Dr. Waterman's Desk

An old desk of an American theologian ("日本語" speaker) / Check out another blog please "Comments by Dr Marks"

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American citizen but a foreign native born in southern Germany, raised in northern Japan. He holds a Ph.D. degree in biblical theology (Center for Advanced Theological Studies, Fuller Theological Seminary). Dr. Waterman mainly lives in Los Angeles, California. He studied various subjects (philosophy, sociology, etc.) and languages in Japan and in America (Hirosaki University, University of Tokyo, Fuller Theological Seminary, and other institutions). Email: markwaterman(at)fuller(dot)edu. Some call him "Dr. Marks".

Sunday, April 08, 2007

Do Not Be Amazed Μη εκθαμβεισθε


驚くことはない


驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。

Happy Easter!

4 Comments:

Anonymous Anonymous said...

I'm 孤峰庵宗信.
Thany you very much for your coment
to my blog.
I graduated Tokyo Union Theological Seminary about
30 years ago. I have a Master of Theology.
Since that time, I had been working for some churches which belong to UCCJ. I have been a pastor of my indipendent church for 13 yewrs.
History of "Kirishutan" has descriminative problems in this age.
I am learning about those problems. We can't consider Chistianity in 16th and 17th century without recognizing about this problems.
See you soon!
God bless you and your family!
Pease call me Jackie. My middle name is JACOB.
Your Friend Jackie

1:15 AM  
Blogger Mark Waterman said...

erman孤峰庵宗信先生

多分、日本語でいいと思いますので日本語で書きます。コメントありがとうございます。

そうですか、東京神学大学大学院出身で、日本基督教団所属の教会に所属された後、今は単立の教会を牧会されているということですね。

Eメールの連絡先がわからなかったので先生の weblog にコメントさせていただいたわけですが、ブロッグのほうで丁寧な回答をありがとうございました。(読者の皆様、URLは下記のとおりです。訪ねてみてください。また、わたしの質問は「子安観音は果たしてマリア観音か?」ということでした。)

http://plaza.rakuten.co.jp/aizukirishitan/

しかし、宗信先生、確かに像を造る者は自分の知っているイメージを像にするものですが(例えば、上智大学にあるフィリピン製のキリスト像は老人です。それは30代が当時のフィリピン人にとって老人の閾であったほど寿命が短かったことによるそうです。)、長崎や先生のブロッグにアップされた京都のマリア像が西欧的なのはどうしてでしょうか。そして、それらのマリア像には決まって背後に十字などの証拠があります。

更に、観音は菩薩であるから男であるというのは仏教教義の原則であって、観音が女形を取るのは実はゾロアスター教やヒンズー教の女神の影響があることは定説です。子安観音に乳房があることは、マリア観音であることの「直接的」証拠にはなりません。

墓の一部が削り取られていることは、洗礼名か何かが削り取られたと考えることは可能です。しかし、墓石に洗礼名が書いてあるのは長崎でも明治初期の高札撤去の後ですから、これも判断はむずかしいかもしれません。

MWW

7:44 AM  
Anonymous Anonymous said...

ハイデッガーはthaumazein(thambeinはそのコイネー版でせうか)をbefremdenと訳したさうですが、そんな異化的な作用がこの話にあるのでせうか?

『空虚なる墓』が何故問題になるのか - どうせ荒唐無稽な話だらうから - 不思議にも思ひませんでしたが、偶々、R.オットー『聖なるもの』と云ふ文庫本を見て居たら、付属論文(の註)で問題にされて居ました。

ルター派の保守的教義学者のFrank(彼が何物かは知りませんが、1880年に出版された本の中で)は『パウロは実際、物質的な血気の身体ではなく霊的の身体が復活すると云つて』ゐて、フランクにとつては、身体の本質はその『形体』であり、そしてその形態が分離した霊に回収されると主張したので、フランクにとつては『肉体』の復活なるものは存在し得ないし、かつ『空虚なる墓』を引合に出す(?)のは何等の意味をも持たず、全く不可能なことである、さうです。

慥かにイエスが人間として蘇つたのなら葬られた墓の中に居るはずなのに、居なかつた。そして後になつてそれに付加的にイエスが皆の前に現れた、と云ふのは辻褄の合はない話です。

10:21 AM  
Blogger Mark Waterman said...

あがるまさん

お帰りなさい。またドイツからですね。
エントリーに入れます。

MWW

2:32 PM  

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