Die Wahrheit wird euch frei machen.
「真理があなた方を自由にする」 ヨハネ伝8:32
あがるまさんから久しぶりに次のような便りがありましたので、上記のイエスの言葉を、ドイツ語でエントリーにしてみました。ドイツ語にした理由は二つあります。それは、日本の国会図書館の入り口の言葉(http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/shinri.html)とドイツのフライブルク大学第一講義棟西壁の言葉(http://www.freidok.uni-freiburg.de/volltexte/2091/pdf/wahrheit_kg_I.pdf)を比較するため、そして、あがるまさんがドイツにいるからです。以下、><内の斜体の歴史的仮名遣いの文はあがるまさんからの便りです。
>遅くなりましたが、お帰りなさい!
周知のやうに『真理』と云ふ言葉はヨハネ福音書に多出しますね、最後にはピラトはうんざりして、有名な言葉を発しますが、それにイエスは答へない。答へることが出来ないのか、それとも我が真理だと無言で云ふつもりなのか?何かと何かが同一なのが真理と云ふことでせうから、別にイエスではなくとも私も真理だと云ふことになりますが。
思ひついてウエッブ頁上にある前田護郎訳の新約聖書で検索してみると、共観福音書にはマルコ伝に一箇所あるだけ、ロマ書に少しある他に、ヨハネの手紙にも多く使はれてますね。この手紙の著者と書簡の著者は同一人物なのでせうか。<
あがるまさん、ありがとうございます。
来年早々、同じ日に午前(West LA)と午後(Lancaster)ヨハネ伝から説教(実は漫談だったりして)する予定と書いたら、ヨハネ伝とヨハネの手紙(3通あります)に関するお便りです。正直言って苦手なのです。二つ理由があります。まず、ヨハネが特殊であり、その特殊さは、彼の極めて神学的(あるいは哲学的)な内容にあるのですが、これが私の「頭」を悩まします。次に、そのせいかもしれませんが、史的イエスの特殊講義で、ヨハネ伝の権威MMT教授に提出した小論文は、私の神学生生活の中では最悪の出来で、今尚トラウマがあります。(私は、本当に気の小さい男です。)
それはともかく、ピラトの言葉「真理とは何か(ギ Ti estin alêtheia?)」は、確かにヨハネ伝18:38の言葉です。聖書のその先を読んでいただければわかるように、イエスが答える前にピラトが自分で言葉を続けてしまうため、イエスの答はありません。しかし、イエスの答は既にピラトの質問の前に述べられていると言っていいでしょう。イエス自身が真理です(ヨハネ伝14:6)。むしろ、ピラトが何のつもりで「真理とは何か?」と言ったかです。「真理が何だ、何になる!」とイエスを小馬鹿にして言ったのか、深い自省から思わず「確かに、真理とは何であろうか!?」と考え込んだのか、言葉のイントネーションまで文字では伝わらないのでわかりません。しかし、この後のピラトのイエスに好意的な行動をみると、後者なのかと思います。
ヨハネ伝の作者とヨハネの手紙(1~3までありますが)の作者が同一であることは、昔から定説(Papias や Dionysius の証言)です。このことは、このヨハネが十二使徒のヨハネであるかどうかの議論を別にすれば、現代の学者も異論があまりないはずです。特に、ヨハネの手紙第一は、あがるまさんがご指摘のように、用語やそれにまつわる神学思想が共通します。
さて、エントリーのドイツ語は正しくギリシア語本文を訳しています。フライブルク大学第一講義棟西壁のドイツ語 euch(あなた方を)は、まさにギリシア語の hymãs のこと。羽仁五郎の「我らに(ギ hemãs)」とは似て非なるものであり、ここにはイエス不在です。また、たまたまですが、ウェッブ上を見たら、この件に関しては色々と間違った情報があるようです。フライブルク大学第一講義棟なのに、チュービンゲン大学図書館の言葉だとか、珍妙なギリシア語の解説だとか、etc.
14 Comments:
間違ひまで引用して下さり恐縮します。
羽仁吾郎はハイデルベルクで学んだのではなかつたのか?勿論、彼の奥さんがキリスト教徒だと云ふことがなくとも、常識として知つてゐた語句を、アレンジしたのでせう。
フライブルクには渡辺善太が行つてゐた(Husserlの許?)と銀座教会の人から聞いた覚えがあります。木場了本 - 真宗の学者でヘーゲルの宗教哲学の翻訳をなさつた方 - も一緒だつたと。
必要もないのに前田護郎の名前を出したのは、彼の翻訳なら信用出来さうだからですが、後でWatermanさんも(個人的に)ご存知ではないのかと思ひました。
(キリスト教に全く関係のない私も、何処かで見たことがあるやうな気がします)。
彼等の経歴ならWikipediaで簡単に分りさうですが、エントリーもありません。
肝心のピラトのことですが、ニーチェでなくとも、新約聖書の登場人物で一番立派で清々しい人物だと思ふのでは?
aletheiaと云ふ言葉は、現代ギリシア語でも『本当に、実際に』と云ふ強調の意味で使はれますが、ロゴス先在説と同様に現実から切り離された真理、或いは認識論的『真理』と云ふ意味では当時でも使はれなかつたことは慥かでせう。それでピラトはイエスにそんな教養があるのか、
或いは聖書の登場人物の中では一番ギリシア的教養のあつたと思はれるこの人にもこの言葉が珍しかつたから、質問したのではないのかと思ふのですが。
またここには、その間に何か行為があつたか、文章が失はれたやうな、不自然な中断があることも感ぜられます。
いやいや、あがるまさんのでいいのです。羽仁は政治的左翼で非キリスト教徒、前田は昔とても有名だった日本の新約学者です。前田は Mayeda で、Das Leben-Jesu-Fragment Papyrus Egerton 2 und seine Stellung in der urchristlichen Literaturgeschichte で世界的に有名になりましたが、そろそろ引用されることも少なくなりました。
羽仁はまったく関係ありませんが、前田との関係はというと、この人の姪御さんのその旦那さん(ここまで来るとお笑い)と知り合いです。
もう一つ、Between the Scylla and the Charybdis へのコメントに関連することですが、創世記31章にあるヤコブの妻の一人ラケル(レーチェル)が自分の父ラバンの家から盗んだお守りのようなものと思います。
MWW
ヤコブの時代は、まだイクナトン以前で、偶像崇拝の多神教だつたのですね。
『Papyrus Egerton 2』で検索すると専門のHPが出てきました。
研究史では『Mayeda以後』として特徴づけられるくらい画期的なものらしい。
彼がストラスブールのCullmannの許で学位を取つて、その日本語版が『言葉と聖書』と云ふ題名で出版されてゐたことは知つてゐましたが、手に取つたこともありませんでした。
子供の頃何処かで彼を見たことがあるやうで、大柄で、大人しくて如何にも育ちの良い人柄のやうに感じました。教会にも行つたこともないのに、一体何処で見たのか - 覚えてゐません。
ローマの初期帝政時代のコインの写真を見てゐたら、裏面にAVGVSTVS DIVI・Fと刻印されてゐて、このFはfiliusで『神の子アウグストゥス』と云ふことださうです。Evangeliumも軍の勝利を知らせる『喜ばしい知らせ』ださうですから、キリスト教と云ふのは徹底的に世俗的に(或いは戦闘的に)構成された宗教なのかも知れません。
確かに、ラケルの里 Haran は今のシリアとトルコの国境付近で、その地に住む彼女の父ラバンには、いわゆる「アブラハム、イサク、ヤコブ(別名イスラエル)の神」すなわちヤーヴェ(エホバ)一神という考えはないのでしょう。しかも偶像崇拝です。
Papyrus Egerton 2 のホームページとはブレーメン大学有機化学の Wieland Willker 先生のものですね。素人ですがたいしたものです。素人もさまざま、Wikipedia 結構の私の持論そのままの人です。
前田護郎に会っている! あなたは少なくとも20代後半でなければならない!(もっとも、十代後半では絶対ありえないとは思っていましたが。)前田護郎は、私がクリスチャンになる少し前に亡くなりました。東京大学で教えたほか、二つの集会で指導しました。いずれも内村や塚本や矢内原らと同じ無教会系の集まりで(だから、あがるまさんが見たのは教会でなくて当然です)、一つが世田谷経堂のもの(http://members2.tvnet.ne.jp/kishio/annai.htm)他が東大内有志のもの(http://www004.upp.so-net.ne.jp/kawanago/SEIKEN.HTM)です。私は、前田先生が亡くなられてから、少し顔を出したくちです。あがるまさんは東京っ子なのですね。この無教会もまた、素晴らしい「素人」の集まりです。教会屋さんではありません。なお、現在、前田の個人蔵書は立教大学図書館にあります。和書もありますが、彼の5000冊近い洋書は、立教のなかなかの財産のはずです。
皇帝は神の子、福音は軍信ということは、私が福音書を初めて習ったとき(修士レベル)に、Craig A. Evans 先生に初めて聞きました。確かにそのとおりです。ただ、キリスト教との直接の係わり合いは確かめられません。Evans 先生は、例の骨をくわえた犬のまねをする先生です。先日の学会でもお元気でした(まだ若いから)。
あがるまさんのおじいさんは、やはりキリスト教の周辺にいらした方なのでしょうか。なお、前に書いた私の知人の前田護郎関係者は、無教会のクリスチャンですが、本職はWillker 先生みたいに生化学の先生です。聖書の専門家ではありませんが、やはり立派な「素人」で、私は尊敬しています。(それにお世話になってばかりなので。)
利用した聖書は、世田谷集会のHPからでしたが、他を見なかつたので誤解したままでした。
前田はMarburgで学位を取つたのですね。
O.クルマンの翻訳があるので、てつきりその弟子だとばかり。
1980年に亡くなつてゐるなら私はまだ生まれてゐません。誰かと感違ひしてゐるやうです。
そうですか、やはりお若い。ひょっとしたら私がキリスト教徒になった時(1981)のほうが古いかもしれないのですね。
確かに前田が学位を得たのは Marburg ですが、Cullmann 同様、独仏両語自在で、かつ共に「時」に興味がありましたから、よくは知りませんが、なんらかの関係は否定できないと思います。
MWW
あっ、そうそう、渡辺善太のことですが、当時はドイツ語 Mode (流行)をもじって、フライブルク詣などと言っていたそうですね。
MWW
フライブルク大学(哲学部)のモットーの解説を少し読んでみました。座付き哲学者のハイデッガー(やガダマー)の語彙を使つたものでした。apokalypsisはAufdeckungで、真理とは意味(解釈)ではなく同時に意味されるもの(解釈されてあるもの)ださうです。ピラトが真理とは何か?と質問したのは、既に彼も真理に関与してゐるからださうです。
ピラトも馬鹿らしい『ユダヤ人の空騒ぎ』(ゲーテ)には関与したくなかつたでせうに。
前にマルブルクに行つたことはお話しました。レヴィトが回想録で書いてゐたやうに、プロテスタント神学者に占領された偏狭な町と云ふ感じで、町自体も狭いですし、カトリックのフライブルクの方が遥かに大きくて自由な気がします。でもドイツは未だに十分の一税を取つてゐるやうな後進国で何処の町に行つても同じやうだし嫌ですね。俗物で森や林の自然が好きではない私はもう2度と行き度くない!
国立大学に神学部のないフランスとは大違ひです。ストラスブール大学が唯一の例外ださうですが、これはドイツ時代からの負の遺産でせう。
あがるまさん、
丁寧な解説をありがとうございます。今度エントリーでも紹介します。
いわゆるKirchensteuer ですね。10分の1ではないと思いますが(もう少し少ない)、確かに夫がプロテスタント(evangelisch)ならプロテスタントへ、妻がカトリックならカトリックに行きます。だから、国立大学も両方の神学課程がありますね。
しばらく留守にします。 MWW
何故、ドイツ人は福音主義evangelicなどと云ふ欺瞞的な言葉を使ふのでせう、単なる反抗プロテストに過ぎないことが明白になつてゐるのに。
ルサンチマンの塊りのやうな、終末論など必要としない?正教の方が良いですね。
それよりイスラムの方が哲学的には更に良いかも知れませんが。
ギボンが云つてゐるのを読んだことがありますが、(公会議での)議論となるとギリシア語より、ラテン語の方が圧倒的に強かつたので、ギリシア正教はカトリックに負けたさうです。
誰かがそれはギリシア語にはラテン語にある便利なresと云ふ言葉がなかつたからだと云つてゐました。
肝心なことを忘れてゐました、例の
he aletheia eleutherosei humas.
と云ふ言葉が同志社大学のモットーになつてゐると何処かで聞いたのですが、今そのHPを見てもそんなことは書いてありません。
例によつて私の聞き間違ひでせうか?
今、perseusを見てギリシア語を写したのですが、動詞が未来形であることに初めて気づきました。
あがるまさん、
ヨーロッパは今真夜中なので寝ているでしょうね。今帰ってきて夕食を済ましたところです。
プロテスタントというのに誇りを抱く人とマイナスイメージを抱く人がいるようです。確かに、ドイツのプロテスタント神学部は evangelisch で福音的という言葉を選んでいます。実は私はプロテスタントの出なのですが、初期キリスト教をやればやるほど、カトリックや正教にひかれています。ルッターの聖書に帰るとか、万人祭司の思想はまだしも、カルヴァンなどの極端主義になると、すでに啓蒙主義的「熱狂主義」の匂いがする気がしています。
ギボンの「ローマ史」にある言葉ですか?知りませんでした。
そうです。未来形三人称単数です。しかし、私も確認しましたが、日本語訳は直説法三人称単数みたいに訳していますね(つまり、「あなた方を自由にする」)。英語訳はたいてい "will set you free" ですから未来にしています。ただ、現代ギリシア語はわかりませんが、古代ギリシア語の場合、英語やドイツ語の tense 時制というよりは aspect 態様であり、日本語訳が間違いとは言い切れません。日本語の過去形なども、英語の過去 というよりギリシア語の aorist ではないかと思えるものもあるからです。
同志社のことはわかりません。それよりも、近頃の同志社大学の神学部は、ドウシチャッタんでしょうね。神学部らしくない。
MWW
現代ギリシア語ではどうするのだつたか?
特別な形はなく、tha(無変化) の後に動詞の現在形(持続的)かアオリスト(瞬間的)をつけて様相を表すやうです。
thaはtheloから來るので意思的なニュアンスが入るのだと思ひます。
Gnomic Futurと云つて一般的真理を語るさうですが、それなら格言のやうに現在形にしても同じですね。英訳でwillは意志も含むのでせうか?
前田訳では『あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にしよう』と2つの直説法未来形を別々に訳してゐました。
ドイツ人にもゲーテやニーチェのやうな人もゐます。ニーチェは日本に行きたかつたさうですが、日本には宗教一般に反対するこんな奇特なドイツ人がゐました。http://www.hpo.net/users/hhhptdai/arachnoideenindex.htm
キリスト教神学だけが神学ではないでせう?
Klausnerのやうにユダヤ教の立場からの方が実りが多いでせうし。神を存在者としないイスラム神学の方が更に現代的なのかも知れない。
話者の意思(この場合イエス)を表すわけですから、本来は King James 訳のように "shall" でしょうが、多くは現代米語を反映して "will" としています。
「神学」という言葉は、イスラムでもユダヤ教でも何でも使いますから、「キリスト教神学」と特定してから使う人もいます。
MWW
Post a Comment
Subscribe to Post Comments [Atom]
<< Home