If Any Add Anything . . ., If Any Take Anything Away . . .
もし之に加ふる者あらば . . .
もしこれに何か付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、もしこの預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。(ヨハネの黙示録22:18-19)
聖書の末尾にある「ヨハネの黙示録」のそのまた末尾にある言葉である。改ざんをを戒め、神の名で脅して、都合よく書き換えてしまおうとする者の出鼻をくじいている。それでは、この脅しは効き目があったのだろうか。効き目があったと私は思う。
今までも私のブログに何度か出てきた Bart D. Ehrman 博士は、近頃よく売れているらしい。先日、久しぶりに Barnes and Nobles (日本の紀伊国屋書店や丸善みたいなもの、アメリカの主要都市にある本屋)を覗くと、彼の新刊書があるはあるは . . . 。一昔前の John Dominic Crossan みたいだ。その心は、素人衆に人気。
この Ehrman 教授は割合にまともな先生と思うが、あらゆる所で面白おかしく(これが曲者なんだよな、人気も出るし、そんなところばかり強調される)聖書の語句が正確に伝わって来なかったという俗説を熱く(あーあ、この先生ホンキの介だもんね)語りすぎるのが玉に瑕。確かに、誰でも書き移し間違いを日常経験する。手書きだから読み間違うとか、似たような行があると行ごと飛ばすとか、間違いのパターンも色々だ。書き移しの回数が多いほど、いわゆる伝言ゲームの要領で間違いが増え、最後には、初めとは似ても似つかない文面になることもあるだろう。
しかし、写字工を舐めてはいけません。我々の日常のいい加減な書き写しとは違います。行の文字数や改行の位置を「写し元の本」に合わせたりして、極力間違いを防ごうとした努力の跡が見えます。それでも間違いはあるのですが、Ehrman 先生が力説するほどではないと思う。彼の師、Bruth M. Metzger もそんなには言っていないし、その更に大御所 Kurt Aland (彼は1958年にベルリンから逃げて来られて本当によかった)などはテキストの tenacity (粘り強く執拗に頑なな保守性)を言明するほどだった。
写字工は素人ではない。写す際の人間の弱さを心得た上で、ミスを防ぐための様々な工夫をした職人なのだ。また、写字工は神に仕えるために写字をした。恐れ多くて勝手な改ざんなど、なかなかできるものではなかった。もし、「写し元の本」に異本があれば、通常はどちらが正しいとかの勝手な解釈も控え、注記を加えて異本の存在を伝えることまでしたのである。マルコ伝の終結部なども、現在の各国の現代語訳がやっているように、短い終わり方と長い終わり方を併記するものが少なくない。長かろうが短かろうが、いずれも聖なる言葉との畏怖があって、どちらかを削ることができなかったのだろう。
ただし、翻訳となると話は別である。ギリシア語から古代の諸言語に訳されたものには、訳出にあたって止むを得ない訳者の解釈が入り込むからだ。しかし、それも出鱈目な訳ではないし、ギリシア語本文の上記の話とは関係がない。Ehrman 先生の頭にあるのは、Marcion の意識的な改ざんとか、グノーシス派などの特殊な信仰内容あるいは逸脱が、テキストに反映したということであって、異なる写本の存在を過大評価していると思う。むしろ、大部分が一致することの頑固さを評価するべきではないか。
先日、あるブログに「人生」が足りないとコメントしたらブロッガーに叱られた。確かに、そんなことを人に言ってはいけないから、私も反省して謝った。そのとき実は、私の頭には life という言葉があったのだが、「人生」なんて言ってしまった。Life は日常的な生き様、生活、また命という意味もあり、それらの総決算としての生涯という意味もある。その中でも、現在の日常生活と、それまで送ってきた人生は、あらゆる面で人の考え方や好みに影響を及ぼしていると感じた。
いつも言うように、私は疑り深い性格で、人に指示されるよりは自分で納得しなければ動かない。しかし、鼻から疑うことも稀である。まずは人の言うことを聞いて、次に自分で確かめるのであって、聞くよりも前に反対することはなるべく避けようと思っている。私の祖先の個人的な言い伝え(いつか書くこともあるかも知れないが今は内緒)なども含めて、伝承や伝統は種々のノイズに絡まってはいても、意外に真実を運んでいるものだ。聖書本文一つを取っても、まず何を言おうとしているのか耳を傾ける態度と、どうせ歪められて今に至った本文さ、というのでは、両者は話にもならない。
しかし、何事にも反対しなければならない全共闘以来のインテリ若者が今なお日本にいるように、聖書の歴史でも Marcion らがしたように、今なおチセイ(漢字は適当に)派学者がハンターイと叫んでいるのであります。やっぱり、黙示録の脅しなんか、効かないか。あれれっ . . . 。
1 Comments:
年寄りの土着民の言ふことだから、古くからのものだと云ふこともないさうです。飛行機を見た南洋の島の人がそれを昔の大きな鳥の話とすることもあるさうですから。
習慣や流行は意外に早く伝播するもので、却つて周辺の方がその影響が強かつたりします。
パルメニデスにインド思想の影響が感じられたり、プラトンがエジプト的であつたりする訳です。(ギリシア美術にはオリエント様式と云ふ明確な時代様式区分があるので一時は圧倒的な影響を受けたことは慥かですが。)
その過程で当然語句の意味内容が変化することはあるのでせう。
前にイエスのはぐらかす言動について文句を言ひました。対象言語とメタ言語の相違を故意に混乱させてゐるやうに思ふからです。
(ペテロのクレタ人の嘘つきの話も、突然出てくるのですが、どんな必然があつてそこに置かれてゐるのでせうか?単なる枕詞?それとも誤記でせうか?)
「カエサルのものはカエサルに」と云ふのも良く分りません。
デナリア銀貨に皇帝の顔が刻印されてゐて、銀貨は兵士の給料や褒章として皇帝から与へられるものだから元々皇帝のものだと云ふだけのことでせうか。それとも宗教とお金とは関係ないと云ふことを仄めかしたのでせうか?
当時のコンテクストに戻して意味を取るのか?
後代の読者の方が著者の意図をより正しく理解出来るのか?
また大学教授の資格を厳密にすることと医師免許の定期更新は必要だと思ひます。
法曹界も同様かも知れません。
当分沈黙しようと思つたのに、またつまらない話題で申し訳ない!
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