Gnostic Theology in Japan
グノーシス主義的な日本の神学
また、こんなことを書いたら怒られることは決まっているのに書いてしまう幼さ。しかし、流石に誰と誰と誰がとは書かない。というか、ほとんど皆がそうだと思っている。日本で聖書学に取り組んだ人以外の神学教師と称するあるいは神学者というものは皆、日本的グノーシス主義の異端ぞろいとみて間違いはない。
ほらほらまた異端て何ですか? いや何、正統異端などという上等な話じゃありませんよ。聖書にまともに取り組んだ敬愛すべき先生方以外は、やたらに哲学に凝って神学に行き着く前に、日本教の頭でキリスト教のまねをしているだけですよ。明治以来の流れを見てみますと、不思議と植村正久の薫陶を受けた学者は真正の神学者のようですが、他は大概いけません。
植村正久は当時はめずらしく海外で学んでこなかった学者というよりは教会指導者だが、彼自身の読書の幅は日本にありながら広く、また東京大学系の後に聖書学者や神学者になった学生・若者に与えた影響は大きい。外国に行かなかった彼が、留学生のもたらした、むしろ生齧りの新神学の危険性を指摘した。ある程度、日本の教会が異端化するのを防いだ彼の功績は大きいと思う。
以上のことは、実は前回の記事に寄せられたあがるまさんからのコメントに答えているうちに、ふと心に浮かんできた感想であり、具体的にどうこうというのではないが本心だ。実際、熊野義孝や石原謙博士は、私と同趣旨のこと、すなわち異教社会日本での擬似キリスト教神学を嘆いていたはずである。
むしろ、一介の牧師や神父に指導された教会員・信徒のほうが純正のキリスト教信仰にあったような気がする。頭のいい哲学的な学者が、自分の間尺に合わせてキリスト教を勝手に解釈してしまったのである。まるでグノーシスがそうしたように。そして、このような人々の弟子・孫弟子が今日本のキリスト教学界に君臨している。
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出版されてすぐにローマ法王であり神学者ラッツィンガーの近著『ナザレのイエス』上巻を紹介したが、デューク大学の Richard B. Hays が短い書評を公表したので紹介する。URLはhttp://www.firstthings.com/article.php3?id_article=6006 である。
法王が言う1950年代からの史的イエスへの関心というのはローマカトリック内部でのことであり、このことがむしろ現在のカトリック学者のプロテスタント学者よりも進んだ研究を導いたというのは、私もすでに書いたことで、むしろ ヘイズ先生は誤解している。すなわち、なまじ啓蒙主義的な研究時代をカトリック学者が経験しなかったため、近代主義からくる幻滅を味わわず、反省期を経た成熟した史的イエス研究からスタートできたということである。これが法王の趣旨である。
さて、この上巻は、どなたにもそれほど問題となる部分が含まれてはいない。むしろ、復活に至る下巻の内容のほうが好奇心をそそられると言っていい。これはヘイズ先生に同感である。
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SBL Reviews 新着書評(ただし、私の個人的関心の範囲のみ、速報としてお知らせします)
William Arnal
The Symbolic Jesus: Historical Scholarship, Judaism and the Construction of Contemporary Identity
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=4685 Reviewed by Milton Moreland
Richard Cassidy
Four Times Peter: Portrayals of Peter in the Four Gospels and at Philippi
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5868 Reviewed by Timothy Wiarda
James H. Charlesworth, editor
Jesus and Archaeology
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5485Reviewed by Jonathan Reed
Steven Holloway, editor
Orientalism, Assyriology and the Bible
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5634 Reviewed by Christopher Hays
J. Maxwell Miller and John H. Hayes
A History of Ancient Israel and Judah
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5555 Reviewed by Kenton Sparks
Jean-Michel Poffet, Daniel Brizemeure, Noël Lacoudre, Émile Puech
Le Rouleau de cuivre de la grotte 3 de Qumran (3Q15): Expertise - Restauration - Epigraphie (2 Volumes)
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=5888Reviewed by Samuel Thomas
Jürgen Zangenberg and Michael Labahn, editors
Christians as a Religious Minority in a Multicultural City: Modes of Interaction and Identity Formation in Early Imperial Rome
http://www.bookreviews.org/bookdetail.asp?TitleId=4530Reviewed by Jonathan Reed
5 Comments:
<なまじ啓蒙主義的な研究時代をカトリック学者が経験しなかったため、近代主義からくる幻滅を味わわず、反省期を経た成熟した史的イエス研究からスタートできたということである。>
これではまるでカトリックには近代主義がなかつたやうですが、ラムネ、ロワジー、クシューなどを持つたフランスのことをお忘れでは!
そのために
<1993年に教皇庁聖書委員会は、教皇レオ13世の聖書回勅Providentissimus Deus発布100周年、ピオ12世の聖書回勅Divino Afflante Spiritu発布50周年を記念して、教理聖省長官J・ラッツィンガー枢機卿の序文をつけて、 『教会における聖書の解釈』という文書を公表した 。http://mikio.wada.catholic.ne.jp/PROV-Deus-N.html>
のでせう?
あがるまさん
ラッツィンガーは、だから教皇庁が後々のことを知ってか知らずかうまく学者を指導してきたと言っているのです。いまだに逸脱したままでまともな研究につけないプロテスタントが多い中、カトリック系の学者が優れた働きをしています。
政治的な動向と神学史上の流れを一緒にしてはいけません。確かに、カトリック国フランスはいつとは限らず常にもめているのです。例えば、私が紹介したラテン語ミサに対してさえ、誤解と中傷を法王に投げかける先鋒は、フランスのごろつきです。
MWW
フランスのユイスマンスはグノーシスを異端扱いするのに 私の記憶では以下の様な内容で述べて
いたと思うのですが正しいのでしょうか。
「グノーシス派が何故異端かといえば、彼等は
(小乗仏教の様に)自己の内面を見詰め続けることにより、自己が神を越えた存在になることを目指したから異端なのである」と。
キリスト教は文学関係でしか接していないのでよく解からないのですがその文学を理解する為には必要なものなので悪戦苦闘しています。
ここで少しでも学ばせて頂ければと思います。
有益なコメントありがとうございます。Huysmans は読んでいないのでわかりませんが、一理あります。
例えば、若いときにアウグスティヌスもかぶれていたマニ教(3世紀にバビロニア生まれのマニが広めた)においては、ゾロアスター教だけでなく、仏教的アイディアが満ちています。ピアスンは、このマニ教もグノーシスの流れの中で捉えています。(ピアスンのAncient Gnoticism, p. 295-313, とくに仏教との関連は p. 297-298 参照)。
MWW
訂正
Gnoticism-->Gnosticism
補足
仏教とは、己の内面に向かう小乗仏教(南伝仏教)のつもりで書きましたが、ピアスンはそこまで詳しくは論じていません。
MWW
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