Latin Mass and Pope Benedict XVI
ラテン語ミサと法王ベネディクトゥス16世
補足(2007・7・9):補足を先に書くのはおかしいが、この補足は以下の記事を出した後のアメリカ西海岸時間7月9日午後3時に書いているので、補足は補足である。以下の記事で「ベネディクトゥス」としたのは、ラテン語の記事だからというわけではなく、日本人学者はラテン語系の古代の人物は律儀にラテン語形で表記するので、法王もそうだと思い込んで何気なくラテン語形で Benedictus のカタカナ表記にしたまでである。ところが、その後日本の新聞記事などを見ると、英語形 Benedict のカタカナ表記「ベネディクト」ではないか。そういえば先代の法王もジョンポールと英語形だった。日本のジャーナリストでラテン語形に直す人などいないものね。日本の学者は別だけど。以下は、すべてもともとの記事です。
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ラッツィンガー先生(法王のこと)の単なる好みに過ぎないなどと言っている人もいる。昨日7月7日の七夕の日、ラスベガスでは777(2007・7・7)のぞろ目だからと結婚ラッシュだった日のことだが、法王ベネディクトゥスが、ラテン語による伝統的なミサをある程度自由に行うことを正式に認めた。
皆様ご存知のとおり、1960年代に行われた第二ヴァティカン公会議ののち、種々の改革がカトリック教会の内部で行われた。カトリックの学者もプロテスタントの学者のように自由に研究できるようになったことも一つだが、それまでのラテン語によるミサがそれぞれの国の言葉で行われるようになったことは一種の宗教改革と評価してもよいような出来事だった。
しかしそれが、これからはラテン語でも自由にやりなさいということだから大騒ぎ、と言ったって、それはカトリック教徒やカトリック教徒が多いLAなどでの話であって、多分、日本ではほとんど話題にもならないかもしれないから、今この記事を書いている。私だって、エルサルバドル出身でなぜかユダヤ人の苗字のカトリック信者であるドーラおばさんが、今日の午後教えてくれなければ知らなかった。慌ててLAタイムズを見るとなるほどそうだ。元々ラテン語ミサで育った年配の(失礼)ドーラは大喜び。
そうなのだ。ラテン語でミサ(礼拝と聖餐)をしていたときは、どこの国へ行こうが、あるいはどんな言葉を使っているところでも共通のラテン語なので、アットホームな気分でミサに参加できた。今は、違う国違う言葉のところでは、逆に意味がわからず、まごついたり落ち着かない気分にならざるをえない。皆がラテン語ならそんなことは起こらない。しかも、ラッツィンガー先生もそうらしいが、現代語などよりラテン語の響きはとてもミサの雰囲気を高揚させるとの意見も多い。
それではラテン語のミサは現代語よりいいのでは、ということになるが、そう簡単な話ではない。まず、ミサに使われる言葉はそれほど多くないので、主要なものを暗記することは信者にとっても難しいものではないとはいっても、意味も理解させる必要があり、そのためには多少の文法的な知識も授けなければならなくなる。それに今あるラテン語のミサは1545年のトレント公会議で制定された The Tridentine Mass といわれるもので、ユダヤ人のキリスト教への改宗を強要するような文言もあり、ユダヤ人の宗教団体からはすこぶる評判が悪く、早くもLAのシモン・ヴィーゼンタール・センターあたりから批判の声が上がっているとLAタイムズは報じている。
実は、第二ヴァチカン公会議の後、このラテン語による伝統ミサが全廃されていたわけではない。地域のビショップの許可があればラテン語で行ってかまわない。しかし、全米には6千9百万人のカトリック教徒がいるが、ラテン語のミサに出席しているのは15万人にすぎないそうだ。南カリフォルニアではほんの650人ほどが参加しているにすぎない。そういえば、先日遊びに行ったヴェンテューラ市のミッシォン Buenaventura でもラテン語ミサが行われているらしい。
今回、法王がラテン語ミサを自由にと言っても、実際は各地各国の現代語でのミサを駆逐するのはもはや無理だろう。しかし、これまで以上にラテン語ミサも並行して行われるのも確かだと言える。ああ、私も早くからラテン語ミサに出ていたら、あんなにラテン語で苦しむこともなかったかもしれない。(←それとこれとは別。語学の才能がないだけさ。)
12 Comments:
Dr.Watermanさま
内田さんのブログでコメント頂いていて気付きませんでした。励ましのお言葉ありがとうございました。さて、私はエイズの他にも薬物依存(覚せい剤)の経験もあり、DARCというNA(Narcotics Anonimous)のメンバーだった事があります。ちょうど前後して『ダヴィンチ・コード』の日本語訳が出たりして、キリスト教にちょっとだけ深く触れました。私は基本的には仏教徒(真言宗)ですが、ミサの荘厳な雰囲気は仏教にはない「石造りの質感」があり、たまにミサや聖書の読み合わせに参加しています。それにしても日本語が達者でいらっしゃいますね。私もブログをつけているのでよろしかったら観てください(凄く下らないですが、笑)
http://birdyflour.cocolog-nifty.com/blog/
Linus さん(一応、礼儀なので「さん」付けます)
コメントありがとうございます。昨日軽いぎっくり腰を起こし、大事をとってコンピュータから離れていたため返事が遅くなりました。
私は「ならぬことはなりませぬ」という藩校の教えがあった会津の生まれで日常会話なら日本語のほうが上手です。しかし、それも近頃は時々おかしくなっていることはいるのですが。
そういえば、どちらも御香の煙りモクモクで、真言宗はギリシア正教(キリスト教の古い一派、お茶の水の丸いドームのハリストス聖堂はロシア正教でありギリシア正教の一派)のような礼拝形態のような気がしますね。拝んでいる対象は別なのですが、何か共通した宗教心というのがあるのでしょう。
Linus さんという名前は色々な方が名のっておられますが、私はスヌーピーに出てくるルーシーちゃんの弟でいつも毛布と一緒の Linus Van Pelt 君を思い出します。ブログではなぜ Linus さんなのかわかりませんでした。
また、いらしてください。
MWW
LINUSの理由。さすがDr、当たりです。ボクは小さい頃ライナスと同じでお気に入りの毛布が捨てられなかったのです。今後もよろしくお願い致します。
当たっちゃった。
チャーリーが毛布を抱いたライナスを馬鹿にするのですが、お姉ちゃんのルーシーが「あの子は神秘の感触(secret feeling)を楽しんでいるのよ」といって弟をかばう場面がありました。頼もしいお姉さんだと思ったものでした。
MWW
深刻なお話の後ですが。
英語、スペイン語、ラテン語でのミサも平行して行はれると云ふ教会での日本語での音楽つきミサに行つたことがありますが(この時ミサ曲は日本語で歌はれたのかどうか覚えてゐません)、冒頭の一節をグレゴリア聖歌のメロディの上に神父が日本語で朗誦するのが不調和で可笑しい。
でも多分イタリア語やフランス語ではうまくメロディに乗るのでせう。
日本語だと意味が良く分るから好いのかも知れませんが、聖書の日本語が珍妙なことが露になつて聞いてゐて恥かしくなります。(日本のキリスト教徒はこんなことは気にしないのでせうか)。
何処の国の言葉でもないお経と同じで、何だか良く分らない意味が音声や行動の背後に隠されてゐるやうな気がする、と云ふのが一般に儀式の意味のやうな気がします。
Ernest Blochのユダヤ聖歌Avodath HakodeshをL.Bernstein指揮のレコードで聞くと、歌詞はヘブライ語で音楽に調和してゐるのに - Kahnと云ふ名前の司祭がヘブライ語を話せるはずなのに - 英語で祈りを唱へるので場違ひに感ぜられます。
あがるまさん
そうなんです。多分、キリスト教そのものはアラム語、ヘブル語、ギリシア語の環境で発生したとしても、その後の発展の中で、例えばグレゴリアン聖歌がそうですが、ラテン語環境でできたものはラテン語で歌うのが一番合っているのでしょう。また、ギリシア正教会のCDなども持っていてたまに聞きますが、音と言葉が合致しています。英語などに訳しても、訳すのが勿体無い繰り返し部分などは原語のままというのも多いですね。
それはドイツではなく、四谷の聖イグナチオ教会でしたか。まっ、歌い出しは絶対音感でもないと難しいようで、あのJDクロッサンは音痴のため、あれが苦痛で司祭を辞めたと冗談を言っています。
私も、意味はわからなくてもバルカンや小アジアの歌に魂が揺すぶられることがあります。まさに言霊ですね。
今のドイツは暑くありませんか。お体に気をつけてください。(私は腰をやられましたが、なんとか今日教会に行けそうです。)
MWW
カトリック神学の学生は音楽を副専攻にしてゐる人も多いですね。
兄の方のラチンガーは日本にも何度も来てゐるレーゲンスブルクの少年合唱隊の指揮者ですし。
兄弟と云へば、前にラーナーの話題がありましたが、私に気になるのは、ギリシア神話に就て書いたHugo Rahnerの方です。
日本で良く読まれた(2度も翻訳されてゐます)Karl Adamの『カトリシズムの本質』と云ふ本の冒頭で、今に日本の習慣がカトリックにも取り入れられるだらうと書かれてゐたのが印象的でした。
序に『ダヴィンチコード』を出したDoubledayと云ふ出版社は元々カトリックの本屋なのですね。そこから出てゐたImage Booksにこのアダムの本も這入つてました。Anchor Booksにも名著が揃つてゐました。
あがるまさん
まず、どうしてそうだったんだろうと疑問なのは Doubleday が出したということですね。私がたびたび言うカトリックの学者の良書はここから出ているのに。もっとも、儲からない本だけでなく、儲かる本も出して、良書の出版に備えるというのも大切なのでしょう。赤字覚悟で出す良書というのもありますからね。
日本で有名な Schneider 神父など兄弟のうち4人がカトリックの神父ですよ。親としてはこの4人のボーイには孫が期待できない。
MWW
確認しないで書くので間違つてゐるかも知れません。
出版社に勤めて居られたWatermanさんの方が詳しいでせう。
少し前に話題になつたオランダのMartinus Nijhoffも今はKluwerと云ふ学術書専門の出版社に吸収されましたが、その実体は世界最大のメディア会社ドイツのSpringerコンツェルンで、Doubledayをはじめとした米国の代表的な出版社Henry Holt、Reinhardtなどもそれに吸収されたはずです。
Julius Springerは科学や数学では有名な出版社でしたが今でもさうなのか(多分さうなのでせう)。でも問題のAxel Springerとの関係がどうなつてゐるのか知りません。
あがるまさん
シュプリンガーのその違いはわかりません。しかし、これは昔も今も自然科学で強く、一時は確かに経営困難ながらも質の高い(特に英語の)専門雑誌のタイトルを世界中で買い漁っていたものです。
MWW
暇なのでお墓の専門家との雑談です。
トルコで白い石棺が地上に放置されてゐて、何故地中に埋めないのかと思つたことがありましたが、石棺石lithos sarkophagosと云ふのはlimestoneの別名で、どうやら石灰石には死体を早く分解する作用があるので、その中に入れて置けば地中で腐敗するのを待つ必要がないらしい。
私が見た墓地はパムッカレの近くだつたので、あのお棺も石灰石で出来てゐたのでせう。(同一物質から出来てゐる大理石にもその作用があるのかもしれません)
D.クロッサンを読んだこともないのでWatermanさんが彼の何を問題にするのか分らなかつたのですが、段々インターネット耳学問で、イエスの死体は誰も引取り手がなくそのまま放置されたので、鳥や獣に食べられてしまひ、その爲に姿が見られなくなつたのだと、彼が云つてゐるらしいことが分りました。
しかしイエスの死体を収めた墓があつたとすればはどんな様子だつたのでせう?何処か岩穴にでも葬られたやうですが、聖書には地震の記事が沢山出て来るのであの辺りは火山地帯だとすると、火山性の凝灰岩Tuffで出来てゐたのかも知れません。
ローマのカタコンベに行つたことがありますが、ローマは全体がTuffで出来てゐて、それは空気に触れると硬くなるので、簡単に頑丈な建造物が出来るさうです。
アーチ構造はデモクリトスが考へたとも云はれてゐますが、ギリシア人がアーチ構造を使はずに切断強度の弱い石の神殿を建てたのは元来の木造建築の形をなぞつたからでせうが、ギリシア人の知らなかつたアーチを利用してローマ人が建築の天才を謳はれたのも、元来はこの地質のためだつたのかも知れません。
あがるまさん
棺と骨壷の話はメインエントリーに入れました。アーチ建築の話はわかりません。
MWW
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