A White Paper on the Faculty of Letters, University of Tokyo
ある東京大学文学部白書
ある白書とは小谷野敦のブログ『猫を償うに猫をもってせよ』の8月17日付けの記事「東大文学部白書」のことだ。 私の二つ前の記事「日本の道化と馬鹿さ加減」の続きになるが、馬鹿さ加減がなかなかよろしいので紹介する。なお、私の記事は小谷野氏のブログと違い、自由なコメントを受け付けているので読者の感想も合わせお読みいただければありがたい。
本日、ある友人から、お前のブログは硬派から軟派までいろいろあって、そのギャップが不思議と言われた。そういえば宗教学者の川瀬貴也氏などは硬派のブログ『川瀬のみやこ物語』と軟派のブログ『美徳の不幸』を使い分けている。新約学者の Mark Goodacre 氏も最近になって軟派版 "Mark Goodacre's Personal Blog" を立ち上げて、例えば、質問紙法で自分のフェミニスト度を測ったりする多少の馬鹿をやっている。因みに、彼のフェミニスト度は94%、私もやってみたが86%だった。お陰で、彼も私もフェミニストであるとのお墨付きをいただいたが、二人とも多分男だろうと判断された。つまり、彼も私も回答者として男であることがばれてしまったのである。なぜだって?フェミニスト度100%ではなかったからさ。
今回の内容は軟派に入るが、今のところ私は、硬軟別々のブログを作るつもりはない。硬軟双方、また日英両語取り混ぜて同じブログでゆきたいと思っている。それにしても間もなく一年なので内容を分類した索引ぐらいは作らないといけないのかな、などと思っている。しかし、こんなことに余り時間をとっていると、ときどき自分自身も道化に見えてくる。
閑話休題。話を元に戻そう。しかし、話を元に戻したところで、先に小谷野氏のブログを見ていただければ(←なんとなく宣伝している)大筋がわかる人にはわかるので、私は何も書かずここで終わっていいのだが、少しだけコメントしておこう。実は、「日本の道化と馬鹿さ加減」の中で履歴書(業績目録)の見方があると書いたが、そのことと関連する。
この小谷野氏が8月8日付け「タクシー協会」のところで、東大を出ていないとバカだ、と言っているのは、実はタクシー協会の人や一般の人に向けて言っているのではない。小谷野氏が大阪大学に勤めているときに意地悪したW氏や『rento の日記』という、これまた趣味のよろしくないブログをやっている東大英文科教授の大橋洋一氏(法学者の同姓同名は別人)を揶揄しているのである。どういうことか。この二人は東大の大学院では学んでいるが、東大の学部出身ではない。W氏は千葉大学、大橋氏は東京教育大学である。対するに、小谷野氏は大学大学院ともに東大である。
数年前から、東京大学は卒業式にガウンを着用するようになったのだが、ここで質問。東大生の間で(密かに)一番価値があると思われているのは、博士のガウン、修士のガウン、学士のガウンのうちどれか?正解は学士のガウンである。このことは多少アメリカでも同じで、アイヴィーリーグを出たと威張って言えるのは、大学院のことではなく大学のことである。
今回、小谷野氏の「東大文学部白書」は、直接的には大橋氏を揶揄していると読めば、前回の「タクシー協会」の続編となる。大阪大学でW氏が小谷野氏を苛めている頃、小谷野氏は東大から博士の学位を得ていたのに、W氏は東大からはもらえず、本来の出身大学の千葉大学からなんとかその後もらうことになった。『文学部唯野教授』効果なのか東大の教授にはなったが、大橋氏だけはいまだに博士の学位はない。
それにしても、小谷野氏のブログをクリックした人は、東大文学部の先生たちは意外と博士が少ないのに驚いたのではなかろうか。小谷野氏のこの『白書』によると、選任教員113人中博士の学位所有者は49人であるから43%に過ぎない。理由はいろいろある、昔はあまり博士をくれなかったとか、文学部の専攻によっては取りにくいものがあるとは言うが、余り説得力はない。実際のところ、東大の文学部のレベルは諸外国と比べて余り高いとは思えない。
特に英文学科の教授の研究業績をみると、語学の教師ではあるかもしれないが本当に英文学者かと首を傾げたくなるほどだ。唯一、MITでPh.D.を取ってきた渡邉明准教授の業績は輝いている。一般に、学位論文を書いたことのない者は専門書を書けないと思っていいし、大学院生の指導もまともにできない。大橋氏は実際に、修士論文の指導はするが博士論文の指導実績は上記の資料にはなかった。
文学部に限らないが、東大では学部で入学し、博士を東大ではなく外国で取ってくる者が 優秀と思われているが、私はその者が優秀だからそういう経歴というよりは、東大の教授がろくでもなかったから東大では勉強にならず、外国で本当の修行を経てきて優秀になったのではなかろうかと思っている。外国で学位を得てこなくても、だいたい英文学をやるのに、日本だけですますことができるのかね。そういえば、W氏も大橋氏も留学歴がない。だから、大橋氏など、英語圏の人間なら当然のことを、さも大層なことのようにブログで書いていて、こちらが驚いてしまう。そうそう、小谷野氏は博士を帰国してから東大で取ったにしろ、ちゃんとカナダに留学してるもんね。アンタは偉い!(なんだか、今日は、暴露ものの暴露ものでスマン。)
15 Comments:
僕は小谷野さんの愛読者(本もブログも)ですが、ちょっとこのエントリや8月11日のものは、あまりにも当てこすりとルサンチマンが前面に出ていて、ちょっと鼻白んでしまいました。余り言いたくはないけど、小谷野さんのこういうところがやはり「持てない男」たる所以だな、とは思います。
東大文学部の教授に博士が少ないのは、Waterman先生も指摘するように、一昔前の「大博士主義」というか、30年くらい掛けたライフワークに勲章として授けられるというイメージが最後まで残ったからでしょうね。
でも、敢えて当たり前のことを言いますが、博士号を持っていなくても素晴らしい先生はいらっしゃるし、持っていても・・・という人がいるのは見てれば判ります。
逆に持っているのが若手では当たり前になりつつある今(はばかりながら、僕ももらっています)、「あの人博士号持っているくせに」といわれないよう、身を処したいです。
川瀬先生
コメント恐縮です。私が私としてまことにお恥ずかしいのは、小谷野氏のことを「アンタは偉い!」などとあてこすって、自分が道化(すなわち馬鹿)になっていることですが、ちょっとした動機がありました。言い訳になりますが、二つあります。
まず、阪大での事件です。小谷野氏の言い分が本当なら(話半分としても)、小谷野氏もかわいそうですが、あの場にいた大学の先生たちというのは何が目的で学問教育に当たっていたのだろうか、という疑問というよりは義憤です。
次に、双方向性のないブログです。話半分としても、W氏をはじめ関係の先生方が、この話を聞かされた(=ブログを読まされた)聴衆の前で一言の弁明もできないシステムを小谷野氏は採っている。コメントにレスを出す出さないは、さまざまな事情がありますから問題はないと思いますが、コメントができないブログは少なくとも私にとっては問題だと思いました。この後者のシステムの不備に対抗する社会的措置として(←大袈裟だな)、今回、私のブログで取り上げて(←ごまめの歯軋りにすぎませんが)みたわけです。
たとえ小谷野氏がコメントを受け付けたとしても、大人の先生方は何もおっしゃらないだろうとも思います。しかし、あのブログには、「誉褒 clapping or applause ポイント」を受け付けるボタンはあっても「毀貶booing or displeasure ポイント」を受け付けるボタンがない。そこで、私はなんとか「嫌だ!」という思いを伝えるために道化になってみたのです。小谷野氏だけではなく、あの記事に拍手している読者に向けての抗議でもありました。
どこの国でも、博士の学位などなくても立派な先生方はいらっしゃいます。逆に、博士にはなったがその後の研究はどうなったのかと心配になる人もいます(←ギクッ、私のことです)。また、東大出てようが限りなく(←よくわからない修飾語ですが)バカな方々とも多数付き合ってきました。向かいのおばちゃんのほうがよっぽど賢い。
しかし、これは単なる印象(すなわち科学的ではなく私の狭い経験からの判断)ですが、日本の文系の圧倒的な割合の大学の先生は博士の学位がないだけでなく、同時に本当の専門も持ち合わせていない。確かに、彼らの多くは、有名な大学の卒業生で一般的な学力があり豊かな常識はあるのですが、知識は断片的でまとまりがない。そんな先生をマスコミが持ち上げたりする。
もっとも、偉大な素人のほうが頭でっかちの専門家よりも人類に寄与してきたのかもしれませんが。どうも、書いてるうちにますます変になってきます。これもルサンチマンかもしれません。
MWW
出身大学の名前を誇るのは学者ではなく、俗人です。彼らは(H.カロッサが書いてゐるやうな)自分の住んでゐる家がこの通りで一番重要なものだと誇る小さな子供のやうなもので、家族に支へられてゐるだけで、それ以外自分は無能だと云ふことを本能的に知つてゐるからに過ぎません。
昔のハーヴァードやオックスフォード出身者は古典(語)の知識も従つて教養も充分あること自明でしたが、大学に工学部などと云ふのも平気で作る現代ではどうでせうか?
全く脈絡もない話ですが、
何処かのブロッグで、久保正彰は教授をしてゐたその大学の卒業生だと思つてゐたのですが、卒業してゐないことを知つて驚きました。
彼は途中からハーヴァードにサンスクリット語学を学びに行つたさうですね。
(ハーヴァードの学長も東京に来た時、総長よりも先に逢ひたがつた程の秀才だつたさうです)。
さう云へば現代の代表的なギリシア語文法書を書いたGoodwinもSmythもハーヴァードの先生でした。
現代でギリシア語が一番出来たのはA.J.Toynbeeだとも聞いたことがあります。
まあ、この大学では法学部出身でないと威張れないやうですから仕方ありませんね。
あがるまさん
お久しぶりです。お元気ですか。
出身大学の名前を誇るのは一族で一人だからだそうですよ。兄弟や親、おじ、おばにざらにいれば、どうでもいいそうです。
古典や古典語は教養の一部にすぎないのでしょうが、古典語習得は時間がかかるので大変だとしても、せめて古典は子供たちに読ませたいものです。
久保正彰は、学者というよりは教養課程の語学教師だと思いますが、本当はサンスクリットを学びに行ったとは知りませんでした。久保のハーヴァードの卒論(1953 年、文学士)の題目は The Persians of Aeschylus でした。確かに「優等」で卒業しています。サンスクリットでなく、西洋古典学専攻ですね。
MWW
久しぶりに見たので話の流れが見えなくて!
小谷野さんもWatermanさんも専ら反語的に云つてゐるのでしたね!
加来彰俊以上に久保正彰(優雅な久保夫人は勿論のこと)のファンなので、彼が学者ではなくて語学の専門家に過ぎない、と云はれると少し憤慨しますが、実際に専門家でもないし、論文を読んだこともないので、反論も出来ません。
ハーヴァードでは博士号を取るより卒業する方が困難だとでも云つて置きませう。
あがるまさん
反語的とはどういう意味かわかりませんが、私は小谷野氏とはまったく違うつもりです。傍からは同じように見えますか、それなら仕方がない。
一般に、語学教師と語学学者は違うと思うのですが、久保正彰の場合は明確ではないので前言を撤回します。ごめんなさい。なお、若い学者が語学教師をしていることもしばしばです。
なお、加来先生も若いときはギリシア語とラテン語を教えていましたが、基本的にはギリシア哲学の研究者です。留学経験はありませんが、京都で田中美知太郎にしごかれたので語学力もあるようです。
ハーヴァードの学生も東大の学生も、密かに、学士のガウンのほうが博士のガウンより偉いと思っているということは私がブログに書いたことです。それでもニュアンスは複雑なのですが、基本的にはそうです。
MWW
watermanさんが既に仰つたことでしたね!
しかし久保正彰は実際どんな範疇に入るのでせうか?
日本学士院会員らしいが、
呉茂一のやうな文学者でもないし、高津春繁のやうに言語学者でもない、勿論、斎藤忍随のやうな哲学者でもない。
WillamowitzやRohdeのやうな碩学でも、Nietzscheのやうに色々な方面で影響を与へた訳でもない。
結局古典語の教師と云ふことに落ち着くのかも知れません。
生涯ギムナジウムの教師として過ごした有名な学者も沢山ゐます - ニーチェのPforta校での先生で、彼に影響を与へた、プラトンの翻訳者のやうに(名前を思ひ出せません)。Walter F.OttoやK.Kerenyiも大学教授ではありませんでした。
そうですね。私はよくわかりません。彼の教室にいた人に今度聞いてみます。
ただ、京大に押され気味だった西洋古典を根付かせて荒井献らと盛り上げたことは確かでしょう。この専攻の学生は4年間駒場の教養学部にいるわけで、まさにリベラルアーツべったりです。
どうやらここの西洋古典は、初めから、久保がギリシア・ローマの古典、荒井がキリスト教古典と分かれており、この2本立ては今も踏襲されているらしい。キリスト教古典のほうは、京大のキリスト教学(←国立唯一のキリスト教学科)を見据えていたのかもしれませんが、今では東大西洋古典のほうがキリスト教学では京大より本格的だと思います。
彼らが、現代のうわついたキリスト教(もどきの)思想ではなく、古典と聖書をしっかりものにする姿勢がよかったように思います。その意味では、荒井献の力だけではなく、久保正彰の協力があったと思います。
前に書いたと思いますが、私が習ったS先生(アメリカ人)は学位もなければ学者でもありませんが、ギリシア語の素晴らしい先生でした。ある学生が、古代末期のギリシア文をどこからか持ってきて黒板に書いて、「先生、何時頃の誰か答よ」と意地悪したのですが、先生少しも騒がず、逆に、いきなり英語に訳しながら、古代末期の用語の特徴を一々注釈しながら講義しだし、結論として、内容から可能性のある著者を2-3名挙げました。いたずらした学生がビックリ、その中にちゃんとあったのです。人間的にも素晴らしい人で、懐かしく思い出します。
ああ、それからついでですが、(これも書いたかな)、私の指導教官の Scholer 先生ではなく、別のハーヴァード出身の新約学者で、ハーヴァードの(誰か忘れましたが)ギリシア語の先生の仕草の真似が上手な人がいました。猫背が大きな辞書を抱えて長い髪を垂らしながら歩く様子を真似するのです。この先生は、廊下で学生に会うと、名前ではなく、必ず姓にちゃんとMr.を付けて挨拶してくれたそうです。久保先生と比べてどうですか。どうやら今考えてみると、久保先生と面識のある先生の気がしますね。
MWW
初めまして。ノルウェーのユニバーシティカレッジで講師をしております。ギリシャ語のS先生のお話、身に染みました。自分自身、修士号も持たずに今の立場で教えていることに負い目を感じることもあって、先生の恩師のお話には感ずるところ大でした(努力せよと励まされたという意味で)。有難う御座いました。
tengyo 様
光栄です。こちらこそ読んでいただいてありがとうございます。
ノルウェーですか。冬は寒そうですが、素敵な国なのでしょうね。ヨーロッパに行っても、そこまで足を伸ばしたことがありませんので憧れます。
MWW
久保先生の名誉のためにコメントさせていただきます。サンスクリットではなく数学です。直接久保先生に学び、国外で博士号を取った者から見ても、先生はまさしく本物の古典学者です。語学者だなんて、失礼な言い方だと思います。翻訳ばかりしている人が多い中で、今なお現役で独自の研究を進めておられる方です。久保先生を見れば、内外を問わず、博士号というものが、それだけでは空しいものであるということが良くわかります。博士号の有無なんて、そんなミーハーな話題をねちねちとやってる暇があるなら、ご自身がちゃんと研究して頂きたいものです。
anonymous さま
誰に向かっておっしゃったのかわかりませんが、私自身が申し上げたのは西洋古典ということだけで、サンスクリットとは知らなかったと私自身が驚いているではありませんか。
>久保正彰は、学者というよりは教養課程の語学教師だと思いますが、本当はサンスクリットを学びに行ったとは知りませんでした。久保のハーヴァードの卒論(1953 年、文学士)の題目は The Persians of Aeschylus でした。確かに「優等」で卒業しています。サンスクリットでなく、西洋古典学専攻ですね。(私の発言です)
そうですか、初めは数学を学びにゆかれたのですね。それはもともと本筋ではなく私にはどうでもいいことですが、対話としてはお聞きいたしましょう。知らない人のことを話題にしても仕方ありませんし、数学を学びに行ったのかどうか、あなたが久保先生の弟子かどうかも匿名では確かめようもないのです。サンスクリットと聞いて「へーそうですか」と言ったように「へーそうですか」としか言いようがないのです。
教養の語学教師であることは間違いないにしても語学教師であるだけではないことを
>一般に、語学教師と語学学者は違うと思うのですが、久保正彰の場合は明確ではないので前言を撤回します。ごめんなさい。なお、若い学者が語学教師をしていることもしばしばです。(私の発言です)
と断っているではありませんか。だいたい私自身が語学教師でもあります。また私自身
>どこの国でも、博士の学位などなくても立派な先生方はいらっしゃいます。逆に、博士にはなったがその後の研究はどうなったのかと心配になる人もいます(←ギクッ、私のことです)。また、東大出てようが限りなく(←よくわからない修飾語ですが)バカな方々とも多数付き合ってきました。向かいのおばちゃんのほうがよっぽど賢い。
と告白もしています。しかも、この記事をなぜ書いたかの理由を私は丁寧に述べたはずです。(後日談は猫猫先生こと小谷野敦氏とのブログ上での直接対話としてネット上にあります。)
初めは数学を学びに行ったというあなたからの情報は新しいもので感謝ですが、あなたは私に物申すに当たって、テキスト(およびコンテキスト)をきちんとお読みなのかと不思議に思います。西洋古典で学位をお取りなのでしょう。どちらで? 私はきちんとテキストが読めて西洋古典学者と思っておりましたが、日本語は読めないケースもあるでしょうね。
MWW
このような文章がネット上にありました。ご参考までに。
http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2008/02/06chu_manabi_01.html
リンクがうまく言っていないので張り直します。http://bit.ly/cvm0sG
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