Trivia after May
五月以来のどうでもいいこと
気がつけば3週間ほど更新していない。その間、かなりのコメントをいろいろなところに置いてきたが、近頃は自分の専門でも何でもないことにはなるべく Mark W. Waterman の署名はやめてMWWとすることにしている。フルネームにすると検索でひっかかりやすくなるのでなるべくどうでもいいことは署名しないことにした。もっとも、日本または日本人または日本語の場合、どういうわけか専門にかかわることでも偽名が多い。理由はいろいろあるだろう。プライヴァシー、はにかみ(あるいは、はにかみを美徳と考えている)、専門に関しても自信がない(あるいは大学教授をしていても偉大な教養学者ということで専門などもともとない)、etc.
更新していたら生きているという証拠なので、どうでもいいことだが三つ書いておく。いずれも前回以来のことで、為になる人には為になるかもしれない。
1)アメリカの5年基準の博士課程、とくに人文科学の場合、5年以内に済ます者はまれであり、最近、12年掛かった人に会った。(その心は、時間が掛かっている人、あきらめずがんばれ!)
まず、済ますとは、日本の単位取得満期退学などとは訳が違う。コースワークを全て終え、ディフェンス等を経て、論文も合格したことを意味する。私がかつてどこかのブログで、アメリカの博士課程は10年も在籍しているうちにどこかの段階で放校されているなどと書いたが、そうでもなさそうだ。時間が掛かってあせっている人の安心のためにもメモしておく。
つい先日私の所属する研究所の十余人の博士のフーディングセレモニーがあった。1分間謝辞の中で、一人の女性新博士が12年掛かったことを告白した。どうしてそんなことが可能か。実は、フルタイムとパートタイムというトリックがある。
例えばだ、大学院によりコースにより千差万別ではあるにしろ、コンプといわれる長時間大量の筆記試験に合格して、はじめて単なる「博士課程の大学院生」から称号としての「博士候補生」に昇格する。そのあと普通半年以内に論文のプロポーザルが受理されなければならない。ここでも受理とは、プロポーザルすなわち論文企画書が口頭試問等の審査を経て認められることで、半年以内に出すだけ出せばいいということではない。ぎりぎりに出したのではアウトである。ところがこれはフルタイムの学生の話であり、パートタイムの勤労学生は1年以内でいいというおまけがある。
しかし、フルかパートかは自己申告であり、勤労学生でなくとも、つまり1日24時間週7日間学生ばかりしていてもパートと申告することはできる。そういうものなのだ。ただし、フルを義務とする奨学金等を得ている場合は、そのお金を辞退しない限りパートとは申告できないのだ。
今回の学生の場合、5年基準のコースで8年在籍が限度だが、理論上16年在籍が可能になるのかもしれない。しかし、普通は博士候補になってからが長いのであり、候補になるまでもたもたしていると注意され退学勧告のプロベイションの対象となるから、12-14年くらいが実際上の限度だろう。
5年で終わるのは少数派だと書いたが、私自身も長引いたほうだ。気の済むまで調査や研究を重ねたり外国の大学に在学したりする者も少なくない。だから、後々優秀な学者になるのは、5年以内に済ました奴か10年以上掛けた奴で、その間は凡庸だそうだ。因みに私は凡庸組。(凡庸なのであってボンクラとは呼ばないでください。少なくとも私以外の人たちを。)3分の1ほどの新博士はすでにフルタイムのティーチングポストにある人たちで、そういった人たちは確かに力があっても時間が掛かったようだ。
2) Who is to blame? として Who is to be blamed? とはしないほうがいい。
何故か。英語頭の人はそれが自然だから。日本の、とくに文法にうるさい学生は後者を使いたがる。まあ、それも間違いとは言えない。
しかし、この際の blame は自動詞的な用法で、誰かを非難するという他動詞的用法ではなく、Who is responsible (for something)? と同じで、例えば、Who is to blame for the negligence? (怠慢は誰の責任か)のようになる。つまり、blame = 非難する、の如く固定的に暗記してしまうと前者のほうがおかしいことになるが、英語頭の人に後者を言うと、逆に混乱させてしまうかもしれない。
3)ローマ法王、自国(ドイツ)のプロテスタント学者の浅知恵を批判し、アメリカのユダヤ教学者を誉める。
ローマ法王の近著について前のエントリーに書いたが、印象深いところを一つ紹介する。プロテスタント学者とは、かの有名な Adolf von Harnack(アドルフ・フォン・ハルナック)とその後の自由主義神学者のことであり、ユダヤ教学者とは、これも有名な Jacob Neusner(ジェイコッブ・ヌースナー)のことである。彼はユダヤ教の聖職者ラビでもある。
話はこうだ。マルコ伝の2章(並行記事がマタイ伝12章、ルカ伝6章)にイエスの弟子たちが安息日(今の土曜日)に麦畑を通りながら麦の穂を摘むエピソードがある。すると、厳格な律法主義で知られるパリサイ派の人たちが「安息日に禁止されている行為を行った」といって非難する。イエスは逆に、「安息日は人のためにつくられた」といってパリサイ派の思い違いをたしなめる。
ハルナック以下プロテスタントの自由主義者は、イエスがユダヤ教の律法主義を脱し、キリスト教の自由主義(更に進めて人間主義)を発揚させたと解釈してきた。私の経験でも、プロテスタントのほとんどの牧師はそう信じている。カトリックの神父たちも例外ではないだろう。
ところがヌースナーは、「ははーん、ここでのイエスはいかにもユダヤ主義じゃないか。つまり、あれしろこれしろはユダヤの律法でも実は瑣末なことであり、安息日は創造の業を終えて神が安らんだ日のことであり、人間も神に倣って安らぐ日なのだ。その意味では、神が人間のために最後に安息日を備えてくださったと言える。だから、人間は神の許で7日目に安らぐ。ふん、待てよ。No wonder、イエスはここでは神とされているのだ。安息日に神(イエス)と共に喜んでいる弟子たちが、神と共にいる畑で何をしようが、まさに律法的ではないか!」(法王の近著の4章とヌースナーの "A Rabbi Talks with Jesus" を参照)。
自由主義的プロテスタント神学者は、聖書は律法の宗教を脱し自由主義的道徳を説く偉人イエスを描いているのだと誤って主張するが、ユダヤ教学者のヌースナーは、的確にイエスの神としての尊厳を読み込んでいる、と法王ベネディクト16世は判断する。つまり、ラッツィンガー先生は、ハルナックらが聖書からイエスの神性に関する部分を神話化して矮小化しているのに対し、ヌースナーのほうが史的イエスを聖書から正しく読み込んでいると評価しているのだ。
ところでこのヌースナー先生は現在70代半ばだが、もともとハーヴァードの出で、同じハーヴァードの出である Morton Smith の許でコロンビア大学に在籍していたことがある。ヌースナーの先生であるこのモートン・スミスは、Secret Gospel of Mark の発見者として学会に躍り出たのだが、今では多くの学者が「偉大なペテン師」だったと疑っている人物である。なにしろ、1枚の写真以外、この外典の現物を見たものはスミスただ一人なのだから。それはともかく、ヌースナーの証言によると、スミスはとんでもない先生だったらしい。ヌースナーがいくら原稿を書いてスミスに提出しても出版されないのを不思議に思って、ある日スミスのゴミ箱をみたらヌースナーの原稿はみなゴミ箱に捨てられていたのだ。
(これも死人に口なしで、今となってはスミスの反論は聞くことができない。まっ、どの世界にもある話です。チャンチャン!)
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