをめぐらしていたら、またまたこの7月お隣の町(といっても車で2時間以上かかるが) Santa Barbara の Birger A. Pearson 先生が Fortress Press から Ancient Gnosticism: Traditions and Literature というのを出した。なかなか教科書的にまとまっているので、まさに教科書として採用する先生も多いのではないかと思われる(儲かるな)。まだ手にとっていないから書評はできない。入手したら紹介しよう。
グノーシス思想といっても多種多様である。しかし、荒井の研究もそうだが、何ゆえこの研究が活気を呈しているかというと、1945年に発見されたナイル川沿いの Nag Hammadi の文献によると言っても過言ではない。その後の発見文書としては 1970年代にやはりエジプトから出土した Tchacos 文献がある。この中には『ユダの福音書』が含まれているので日本でも馴染みであろう。しかし、現存の最大の宝庫はナグハマディ文献に変わりはない。
我が恩師の一人(副指導教官)だった David M. Scholer の Nag Hammadi Bibliography は1948年以来のほとんど全ての重要なナグハマディ研究を網羅しており、今なお毎年追加されている。ナグハマディをやろうとするなら、あるいはグノーシス思想をやろうとするなら、この文献目録を知らずして不可能と言ってもいい。しかし、膨大な量だ。ショーラー先生夫妻と我ら夫妻はとても仲良しだが(彼らは本当にいい人たちだ)、ショーラー先生の学問的好みと私のものとは少し趣を異とする。Dibelius についての考察を私がしたとき、そのことに二人とも不幸にも気づいてしまった。(因みに、ショーラー先生の先生は Koester 博士であり、ケスターの先生はブルトマン。しかし、私の学位論文のサブタイトルの "theological struggles" というフレーズはショーラー先生からいただいた。)
ところで、私はナグハマディの研究者でもなくグノーシス思想の研究者でもない。だから、ショーラー先生の真性の弟子ではない。ただただ、初期キリスト教の研究というところで繋がりがあるにすぎない。私の先生はやはり Colin Brown 博士であり、Robert H. Gundry 博士となろう。後者二人は、研究の中心が正典と初期キリスト教の歴史である。んっ、初期キリスト教ならグノーシスは入らないの?
グノーシスが何時からかもそれ自体問題ではあるが、通常はあくまでも正統の発展段階において「派生」したものであり、地理的にも「辺境」において行われたものと理解されるのが普通である。決して、グノーシスがキリスト教の原型であったり、正統とされるものが歪められたキリスト教だったという事実はない。それなら、どうしてグノーシス研究者が熱中するのか。
今、幾つかの本を身の回りにおいて読んでいて感じたのだが、彼らの多くはグノーシス思想が好きなのである。しかし私は、どうでもよい deviation に生涯をかける気持ちはもてない。そういえば、ショーラー先生は150以上の書評の業績やナグハマディ文献目録という大きな仕事はあるが、自分自身の学位論文も出版されなかったし、自分自身の原著がない。ブラウン先生やガンドリー先生の場合は学位論文が出版されているし(ブラウン先生はバルトに関する修士論文も本になっている)、原著の数も多い。好対照である。
なんやかにやと文句を書いているイーアマン先生の本も面白いし、今度出た上述のピアスン先生の本も注文するつもりだ。しかし、それで十分だ。日本の若い学徒も、グノーシスをやるなとは言わない。しかし、骨董の目利きにおいて、偽物をいくら見ても本物はわからないように、まず本物をやってからでも遅くなかろう。グノーシスだけで真性のキリスト教には辿り着けないのだから。
6 Comments:
グノーシスというと、ボクの大好きなエリック・サティの3つのグノシエンヌ(Trois Gnossienne)を連想させます。この曲はその昔、サントリーのウィスキーのコマーシャルに使われて、日本でもポピュラーになりました(映像はランボーと道化師でガウディーの建築を舞台にしていました)。グノシエンヌは「知る」というギリシャ語から造ったサティの造語だそうですが、古代クレタ島にあった古都「グノーソス宮」とも神秘教会グノーシス派とも言われ、古代ギリシャの詩の脚韻を踏んだリズムが伴奏部に使われているようです。
Linus さん
コメントありがとうございます。その通り、グノーシスは γνωσις と書いて knowledge すなわち知識のことです。イエスの復活の力や旧約の天地創造の神を認めず、秘密の知識の力を信じている人たち(さまざまなヴァリエーションはあり)がグノーシス主義者です。キリスト教の一派ではありますが、哲学的な傾向にあり、別な宗教との習合の可能性もあります。
少し面白おかしく話せばの話ですが、キリスト教の当時の指導者が彼らの間違いを正そうとして議論をしたとします。指導者の懇切丁寧な議論に負けたとします。彼らは何と負け惜しみを言うか。「あんたらは俺らの秘密の知識がない。だから、あんたらには真理はわからんよ。」何となく、禅問答ですね。
もう一つおまけの与太話です。彼らは、旧約聖書の天地創造の神が彼らの究極神より劣っていると考えます。だから、旧約の神の教えには従ってはならず何でも教えの反対をすればいい。暴飲暴食するなと言われたら、たらふく食べて痛飲すればよいし、姦淫するなと言われたら隣の奥さん方を誘って乱交パーティーをすればいい。
以上の出鱈目がグノーシス主義そのものというわけではありませんが、そんなグノーシス主義者がいたことも確かかもしれません。仏教の密教信者に不心得者がいたように。
Trois Gnossienne ですね。サントリーのコマーシャルはどの部分を使ったのかわかりませんが、雨だれのようなピアノ曲ですね。同じ雨のイメージでもラフマニノフのピアノ協奏曲2番のような壮麗さはなく、一人寂しく窓辺に座っているような気分がします。悲しすぎますが、誰にも煩わされず幸せなのかもしれません。
MWW
クノッソスΚνωσ(σ)οςをラテン語でGnos(s)usと云ふとは知りませんでした。
そこで頭が混乱します。
1)ラテン語のCはGの替りだつたからでせうか?そこに音韻変化の(法則)があるのでせうか?
2)本来クノッソスと云ふ地名は何処から来るのか ― ΓΝΩΣΙΣと関係はなささうだが。
3)迷宮ΛΑΒΥΡ-ΙΝΘΟΣは『両刃の斧の家』と云ふ意味らしいが、ダイダロスと云ふデミウルゴスが作つた宮殿が、矛盾した世界だと云ふ意味なのか?
E.サティはGnos(s)ienneにクノッソスの女(アリアドネ?)、知恵の娘の2つの意味を持たせたと云ふことになりますね。
4)しかしグノーシスの伝統で知恵の娘と云ふ概念があるのか?
またグノーシスとソフィアはどう違ふのか?
働き或いは出発点ternimus a quo と目的点t.ad quemの違ひなのか?
6つのグノシェンヌは聞いたこともあるはずですが、ジムノペディと記憶では区別がつきません、でも3拍子でギリシアやラテン語と音韻を踏んでゐるのでせう、雰囲気は幻想風古代でもありますね。ペラダンの薔薇十字団のテーマ曲なのですか!
日本にも弟子がゐるK.Rudolphは1984-86年にはSanta Barbaraにもゐたやうなので、其処が今ではグノーシス研究の中心地なのでせうか?
荒井献は誰の弟子になるのか?ディベリウスは?ネットを見ても簡単には分りませんでした。どうもピアソンはスウェーデン系らしい、ルンド学派の流れを汲むのか?
今では弟子は先生と違ふ意見を立てるから余り意味がないかも知れない。
あがるまさん
語源に関することはわかりません。
Santa Barbara がグノーシス研究の中心であるはずはありません。たまたまピアスン先生がいたというだけです。今、彼はは名誉教授です。南カリフォルニア(サンタバーバラからサンディエゴにかけて)には、相当数のグノーシス研究者がいますが、ハーヴァード系かクレアモント系の先生方がほとんどです。私のフラーにいるショーラー先生やクレアモントのマクドナルド先生、そしてピアスン先生もハーヴァードの卒業生でケスター先生の影響なのです。
あがるまさんが推測したように、ピアスン先生は姓名共にスウェーデン系で、その通りです。しかし、ルントの大学とは直接の関係はありません。彼はアメリカ生まれで、スウェーデン系の学校には通ったそうですがアメリカで育ちアメリカの教育を受けています。
荒井献の先生ですか。多分、Hans Joachim Schoeps あたりだと思っていましたが、来週になったら大学に彼の学位論文があるはずですから見てきましょう。あの頃のD. theol. の論文なんてごく薄いものですよ。しかし、荒井先生は日本人で唯一の Coptist の本格的グノーシス研究家だと思います。私は読んでいないのですが、日本語でこの数年の間にも何冊か本を出しているようですよ。
ディベリウスとは Martin Dibelius のことですが、ブルトマンとは一味違った Formgeschichte の双璧の一人です。彼は旧約学で学位を得ており(この学位論文の写しを私は個人的に所有しています)本来はユダヤ学者でしたが、ほとんど新約学の先生として過ごしました。日本語訳も結構あるはずですよ。今見たら、私の書棚にも神田盾夫訳の『イエス』がなぜかありました。
MWW
グノーシスについても無知ですが、
最初に戻つて、
『グノーシス研究が真性のキリスト教的研究に寄与するか?』と云ふことならば、それは肯定的でせう。しかしキリスト教にとつて否定的に働く可能性はあります。
グノーシスは別に真性な?キリスト教から派生したものではなく、逆に前者の方が時間的にも本性的にも先であり根源的でせう。新プラトン主義やマニ教から出発したアウグスティヌスの場合と同じです。或いは複雑概念操作が必要なグノーシスは中流知識階級、単純な信仰で済むキリスト教は『地の民』のためと容易に想像出来るでせう。
キリスト教が(ある程度)普遍的なものとして認められるのは、それが古代の本質存在論に基づいてゐるからで、実体とは個々の物以外の何物でもないが、それらの多数の個物と区別された、一なるもの(それを神と名付けるのは抵抗がありますが)としての存在の学的認識に達するには、人間の概念操作によるdiskursivな思惟によつては不可能でアナロギーやメタファーによるしかない。しかしそれは不合理である信仰(あるいはtheophania)の領域では可能かも知れない、と云ふ保留があるためだと思ひます。
神とは人間の想像した者であり自身のメタファーに過ぎません。神は働き(自然の力)であり、路傍の石ころやダイヤモンドやイエスと云ふ名前の人間のやうな実体ではありません。
世俗的にみても、(例へばケルソスが批判するやうに)世の終りが来ると云ふので乱痴気騒ぎや乱交をしてゐると評判が立つたのはキリスト教徒の方で、グノーシスはその反対で禁欲的だつたでせう。
(或いはそれを否定するために護教者がグノーシス的偏向のせゐにしたのでせうか?少なくともキリスト教的グノーシスとキリスト教は混同されてゐたのでせうから。)
グノーシスに終末論があるかどうか知りませんが、少なくともそれは信仰や実践ではなく知解の領域(の極限)であると云ふ認識は持つてゐたでせう。
限界まで考へることが大切で、信仰は知識の代用にはなりません。
あがるまさん
>グノーシスは別に真性な?キリスト教から派生したものではなく
これはその通り。
以下および本エントリーのテーマはある具体的な状況についてのもので長くなりますので今日は失礼します。これから出かけます。
MWW
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