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コメントありがとうございます。48時間以上チェックしていなかったのでリリース自体遅れてすみません。対話集みたいになっていますが、新しい訪問者もありますので、それはそれで構わないと思っています。順番通りに簡単ですが、
トマス再び(Sig. Agalma 最新コメント参照)
いつも丁寧な引用のお陰で、その論文見ましたよ。多分、自分の講義ノートをもとに学内誌に載せたのでしょうが、その分よくまとまっていると感心しました。この方のサイトも見ました。博士論文はまだのようですが、そのうち出すのでしょう。真理(veritas)論が専門らしく、アメリカでの楽しそうな遊学(?)の写真も見ました。ご家族を置いての二重生活はたいへんだったでしょうね。
この上枝美典氏の論文の後半の部分ですが、トマスは確かに、人間が頭で神が存在すると「信じる」ことと、神が実際に実在するを「証明する」ことは別だと考えました。その通りです。
当時の普遍論争(個別とは別な「類や種」の存在に関する中世の論争)に即して言えば、アンセルムスは universalia ante rem (事物より前に普遍、rem は res [物]の sg. acc.)と考えるのに対し、トマスは universalia in rebus (事物の中にある普遍、rebus は res の pl. abl.) と考えたのだと思います。
つまり、信仰者にとっては、神は知性のうちに存在して、また事物・事象(res)にも存在することになるのであるが、信仰のない者に、神の存在を自明なものと前提して論証しても意味がないというのがトマスです。心の神は、信仰者にとって realistic であっても、信仰のない者には real ではないというのが、トマスの考えでしょう。
トマス的な人は、実存主義的な信仰でなく、限りある(というかほとんどゼロに近い)人間の知性でやれるだけやってみようとする人たちだと思います。永遠不滅の神の存在証明という、面倒くさくて古臭いテーマより、2000年前の状況を具体的に漁るのが好きなのがトマス的、アリストテレス的な人かもしれません。
ところで上枝氏の面白そうな真理論ですが、Husserl の Catrtesianische Meditationen [デカルト的省察]の末尾の文章を思い出しました。若いときに読んだので諳んじています。アウグスティヌスからの引用です。 Noli foras ire, in te [ipsum] redi; in interiore homine habitat veritas. (外に行かず、汝自身に帰れ。真理は人の内にある。発音はローマ字通り、最後だけヴェリタスと濁らず、ウェリタスと読む。)アウグスティヌスはプラトン的だもんね。
でもフッサールはその中間。おいらも、フッサール的になろうかな。
付録:
上枝氏の論文の中に出てきたKalam cosmological arguments の William Lane Craig という人はちょっと面白いというか変な人で、碌な教職には就かず研究を続けています。最近の宗教哲学概論などでは必ずと言っていいほど言及されることが多くなっています。私自身は、彼の近代主義的な傾向が好きではないのですが、現代の護教家と言われるほど、キリスト教の理論的ディフェンスに熱心な人です。イギリスでは、有名な John Hick の許で哲学で博士号を、ドイツでは、これまた有名な Wolfhart Pannenberg の許で神学で博士号を取っています。まあ、ともかく勉強好き。理論物理学者とだって論争しちゃうんだもんね。彼のウェッブサイトは www.leaderu.com/offices/billcraig です。
もっとも最近の出来事は、前に名前を挙げたことのある新約学者 Bruce M. Metzger の弟子、 Bert D. Ehrman との復活論争です。ちょっとネットで Craig と Erhman と入れてみると幾つか出てくると思います。私自身は、面白くもない論争と考えるのですが、面白いと思う人も多いと思います。
この Ehrman という禿の小父さんは(めっ、人の身体的なことを言っちゃいけない。でも可愛いから。)、これも前に名前を度々挙げた Walter Bauer に今でも心酔している人です。Ehrman は原始キリスト教時代の講義をDVDにして売っていて、なかなか講義も上手です。親分 Metzger と一緒に編集している New Testament Tools and Studies というシリーズは、学生だけでなく、我々にも最初のとっかりとして便利な how-to ものです。このシリーズの19巻目が "Studying the Historical Jesus"。ただし、今から十年前までの状況です。
その後の史的イエスの how-to ものとしては、Sources for Biblical and Theological Study シリーズの10巻目 "The Historical Jesus in Recent Research" などがありますが、こういったものを読んでいく中で、更に自動的に新しい文献に行き着くでしょう。
Suk(k)ot (参照)
仮庵の祭りの打上げですね。もうそろそろ砂漠放浪遊びも飽きるから、シナゴーグに集まって「お疲れ様ー♪」。
Where Were You? (参照)
流石に最後の醜聞を知っていらっしゃる。馬鹿息子を持つと大変ですね。(そういえば、私も馬鹿息子だ。)
モンロー主義を反省したアメリカは、連盟(League)のときとは変わって国連(UN)に積極的に参加しています。しかし、連盟を閉じ、国連を新たに設立した世界の国々の反省は、制裁権をしっかり持たなければ、国際組織は役に立たないということでした。しかし、今ではその反省はどうでしょうか。あの阿軟事務総長は、6か国協議よりも米ー北朝会談をなどと、どこかの不良と同じことを言うノータリンです。 それに、そいつに名誉学位などというトーダイもわかりません。私もノータリンらしいから、誰か教えてください。
アメリカのタカ派の一部は、日本とアメリカが金銭的負担するばかりで、役立たずの国連などいらぬと言いますが、私は国連のそれなりの意義は認めています。ともかく、皆が一堂に会せる場があるだけでもいい。ただし、それを食い物にするような小役人根性の人はいりません。こんどの韓国の方に期待します。なにしろ、国連の事務総長は単なる事務屋ではなく、総理大臣くらいの独立した権限があるのですから。
それにしても、アメリカは宗教を盾に云々という「神話」は根深いのですね。マスコミのせいだなあー。アメリカ国内でも、ABC放送なんかはそんなことばっかりだからなあー。KTLAのHal Fishman のような人を知っててくれたらなあー。(KTLAはLos Angeles の地方局。Hal Fishman は元UCLAの政治学者で、何十年もKTLAのキャスター兼コメンテーター兼エディター。彼の髪は鬘で、ホントは禿なことはみんな知っている。毎晩10時のニュースと彼のコメントは大好きだ。今、十時5分前、テレビをつけるので今日はここまで。)
3 Comments:
どうも少しの違ひが最後には丸で正反対になつてしまふやうですね。
上枝さんの話も私はWatermanさんとは逆の方向で受け取つたのでせう。
存在は何かに偶然につけ加はるものに過ぎません。実体でも性質でもなく純粋な措定positionであり、何かの存在を証明することは無意味ですし、神や一角獣のやうな想像上のものを現実に存在させることは、逆立ちをしても飛び上がつても出来ません。勿論信仰によつてもです。しかも一角獣の化石は見つかる可能性がありますが、神の化石は発見出来ないでせう。
存在である限りの存在(つまり目の前に存在する個物resとしての存在 - それ以外に存在はありません)から出発するので、その生成や消滅を論ずることはアリストテレスにとつてもサルトルにとつても学問(哲学)ではありません。勿論フッセルにとつてもさうでせう。
真理、善、美、一者(存在)などは超範疇transcendentalで、直感的に把握するだけで、有限な人間の分散的diskursivな理性による概念把握は出来ないのですから。
こんな誰でも知つてゐることでも、時々忘れてしまつてとんでもないことを言ひ出す
ことがあるやうです。
しかしアウグスティヌスやデカルトやフィヒテが考へたやうにその関係が自我と対象の(無限な)鏡像・反省reflexion関係ではなくて、端的に同一な存在の両面なのだと云ふことは出来るでせう。そこでは2つの物の関係は透明になりその背後には遡れない極限だからです。
反対でも何でもないと思います。
実念論者にしろ唯名論者にしろ、天才的な人はいい所に目を付けるのですが、後に続く人たちが詭弁論争に終始してスコラ哲学の時代というゴミ溜めにしてしまった。
措定(positio ラ)という言葉を使われましたので、オッカムの代示(suppositio ラ)を例に採りますと、措定された「存在」が議論の中で道に迷ってしまうのは困ります。Aさんの「存在A」とBさんの「存在B」はいつの間にか同床異夢。
ちょっと知ってる人なので宣伝。愛知教育大の渋谷先生は、10年ほど前に京都大学に提出したオッカムの代示に関する研究で学位をとり、今はそのオッカム研究が本になっていると思います。私なんか、「オッカムのかみそり」くらいのフレーズしか使ったことがないのに、渋谷先生は偉いなあー。地味なことをこつこつと。
そうです。孔子のごとく「未だ生を知らず、なんぞ死を知らん」と同じで、あがるまさんの言う「超範疇transcendental」(あるいは超越的なるもの)の神や真善美も大事でしょうが、私は、とりあえずアプローチ可能な範囲での、歴史上のイエスとその時代に取り組むほうが生産的だと思っている打算的な人間です。
多分それも、実念論者の言い分も唯名論者の言い分もそれぞれもっともなように、(あがるまさんの判断を拝借して言い換えると)「同一な<解釈>の両面なのだと云ふことは出来るでせう。」
>そこでは2つの物の関係は透明になりその背後には遡れない極限だからです。
Nice phrase!
混乱したので話しを少し元に戻しませう。
私は、トマスはその学的良心からは神は存在者ensではなく存在者を存在させる原因(存在esse)であると、古代(やアラビア)哲学の伝統に立つものとして当然考へたが(Watermannさんに言はせるとそれは俗論であると云ふことですが)、さうするとキリスト教のドグマに反するので、大衆向けの神学大全には書くことが出来なかつたのだらう、と云つたのです。
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