Unfair Book Fair
不公平な本の流通
本の国際見本市(Book Fair)で最大なのは毎年10月にフランクフルトで開催される Frankfurter Buchmesse (フランクフルターブーフメッセ)であろう。今年も間もなく、今月10-14日の日程で開かれる。週末に一般の人にも公開されるが、出版人、編集者、作家、学者、報道関係者など、玄人筋しか入れない時間帯が多い。まさに、単なるお祭ではなく、ビジネスミーティングなのだ。しかも、この市場は450年前から続いている。 しかし、かつて編集を生業としていたときは行ったが、行かなくなってから久しいので現状はよくわからない。
最近、内田樹氏と小谷野敦氏のところで学術出版の話題があった。内田氏には「気づくのが遅いぞ」と嫌味のコメントを置いてきたら、今度は「わかったかウォーターマン」などと猫猫先生のブログに書かれてしまった。 両氏とも純粋に学術出版でないものもあるが、概ねは学者の書く本として迎えられるわけだから、まあ「学術出版」でいい。とにかく内田氏は天国の話、小谷野氏は地獄の話をそれぞれのブログで披露している。
学術物というのは売れないものである。売れないものだから単価も高くなる。高いからますます売れない。個人で買ってもらえることはなく、図書館だけが顧客の本も少なくないのである。昨年、本名で出した本などは恥ずかしくて値段など言えないほどだが、学術書評誌に紹介されてからヨーロッパ各地からも徐々に注文が来ていると聞いている。実は、この弱小出版社で出すことになった半年後に、大手の国際出版社から出してみないかとのオファーがあった。データベースで研究の中身を担当の編集者(←博士の学位保有者)が発見し、興味をもったらしい。しかし、時すでに遅く、出版そのものが進行していた。出来上がった本の様子は最高で満足しているから、がっかりしないことにしている。中性紙を使用し本クロスの立派な書籍となった。100年、200年ならゆうに現状を保てる出来である。(←誰も読まなければきれいなままだわな。)
内田氏の所属する神戸女学院大学というところは随分と居心地がよさそうである。なぜなら、所属教員が出した本は、買い上げて教員全員に配ってくれるのだという。まさに「美談」である。そもそも、学術書は、日本では初版2000部程度である。娯楽書とは大違いだ。この部数を普通5年で売り切れたら出版社としては成功である。では、売り切れた場合、再版してくれるかというと、そうはいかない。なぜなら、日本では、出版社の在庫は資産とみなされ税金の対象となる。せっかく売り切ったのに増刷したところでまた売れるという保証はない。いや、絶対売れないだろう。なぜなら、買いそうな大学図書館にはすでに行き渡っているからである。しかも、著者に増刷の印税を払い、印刷所や紙屋(出版社は普通紙を印刷所任せにはせず紙屋から直接買って印刷所に届ける)更に製本所に多額の金を払うことになる。そんな冒険をする出版社などありはしないのだ。
さて、学術出版というものは何冊売れるとコストを回収できるのか。さまざまな条件はあるものの、500冊売れる予想が立てば出版に踏み切るという考えがある。当然、定価は高いものになるが、この場合、初めから個人の顧客を考えていない。更に、話題になり教科書としても使われる可能性が出ると、ペーパーバックとして売り出すから何とかなるという見方もある。アメリカの学術物のペーパーバックは意外に安い。学生が大量に買ってくれるからだ。
学術物の場合、問題なのは高いからコピーで済ますという不届き者だ。今言ったように、アメリカの学生はペーパーバックになった本を買わされる。絶版物の場合は教授が版元に申請してコピーを配っている。随分昔のことなので今でもそうなのかわからないが、東大の院レベルではセミナー用に大量にコピーして学生に配っていたが、あれはよくない。その日のセミナーが終わる頃になると助手が現れて、出席者分の次週の課題図書をコピーして学生に配っていたのである。どさっと。出版する側からすれば言語道断の泥棒行為だ。学生は喜ぶだろうが、その貧乏根性が気に食わん。
すでに述べたように、日本以外の多くは、在庫の本に課税しない。日本の出版社の中には、売れないと已む無くいわゆるゾッキ本として二束三文で古書業者に売り渡したり、猫猫先生のブログにあるように裁断してゴミにしてしまうこともある。学術出版は大変だ。大変なのに使命に燃えて出版を続ける弱小出版社も多い。学者は著書を出してもらうだけでも感謝なのだから、出版社に文句は言わないようにしたい。(やっぱり、学者は金持ちでないと無理か…。)
7 Comments:
学術分野を含めて、書籍にならなかったせいで貴重な文書が散逸してしまったケースが結構あるのでしょうね。書籍というのは数百・数千部単位であちこちに(しかも保存環境の優れた図書館に)バックアップデータを残しておくようなものでしょう。そのうちの一冊でも残っていれば確実に後世へと伝えられていくのですからエライもんです。書籍化以前の原稿ならそれひとつが失われたらもうそれっきりなんですから。その点ではバーチャル書籍(web上に記録しておくテキスト)はそれなりに有用なのかもしれません。
でもですね、実際のところ私なんぞはやはり「本気モード」で読むとなったらやはり書籍(紙)に限ります。その理由の一つは、PC上のテキストというのは固有の特徴がないのでどこに何が書いてあったのかすぐ分からなくなってしまうのです。その点、書籍なら何センチ目くらいのページで見開きページのどのあたりかなんてのを体が覚えてますもの。これはあれです、ええと、英和辞典。あれをひくときに目当ての単語があるページを一発で開けたりするのも(時々ですが)そういう「勘」が働くんでしょう。
やはり紙です。紙!! 書籍はそれ自体がすでに「芸術作品」だと私は思います。もしやそのうち「これだから昭和生れはさぁ(冷笑)」なんてことになるのでありませうか。コワコワ。
そうです。私のように明治生まれは特に、ナンチャッテ。
人によるのでしょうが、多くの人は読んだ本を表紙とか本全体の様子で覚えているのも同じなのではないでしょうか。神田の古書店の人たちは、本の価値をよく知っているものですが、彼らの記憶は本の表紙だそうで、「面(ツラ)」と言っていると教えてもらいました。市場でもツラで探すそうです。
それから、大学院時代テストで必要な人の学説を書くとき、自然と読んだ本のツラが浮かんできましたし、求道士様と同じで、該当箇所も本の束のこの辺りと覚えてしまいます。不思議です。
MWW
次のようなご指摘がありました。感謝します。
> jun-jun1965 『本家のほう、コメントが面倒なのでこちらに書きます。誤字ふたつ。「再販」→「再版」「以外と」→「意外と」
あと全体として訂正しますが、学術書でなくても売れなければ断裁処分に変わりはないし、この世に多く出る本のほとんどは、小説であろうがエッセイであろうが人生論であろうが、売れず、再版もされず、断裁されます。売れている本が例外なのですが、初めて本を出す人などは往々にしてその辺を勘違いします。』 (2007/10/05 21:34)
誤字は訂正しました。そのとおりです。出版は大変です。
普通、主要言語で書かれた学術書の発行部数は500部だと聞きました。
世界中の大学図書館がそれだけは確実に買つて呉れるからださうです。
Watermanさんのご本の在庫がなくなつたのも、出版社の営業活動と云ふより、博士論文ならそれだけは確実に捌けるからでせう。
<日本以外の多くは、在庫の本に課税しない。>
と云ふのは本当でせうか、英国やイタリアやドイツで一般の本屋で半値で本を売つてゐるのは(出版社か販売店かの)在庫に税金がかかるからだと思つてゐました。
あがるまさん
多くの国ではと聞いていましたが、間違っているかもしれません。しかし、アメリカでは売れて初めて税の対象になります。ゾッキ本にする他の理由もあります。本以外の品物と同じで、余り売れないでいると金詰りになります。そこで已む無く当座の現金が欲しくて叩き売りということですね。
話は変わりますが、実は、猫猫先生という方にそんなに「正仮名遣い」が好きならば、お前も正仮名で書けばいいだろうと言われました。しかし、読むのは読めても正確に書くのは難しいですね。愛と藍は別だなんて一々覚えなければならないでしょう。あがるまさんは、どうやって覚えたのですか。
MWW
普通には、歴史的仮名遣と云ふのでせうが、藤原定家と契沖では違ふし、私は和歌や俳句も作らなので怪しいものですが辞書を見るしかありません。
歴史的仮名遣を使ふのは、言葉の勉強のためもありますが、語感からそれが相応しいと感ずるからです。
しかし日本語は漢字を使ふ割合が多いので誤魔化せるし、仮名でしか書けない助詞などが問題になるだけででせう。
万葉仮名で書かれた『やまとことば』を引き写したが、そのもとになつた中国語の字音仮名使ひにまで及んだので複雑になつてしまつたのでせう - ちなみに漢文(白文)は中国語ではないので、普通の中国人には分らないさうです。
現代ギリシア語のB(発音はVヴィータ)やスペイン語のBとVの区別などの表現をどうするのか、仮名が表音文字であることを原則にすれば、表意文字が基本の日本人には、意味(語源)が分らなくなりさうです。
あがるまさん
やはりそうですか。私も猫猫先生に「あい」なのか「あゐ」なのか一々辞書を引かなければわからないので大変だと答えました。
それから、「正仮名遣い」という言葉は、その猫猫先生(本名:小谷野敦)から教えてもらいました。しかし、おっしゃる通り、文部科学省の検定を経た教科書などは「歴史的仮名遣い」と教えています。なお、猫猫先生はご自分の著書では「旧仮名遣い」としているようです。そうそう、このコメント欄にJun-Jun1965というハンドルネームがありますね。この方が猫猫の小谷野先生です。
更に、あがるまさんに是非お伝えしようと思っていたのですが、「正仮名遣い」という言葉を使うのは東大比較文学の教授だった小堀桂一郎ですが、この娘さんがあのロンドンの小堀馨子さんなんですよ。日本語ウィキペディアの「小堀桂一郎」に出ています。そう言えば、どちらもKeiが付きますね。どうやら、小堀家は森鴎外の親戚とも言われているようです。この最後の部分は確かではありません。
MWW
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