Sig. Agalma
into the Vague
予想通り対話は続きます
それにしても audience が小さいな
今日は日曜日、朝5時に起きて、まず「あがるま」様のコメントをリリースするとL.A.から125マイル(200 km)東の砂漠の町 Palm Springs に向かいました。Freeway (無料の高速道路)ですから7時過ぎには着きます。用事を済ませ帰ったのは夕方でした。途中にある私と同名の通りに降りて1枚。見えにくかったらクリックオンしてください。拡大します。
まず、私のこのブログは当然ながら、いつも大真面目な内容に終始しているつもりです。そして、「あがるま」様のようなコメントが、私の今後の活動に資すること大であるために、大変感謝しています。今回は、簡単に「あがるま」様の著者・著書リストに若干の補足をして、次のエントリーに繋げて行きたいと考えています。(「あがるま」様よろしくお願いいたします。)
なお、一般の方のために、「あがるま」様がおっしゃった “agalma” についても先に補足しておきたいと思います。ただし、先生からのこの名に対する思い入れは分かりません。いずれご説明があるかと期待しています。
ギリシア語は、大きく分けて古典期のギリシア語、聖書時代のコイネー・ギリシア語、現代ギリシア語に分かれます。私がかつて習ったギリシア語の先生のように、三つともOKのすごい人もいますが、普通は、例えば日本の環境で言えば、哲学の人は古典期、キリスト教学の人はコイネーのギリシア語を習うのだと思います。アメリカの環境なら、キリスト教の人の標準辞典はBDAGと略称で呼ばれるものです。四つのアルファベットは4人の著者のそれぞれの頭文字で、Bはなんとあの私おススメの Walter Bauer です。そして、この辞書には、 “agalma” (発音はアッガラマが近い、以下ギリシア文字はローマ字に書き換えています)は見当たりません。しかし、古典期ギリシア語の標準辞典、例えば今私の手元にある Liddell and Scott と略称される(これも2人の著者の名前)にはちゃんとあります。多分、agallõ(こちらはアガッローと発音)という動詞と関係のある中性名詞です。意味は、「神への捧げもの、神像、偶像、イメージ一般」などです。こういった言葉は、現代の種々の学者や芸術家が、自分の新規性の表現に詰まると使いたがるものの一つかもしれませんが、元々は以上の通りで何でもないことです。
さて、本題です。
学問は一部の特権者のものではないし、キリスト教は一部の変人のものでもありません。学問は適切な指導があれば誰でも効率よく学ぶことができるし、キリスト教は冷め切った現代人にとっても理解あるいは納得可能なアイディアであるというのが、私の大真面目な信念です。(私もトミスト Thomist かもしれませんね。)
まず、Agalma 氏のリストにある人名は全て本物の聖書学分野の学者です。John Dominic Crossan も James M. Robinson もそうです。Crossan や Robinson の学風は私の気に入らない(私は近著で Crossan のテキスト理論の弱点を紙幅を裂いて批判しました)かもしれませんが、彼らは立派な学者です。また、個人的な人柄は愛すべきものを感じます。Crossan の自伝 “A Long Way from Tipperary” (彼の故郷アイルランドからの半生は、小説と考えても面白い)は感動的ですし、彼の著書は10冊ほど買っています。Robinson 先生は地元の学者ですし、彼が引退者ホームに入る頃処分した独文書籍の数冊は今私の本棚にあります。なお、 “Pagan Christs (1903)” の著者は William St. Clair Tisdall です。とりあえず読まなくていいものです。
ただし、私は彼らの本を初めに読む本としては薦めたくありません。(でも、クロッサンの本なんかは売れるんだよナー。安いし、やたら読みやすいし。俺の本なんかいいんだけれど、高いからナー。)以下、Agalma 先生の順に簡単に述べます。
Joseph Klausner (ユダヤ名Yosef Klozner のこと)は昔の人ですが、Agalma 先生の挙げた本でなくて、 “Jesus of Nazareth” (1922年へブル語で書かれたものの英語訳)が今でも重要です。入手が難しいのですが、大学図書館等で借りることはできます。(皆さん、大学人でなくても借りることはできるのですよ。近くの公共図書館に相談してください。ただし、この本も初めのうちに読むものではありません。)
E. P. Sansers の “The Historical Figure of Jesus” は初歩の方にお薦め。手に入りやすく、値段も安く、薄い本ですが、内容は本当にお薦めです。
Richard Elliott Friedman は David Noel Freedman の弟子で(字は違っても、師弟とも同じ発音!)、現在 University of Georgia の教授。初歩の次くらいに読むと面白い。Agalma 先生の挙げた本以外にたくさんあります。
Theissen のものは、Agalma 先生の挙げた本でなく、弟子との共著ですが、 “The Historical Jesus: A Comprehensive Guide (Der historische Jesus: Ein Lehrbuch)” を薦めます。題の通り、大学あるいは修士課程での教科書と考えて結構です。少し、厚くて高いのですが、新刊で購入できます。また、大学図書館は勿論、大きな公共図書館に所蔵していることがあります。
Ernst Benz も多作の学者でしたが、かなり古い。
Bruce M. Metzger はギリシア語本文校訂の委員をしていた学者で多作。元々ギリシア語で新約聖書を読む人向けが多いのですが、ギリシア語など勉強しなくても手ごろなものとして、 “The Bible in Translation: Ancient and English Versions” などがお薦め。入手も楽です。
他に、Agalma 様の気質(と勝手に決めていますが、私の好きな気質ですので)なら、先般紹介したトミスト John P. Meier の3巻本の第1冊目がお薦めです。ただし、この本の中にある彼の史実性(historicity)の基準は鵜呑みにしないでください。こういう方法論的問題があるのだというイントロダクションとしては役に立ちます。また、史的イエス論に使われる基本古代資料の説明なども大変有益で、本格的入門書として強く薦めたいと思います。
今回はここまでといたします。新しい読者からのご質問もお気軽にどうぞ。繰り返しますが、私は誰かをクリスチャンに無理に改宗させようと考えているのではなく、この分野の本当の研究状況あるいは学問をなるべく開かれたものにと、大真面目で考えているだけです。勿論、私の能力の範囲でのことですから、手に負えなくなったら別の先生もご紹介します。(英語版で、カトリックの学者ですが、Edward Lynn Bode 先生が私と同じようなことをしています。)
最近は地元アメリカからのアクセスも確認できるようですので、関連ブログを別に開設して、「日英両語で聖書を読む会」なども始めたいと思っています。こちらも取り敢えずは布教活動ではないので、会場費などはお互いに負担することで始められたらと大真面目に考えています。
Agalma 様は、こちら Los Angeles の地元では無理でしょうが、どうぞこのブログで対話を続けてくださいますようお願い申し上げます。
予想通り対話は続きます
それにしても audience が小さいな
今日は日曜日、朝5時に起きて、まず「あがるま」様のコメントをリリースするとL.A.から125マイル(200 km)東の砂漠の町 Palm Springs に向かいました。Freeway (無料の高速道路)ですから7時過ぎには着きます。用事を済ませ帰ったのは夕方でした。途中にある私と同名の通りに降りて1枚。見えにくかったらクリックオンしてください。拡大します。
まず、私のこのブログは当然ながら、いつも大真面目な内容に終始しているつもりです。そして、「あがるま」様のようなコメントが、私の今後の活動に資すること大であるために、大変感謝しています。今回は、簡単に「あがるま」様の著者・著書リストに若干の補足をして、次のエントリーに繋げて行きたいと考えています。(「あがるま」様よろしくお願いいたします。)
なお、一般の方のために、「あがるま」様がおっしゃった “agalma” についても先に補足しておきたいと思います。ただし、先生からのこの名に対する思い入れは分かりません。いずれご説明があるかと期待しています。
ギリシア語は、大きく分けて古典期のギリシア語、聖書時代のコイネー・ギリシア語、現代ギリシア語に分かれます。私がかつて習ったギリシア語の先生のように、三つともOKのすごい人もいますが、普通は、例えば日本の環境で言えば、哲学の人は古典期、キリスト教学の人はコイネーのギリシア語を習うのだと思います。アメリカの環境なら、キリスト教の人の標準辞典はBDAGと略称で呼ばれるものです。四つのアルファベットは4人の著者のそれぞれの頭文字で、Bはなんとあの私おススメの Walter Bauer です。そして、この辞書には、 “agalma” (発音はアッガラマが近い、以下ギリシア文字はローマ字に書き換えています)は見当たりません。しかし、古典期ギリシア語の標準辞典、例えば今私の手元にある Liddell and Scott と略称される(これも2人の著者の名前)にはちゃんとあります。多分、agallõ(こちらはアガッローと発音)という動詞と関係のある中性名詞です。意味は、「神への捧げもの、神像、偶像、イメージ一般」などです。こういった言葉は、現代の種々の学者や芸術家が、自分の新規性の表現に詰まると使いたがるものの一つかもしれませんが、元々は以上の通りで何でもないことです。
さて、本題です。
学問は一部の特権者のものではないし、キリスト教は一部の変人のものでもありません。学問は適切な指導があれば誰でも効率よく学ぶことができるし、キリスト教は冷め切った現代人にとっても理解あるいは納得可能なアイディアであるというのが、私の大真面目な信念です。(私もトミスト Thomist かもしれませんね。)
まず、Agalma 氏のリストにある人名は全て本物の聖書学分野の学者です。John Dominic Crossan も James M. Robinson もそうです。Crossan や Robinson の学風は私の気に入らない(私は近著で Crossan のテキスト理論の弱点を紙幅を裂いて批判しました)かもしれませんが、彼らは立派な学者です。また、個人的な人柄は愛すべきものを感じます。Crossan の自伝 “A Long Way from Tipperary” (彼の故郷アイルランドからの半生は、小説と考えても面白い)は感動的ですし、彼の著書は10冊ほど買っています。Robinson 先生は地元の学者ですし、彼が引退者ホームに入る頃処分した独文書籍の数冊は今私の本棚にあります。なお、 “Pagan Christs (1903)” の著者は William St. Clair Tisdall です。とりあえず読まなくていいものです。
ただし、私は彼らの本を初めに読む本としては薦めたくありません。(でも、クロッサンの本なんかは売れるんだよナー。安いし、やたら読みやすいし。俺の本なんかいいんだけれど、高いからナー。)以下、Agalma 先生の順に簡単に述べます。
Joseph Klausner (ユダヤ名Yosef Klozner のこと)は昔の人ですが、Agalma 先生の挙げた本でなくて、 “Jesus of Nazareth” (1922年へブル語で書かれたものの英語訳)が今でも重要です。入手が難しいのですが、大学図書館等で借りることはできます。(皆さん、大学人でなくても借りることはできるのですよ。近くの公共図書館に相談してください。ただし、この本も初めのうちに読むものではありません。)
E. P. Sansers の “The Historical Figure of Jesus” は初歩の方にお薦め。手に入りやすく、値段も安く、薄い本ですが、内容は本当にお薦めです。
Richard Elliott Friedman は David Noel Freedman の弟子で(字は違っても、師弟とも同じ発音!)、現在 University of Georgia の教授。初歩の次くらいに読むと面白い。Agalma 先生の挙げた本以外にたくさんあります。
Theissen のものは、Agalma 先生の挙げた本でなく、弟子との共著ですが、 “The Historical Jesus: A Comprehensive Guide (Der historische Jesus: Ein Lehrbuch)” を薦めます。題の通り、大学あるいは修士課程での教科書と考えて結構です。少し、厚くて高いのですが、新刊で購入できます。また、大学図書館は勿論、大きな公共図書館に所蔵していることがあります。
Ernst Benz も多作の学者でしたが、かなり古い。
Bruce M. Metzger はギリシア語本文校訂の委員をしていた学者で多作。元々ギリシア語で新約聖書を読む人向けが多いのですが、ギリシア語など勉強しなくても手ごろなものとして、 “The Bible in Translation: Ancient and English Versions” などがお薦め。入手も楽です。
他に、Agalma 様の気質(と勝手に決めていますが、私の好きな気質ですので)なら、先般紹介したトミスト John P. Meier の3巻本の第1冊目がお薦めです。ただし、この本の中にある彼の史実性(historicity)の基準は鵜呑みにしないでください。こういう方法論的問題があるのだというイントロダクションとしては役に立ちます。また、史的イエス論に使われる基本古代資料の説明なども大変有益で、本格的入門書として強く薦めたいと思います。
今回はここまでといたします。新しい読者からのご質問もお気軽にどうぞ。繰り返しますが、私は誰かをクリスチャンに無理に改宗させようと考えているのではなく、この分野の本当の研究状況あるいは学問をなるべく開かれたものにと、大真面目で考えているだけです。勿論、私の能力の範囲でのことですから、手に負えなくなったら別の先生もご紹介します。(英語版で、カトリックの学者ですが、Edward Lynn Bode 先生が私と同じようなことをしています。)
最近は地元アメリカからのアクセスも確認できるようですので、関連ブログを別に開設して、「日英両語で聖書を読む会」なども始めたいと思っています。こちらも取り敢えずは布教活動ではないので、会場費などはお互いに負担することで始められたらと大真面目に考えています。
Agalma 様は、こちら Los Angeles の地元では無理でしょうが、どうぞこのブログで対話を続けてくださいますようお願い申し上げます。
20 Comments:
古典ギリシア語、コイネー、現代ギリシア語(ディモティキ)と云ふ区別があると云ふのは、根拠がありません。文法的に簡単になつたり、分詞構文が多用されなくなつたり、トルコ語系の言葉が入つて来りする程度のことで、ギリシア語は古代から現代まで全く同一の言語が続いてゐるのです。
特に異なると思はれてゐる現代ギリシア語の発音も、既にビザンチン時代からのものですから伝統的発音であり古典ギリシア語もそのやうに発音されるべきだと思ひます。(ラテン語もヴァチカン風に発音されるべきでせう。)
アーガルマと云ふのは現代ギリシア語では彫像と云ふ意味で普通使はれます。ギリシア語で一番美しい言葉だと思ひます。古典ギリシア語やコイネーでは神殿への奉納物と云ふのが一般的な意味ですが、聖書ギリシア語辞典に出て来ない理由は知りません。
最初のアルファにアクセントがあるので(現代ギリシア語でも)それを延ばすだけのはずですが、何故Watermanさんの仰るやうな発音にあうのか分りません。
長いですがホイジンガの『ホモ・ルーデンス』10章の最後の節から引用します。
『つまりこの語の根源的意味は、装飾、見世物、貴重なもの、と云ふことである。我々がそれに喜びを感ずるものである。「夜のアガルマ」と云へば星々のことを云ふ。・・・ギリシア人が、神に捧げられた藝術の本質を、このアーガルマと云ふ悦ばしい高揚の領域から発した言葉で最も良く表現してゐるとするならば、我々はこの言葉を知ることによつて、古代祭祀にまことに典型的であるやうに見える奉献の遊びの雰囲気に近づいたのではないだらうか。』(中公文庫、344頁以下)
蛇足ながらJ.ラカンは欲望の原因で決して対象化され得ない『対象a』をアーガルマと呼んでゐるさうですね。
Sig. Agalma,
ところで、Agalma さんは男性でいいですね。ギリシア語 agalma への思い入れを書いてくださってありがとう。若い(のですよね?)時には、そういった思い入れが自分を成長させる原動力のような気がします。
その通り、日本語もそうですが、どこでどう変わったかなど言えないのです。ただ、ギリシア語を正規の学校で習う際、三つに大別するのは常識です。外来語などは今でもどんどん入るでしょう。
発音もしかり。特に実際は一部の社会を除けば死に絶えたラテン語も(中世の日本語だって)本当の発音など分からない。ヴァティカン風の発音というのも授業で聞きましたが、気にすることはない。大体、現代の英語だって地域によって違うのです。
アーガ「ル」マと伸ばすかアッガ「ラ」マと発音するかですが、(実はカタカナで書いても仕方がないのですが、)日本人と欧米人が同じように発音しても違って聞こえます。(ルとラにも注目。)ただし、古典ギリシア語を学ぶときに、ギリシア語のアクセントはピッチアクセント(日本語もそうですね)であってストレスアクセント(英語やドイツ語)ではないことを学ぶと同時に、長音と短音を区別することも学びます。Agalma さんのような言い方をするのならアーと伸ばすことも間違いになります(ここは短音)。
どうしてBDAGにはないかというと、この時期には重要な用例がないということに尽きると思います。
Agalma さんの思い入れを読者も読むことができ感謝いたします。また、教えてください。現代ギリシア語も学んでいらっしゃるのですね。私は全く分かりません。看板などの内容が古典・コイネーからの類推で分かる程度です。MWW
現代ギリシア語では、εとηの長短の区別はありません(発音はエとイで違ひますが)、二重母音のэιはιやηと同じ発音(イ)、αιはεと同じです。それは比較的早い時期にさうなつたものだと思ひます。
ギリシア語はラテン語やヘブライ語以上に死語ではなく、現在1千万人以上の人の間で話されてゐる生きた言葉であると云ふことで、英語などの方言の問題とは丸で違ひます。
成程agalmaは中性名詞ですね - ラカンの方が実は気になるのです。
肝心な史的イエス論の方ですが、始めに何を読むべきか教へて戴いて有難うございます。
私の祖父の代では岩波文庫にあるのでW.Boussetの小冊子が広く読まれたやうです。
Sandersの本の裏表紙には同著者のJesus and JudaismについてゐてJ.P.Meierのコメントも載つてゐました。
私の云ふRobertsonは有名なJamesではなく John Mackinnon S.(1856-1933)です。13歳からは学校にも行つたことのない新聞記者でシェークスピアについての本が有名らしい。
勿論イエス伝研究史上の文献ではありませんが、祖父の蔵書にもChristianity and Mythologyと云ふのがありますから、日本でも広く知られてゐたのでせう。
日本ではドレウスは吉本隆明(ご存知ですか?)が有名にしたのです。
Agalma さん、
再び丁寧なコメントをありがとう。
私は、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語を一応修めていますが、ギリシア語が一番得意なのです、実は。現代語の発音を聞いても何も分かりませんが、手書き古文書のレベルから読んでいます。そして、現代ギリシア語は分からないながらも、今の口語ギリシア語では長短母音の発音の区別があいまいであることも聞いてはいます。
Agalma さんが書いてくださった長短は文字そのものが違うのであって、古典やコイネー時代の厳密な長短とも違うのです。例を挙げれば、ara (ギリシア文字で綴るとはアルファ・ロー・アルファ)という単語がありますが、同じ綴りでも、アーラと発音するのとアッラと発音するのでは全く別の意味の言葉になってしまいます。このように学問で使う古典期ギリシア語やコイネーギリシア語では、長短は大事なのです。
近現代の諸学者(似非社会学者や似非心理学者を含む)や芸術家が使う agalma は、古典ギリシア語の「崇める」という意味の動詞 agallõ の受動分詞が名詞化したもの、すなわち「崇められたもの agalma」であり、彼らが現代ギリシア語からこの言葉を持ち出したとは考えられません。私は、現代ギリシア語は知りませんから、ひょっとしたら間違っているかもしれませんが、大体、彼らが現代ギリシア語の口語を知っているはずがありません。彼ら学者の、例えば Huizinga の、ギリシア語知識は古典が基本なのです。
書き間違ってはいけません。Agalma さんはRobinson と書いたのであって、Robertson ではありませんよ。(どうりで時代が合わなかった訳だ。)
Jacque Lacan は既にお気付きでしょうが、私の関心の埒外です。Do not dump Dr. Waterman into the vague! 私は、私の関心というものを限定しています。人生は一度限りですから、若いときのようにあれもこれもだと、何もまとまりません。ご自分で調べたら、逆に私たちに教えてください。
私は、Agalma さんを私より若い人と思って申し上げます。かなりズケズケと個人的な問題にまで入るようで申し訳ないのですが、どちらかと言うと頭のよい若い人に多いことでもあるので、私のブログに協力するつもりで我慢してください。
その前に、あなたには素晴らしい Grandfather がいらっしゃるのですね。大変な知識人だと思います。そして、あなたはその血筋を引いていらっしゃる。残した蔵書を通して今もお孫さんであるあなたと対話している。心から素晴らしいと思います。
多分、Agalma (「あがるま」とするほうがいいのでしょうか?)さんは、今自分の道を探している真っ只中。聡明な頭脳で関心の幅も広い。しかし、その関心が往々にして marginal な、つまり周辺的な方向に向かいがちな気がします。
それこそ、John P. Meier の史的イエス研究のように、つまり、あのナザレのイエスがそうだったように、あの当時のイスラエルでイエス自身も確かに marginal man (周辺人、あるいは偏屈者)でしたから、Agalma さんの周辺(あるいは subculture)好みを全て否定する訳ではありません。私自身、大好きでした。今でもある意味では好きです。私の名前はマークですが、日本にいた高校の頃、共産主義とMarx に入れあげて、漢字の当て字で「マルクス」と教科書に署名していたことを思い出します。ただ、歴史的かなづかいで通すという趣味はありませんでした。(ところで、中公文庫からの引用というのが歴史的かなづかいでしたが、文庫は本当に歴史的かなづかいですか?)
しかし、今になってみると、二つのことが言えることに気がつきました。一つは、さまざまな周辺的な知識は、まあまあその後の役には立っているので無駄ではなかったということ。二つ目は、もう少し早く(学問であれ技術であれ)本道に取り組んでいればなあ、という取り返しのつかない反省です。
進む本道によっては、時を逸することもあります。人生は一度きりですから、関心を広げることも大事ですが、そろそろ収束するために籠もる時期がきているのではないでしょうか。Agalma さんの才能なら、何でもできるのでしょうが、「頭が良くても賢くない」こともあります。ここは賢明に自分の将来を絞り、混沌やカオスの中ではなく一歩ずつ確かな道を行くのが先のような気がします。
絞りきれないときは、働きながらでも、もう一度、何かの学校、大学、あるいは大学院に入り直すのも手のように思います。脇目もふらずとにかく自分の入った学校の中で一番になることです。その先に想像以上の未来が待っていることもあります。
古典語一つを取っても、自分で学ぶのは努力の割に成果が上がりません。学校教育の良いところは、(周辺の前に中心を)偏りなく学べることです。学校は、弱い人間同士が協力して蓄積したものを、次代の人間が少しでも強くなれるように提供する場だと思います。
どうやら、勘違いのことを書いたのかもしれませんが、これは Agalma さんのためというよりも、ひょっとして誰か読んでくださるためのものですから、そのつもりでお許しください。私は、心からあなたとの対話を喜んでおります。もう一度言います。これは説教ではありません。私は、あなたのこのブログへの来訪が嬉しい。純粋なあなたの心が見えるからです。
Mark
関本至『現代ギリシア語文法』には
「1)古代語にあつた母音の長短の区別はなくなつた。現代語ではアクセントのある母音が(とくに語頭と語中で)やや長めに発音されるだけである。2)古代の二重母音はすべて短母音に変つた」とあります。
Agalma さん、
コメントが後先逆になってすみません。
そうなんでしょうね。ほとんどの日本人が、NHKアナウンサーの発音ができないことと同じなのでしょう。しかし、古典語やコイネー語では、書き言葉ですから、実際の音が残っていないのに(おかしなことですが)、音の規則は文章を正しく読むために残ったのです。
そういった古典学のギリシア語とは別に、今の生きたギリシア語がある訳ですね。面白いのは、古典ギリシア語と現代ギリシア語はどちらもアテネ方言(!!)が元だということです。
コイネーは、アレクサンダー大王の時期から中世を経て近代まで長い間使われたものです。初めは口語でしたが、そのうち文語になってしまいました。多くの言語の変遷と同じです。イエスの時代に最も広範囲に(地中海全域)通じる言葉なので、新約聖書はコイネーで書かれたのです。
また、エジプトのアレクサンドリアでは、ギリシア語は分かるが、もはやヘブル語では聖書を読めないユダヤ人のためにコイネーに訳された律法の書(キリスト教徒の言う旧約聖書)が七十人訳と言われるものです。この時代は、エジプトはおろか、パウロの生まれた現在のトルコもコイネーを話していたのです。
ところで、古代3語のうち、そのまま話しているのが現代へブル語です。これは一種の復活言語ですから、現代へブル語を読めれば、古典へブル語も読めます(しかし、旧約聖書には純粋へブル語ではないものも入っているので、実際は厄介です。)
ラテン語はそれぞれの国特有の発音で教えていると私のラテン語の先生に聞きました。彼は、比較言語学者でもありましたから、本当でしょう。正に死語ですからね。そして、例えば circa という単語はご存知ですね。英語でもそのままか、ca. と略して「約」とか「おおよそ」という意味のあの言葉です。普通は、ラテン語としては「キルカー」と発音するのですが、ヴァティカンでは「キエルカー」と e 音を c と i の間に挟むと、その先生から学びました。
Agalma さんとの対話のお陰で懐かしく思い出します。
Mark
簡単なことでも中々伝はらないものですね。
注意してゐるつもりですが、思ひついたことをオン・ラインで書いてゐると、誤記・誤読が沢山あるやうです。
周辺心理学的に云へば、「あがるま」は「agalma」とは違ひますし、それは私の別名でもなく、原理的に意識されることが出来ない中性的な私の関心の対象全体と云ふことになるのでせうか。
借問。
Watermanさんの仰る、トミズム的史的イエス論とはどう云ふ意味なのでせうか。実在論と云ふほどの意味だらうと思つてゐましたが実は良く分らない。
存在する限りの(イエスと云ふ個物の)存在(の様相)を問ふのであり、その生成消滅は問題にしないと云ふことならアリストテレス的と云ふべきでせうし、
トミズムは神は存在(=存在する物)ではなく、存在の根拠だと云ふ立場なのでせうから、少しづれるやうな気がしますが。
家庭教師替りにして申し訳ない!
あがるまさん、
寝ているときと、飛び歩いているときは(時には数日)返事が遅くなるときがあります。また、このサイトはコメントにもモデレーションを掛けているようなので、コメントのリリース自体遅くなりますのでご了承ください。
さて、返事ですが、
少しもかまいません。私が好きでしていることです。
使命というと大袈裟なのですが、田川建三氏(彼のストラスブールでのマルコ伝研究は今でも引用される)流に言えば、せっかく学んだことを自分の狭い社会だけでなく、「こういう時代ですから」(田川氏のウェッブサイトでの言葉)広く還元したいと思っているだけです。
でも私は、厳しいとか意地悪だということで定評のある教師ですから、これもあらかじめご了承ください。
私は、トミ「ズム」的史的イエス論とは言わなかったと思います。トミ「スト」的(Thomistic)史的イエス論なら言ったかもしれません。
その通り。トミズムはトマス・アキナス(こちらでも秋茄子があり、おいしくて大好きです)の思想の系統を指し、アリストテレスの影響が濃いと言われています。
このトミズムは、ローマカトリックの中では一つの主流で、近年に至っても新トミズムとして盛んです(あるいは「でした」)。勿論一枚岩ではなく、Karl Rahner や Bernard Ronergan に代表される超越論的トミズム、Etienne Gilson や Jacques Maritain を代表とする新スコラ学的トミズムなどに分かれます。Rahner や Lonergan のほうがナウイ。
さて、ここで質問。
(問)トマス・アキナス(あるいはアクイナスと発音)の「五つの神の存在証明」を箇条書きにして簡単に説明せよ。
この中にあがるまさんの答があります。
ネットで調べるだけでなく、ちゃんと図書館に出向いてください。
実は、私はそういったこと(神学史と組織神学)を主専攻にしたことになっていますが、今の私の主たる関心ではありません。そして、初めの問題、Thomism vs. Thomist に戻ります。
Thomism を奉ずるものが Thomist な訳には相違ないのですが、私たち神学者の仲間内でやや遊び的に Thomist (より正確には Thomistic)と言うのは、トマス・アキナスの神学を受け継ぐというより、トマス流に理性の納得なしに信じない気性 temperament の人間を指しています。そういう意味で、John P. Meier などは、A Marginal Jew とは違うマタイ伝研究の著書の中で自白(!?)しています。
これも遊びなのですが、古今の有名な神学者の神学の傾向を入れて心理学者が作ったテストをやったことがあります。私も見事に(?)Thomistic に分類されてしまいました。私を含めて、Thomistic な人間は、観念的遊びよりも、モノを直接観察するのが好きなようです。
今回もありがとう!
MWW
その遊びではトミストの他にはどんな分類があるのでせうか?
私はトミストと云ふ曖昧な観念より、トミズムと云ふ哲学史に登録済みの概念を選びます。
神の存在証明は学として原理的に不可能なのですから、まして人間としてのイエスを研究する学問に必要なのでせうか。それこそWatermanの嫌ひな神学になつてしまふのではありませんか?
それでも手許の本を少し見てみました。例の祖父の蔵書の中です。
Q.Huonder,Die Gottesbeweise.1988.
神学大全(I,2,3)からの引用がついてゐます。
安藤孝行『神の存在証明』1980
あとジルソンのLe Thomismeの英訳もありましたが、彼らは勿論ジルソンを読んでゐます。
(因みにTakatsura Andoはオランダの一流出版社からアリストテレスなどについての本を出してゐた世界的な学者です。)
周知の通り、トマスはアンセルムスなどの存在論的(ア・プリオリ)な証明ではなく、アリストテレス風な経験的な証明で、5つの証明を列記しようと思つたのですが、矢張りカントの後では意味がなささうです。
哲学や神学のドグマに経験命題を混在させた、論点先取りの混乱した証明だからです。
安藤のコメントを引用しようとも思ひましたが、長くなるので止めます。
安藤は第6の証明として、神は存在自体でありactus essendiであると云ふ、異端に傾くとしても哲学理論としては一貫してゐた初期の趣旨(存在は存在であると云ふ同語反復的なもの)を付け加へるべきだつたと云つてゐるやうです。
已然としてこれが史的イエス論とどう関係あるのか分りません。
あがるまさん、
今、寝ようとしていたら、あがるまさんからのコメントの到着がメールで入りました。
昔、聖書に興味を持った頃、牧師の話に満足できなくてDrew 大学の旧約学で博士を取った先生が無料で教えてくれるクラスに行ったことがあります。クラスに出ている受講者は、無料だからかそれほど熱心ではなく、私のように宿題をきちんとやってくる人はありませんでした。その先生が、皆の前で私に大きな声で "Faithful student!" と言ってくれたことがありました。
私の「問」というか「宿題」を、私が言ったとおりにしたわけではありませんが、一応下調べをされたことは分かります。"Faithful student!" 勤勉で誠実なコメントです。
まず、初めの質問ですが、Thomist を含め16種類のタイプに分けていたような気がします。一つ一つタイプの説明があって、このタイプを神学グループに例えればThomistといった説明です。これが曖昧かどうかは程度の問題です。Thomism が「哲学に登録済みの概念」などというのも曖昧なものです。
さて、「神の存在証明」ですが、大真面目な議論の終焉は、世界的には戦後すぐに訪れたのではないかと思います。Quirin Huonder の本は、1988年ではなく、1968年に出たのですが、副題はなんと「歴史と宿命(あるいは運命)」です。この本自体それほど厚くもなく、同じ時期に日本でも有名なJ. Moltmann が書いたものは、神学校の教科書にするつもりだったのか、たったの30ページ。安藤孝行の本は知りませんが、1980年というと総まとめのつもりの本なのではないでしょうか。何となく分かります。もっとも彼は、あがるまさんが言うようにハーグに今もある Martinus Nijhoff から英語で2冊の本を出しているはずですが内容は知りません。
余談ですが、当時の Martinus Nijhoff の本は品(印刷と製本の品格)が良かった。Edmund Husserl の全集も初めはこの出版社で1950年に始まったのですよ。今はだめです。
ところで、私はトマスの5つの神の存在証明を自分の言葉で一つ一つ説明してみなさい、と言ったのです。その上でないと、なぜアンセルムスと違うのか、そして「カントの後では意味がなさそう」という意味も曖昧になるのです。これからは、人が書いたものではだめです。何語と何語が読めるのか分かりませんが、ともかく自分で読んで、自分の言葉で書くことが大切になります。
とは言っても、アンセルムス―トマス―カントの流れは、Grandpa の本で掴んだわけですね。本当はもう少しやって欲しかったと思います。とりあえずヒントを上げましょう。Thomas の神の存在証明は、安藤先生のに書いてあるかどうか分かりませんが、Quinque Viae(意味は five ways)と言われます。この五つの道を理解し、自分の言葉で他人に説明できるようになってから、やってみたかったらアンセルムスに戻るかカントに進めばいい。「神学大全」の本文に目を通すためには、前に言ったように図書館に行かなければだめです。ただし、読むのは該当の箇所だけでいい。量は大してない。これはごく簡単な訓練です。
実は、その先の議論を先取りすると、カントが出てきて終りではなく、更に(上記のように)1960年までは大真面目なのです。独断的に言いますが、その後はこの議論は哲学史上・神学史上の意義しか認めない人が増えて来ることになります。古典的・形而上学的神学の終焉?そして、逆に増えたものは何か?逆に増えたものと「史的イエス」はどう関係するのか?
これらは、あがるまさんの前の前のコメントにあった疑問に答える過程ですから、すべて宿題です。ただし、?マークの宿題のほうは頭に入れて置いてもらえればいいのであって、すぐに答はいりません。ゆっくりでいいです。そうしていただくと、お膳立てが整います。お休みなさい。
MWW
Watermanさんの述語に従つただけで、自称トミスト的なWatermanさんはトミズムを信奉しないのでせう。それは勝手ですが、言葉の正しい使ひ方ではありません。
1960年と云ふのはDieter Henrichの存在論的証明についての本が出た年と云ふことでせうか。しかしカントが一番興味を持つた宇宙論的証明は陳腐で誰も興味を持ちません。
私はWatermanさん自身の言葉で確認したいだけで、高校や聖書学校の証明書が欲しい訳ではありません。
図書館に行かなくともネット上で神学大全も哲学大全も見ることが出来ます。
ナイホフ書店は潰れて今では独占企業ベルテルスマン(傘下のKluwer)に吸収されてしまつたやうで残念ですね。価格も廉くて良かつたのに。
What an unfaithful student you are! 何たる親不孝者か。
まあ、いい。ネットの時代、ネット本であろうが図書館の本であろうが、ちょっと見にはかまわないし、それも能力の内。確かに、ラテンのテキストはあるし、その現代語訳もいくつかネット上にあるのだろう。それを利用すればいい。
次は、該当の場所を探し、自分の言葉で説明できなければ、本当の意味で次に進めないのだ。大体私は何の diploma も出せるわけがない。アンセルムス-トマス-カントの図式こそ教科書にあることで、そのレベルに留まりたければそれでいい。(教科書的知識も大事だからという意味。その先は、その人の自由ということ。)
そもそも私は気性的にトミスティックかも知れないが、トマス主義の信奉者という意味でのトミストであるわけがなかろう。
そんなことだから、「カントが一番興味を持った宇宙論的証明」などと訳の分からんことを言うことになる。まず、一番興味を持ったとは、論駁する意味でか、あるいは支持する意味でか?
陳腐で誰も興味を持たないと言うが、カントの理解する宇宙論的証明か、トマスの宇宙論的証明か、その他誰とは言えない一般的な宇宙論的証明のことか?トマスならトマスでどの宇宙論的証明か?
ここで調子を変えて、
誰でもではなくて、今でも陳腐とは思わず、論理学や認識論の分野で(勿論神学としても)取り組んでいる人はいます。しかし、あがるまさんのように陳腐と思う人は多いでしょう。ただ、私は陳腐とは思いません。いつも言うことですが、ただ関心の埒外です。また、トマスはやはり陳腐な人ではないとも思います。
私は、あがるまさんの「家庭教師」という言葉を素直に取って、お人よしですから勝手にそのつもりでいます。家内に「いい加減にしなさい!」と怒られつつも家庭教師をやめないのです。
実は、トマスを持ち出さなくても良かったのですが、せっかく貴君が「トミズムは神は存在(=存在する物)ではなく、存在の根拠だと云ふ立場なのでせう」などと言うから、授業の材料にしたのです。(自分で言うのも何だが、私は学生の質問から授業を展開していくのが実にうまいのです。嘘つけっ!ホントホント。)
よくそういうコメントを教科書や研究書と称するもので見ることがあります。その意味では部分的に正しい。しかし、トマスはそんなことを思っていないのは彼の神学から明らかであろうし、彼の5つの神の存在証明の、正にその所で、出エジプト記3章の「私は在って有るもの」(あるいは、「私はある」)の引用が枕となっていることからも、神は存在であると思っていることが明らかです。(ネットでも何でもいいですから、そこも確認してくださいね。)
しかし、本当は、この機会に、実際に「五つの道」を自分でまとめて欲しかったそうすれば、「陳腐」の別の実感がつかめたでしょうし、史的イエスへの道もつかめたでしょう。でも、あがるまさんなりの学びは心から評価します。大体、先生の言ったことなど、後で「ああ、そうか」と分かるもので、そのことは私自身がよく知っていますから、気にしないでください。
Nijhoff という屋号(imprint)は今も存続して出版は継続されています。確かに、大出版社が、優良な imprint と優良雑誌のタイトルを買いあさっています。前に言いましたように、私はその世界にいた人間ですのでよく分かります。本当に残念ですね。小さな出版社頑張れー!!!
今回のコメントも本当にありがとう。実は、大して audience は大きく(多く)ないのですが、コメントのインデックスがないのであなたとのやり取りは目立ちませんから、覗いてすぐ出て行く人もいます。主エントリーで宣伝してかまいませんか。不都合なら連絡してください。
MWW
はい見てますよ!
http://www.corpusthomisticum.org/sth1002.html
[28317] Iª q. 2 a. 3 s. c.
Sed contra est quod dicitur Exodi III, ex persona Dei, ego sum qui sum.
でもこれが神は存在者ではなく存在(actus essendi,actus purus)だとジルソンなどが主張することの根拠です。存在する者ではなく、存在させる力,存在の根拠だと云ふことです。
勿論古代や中世では(つまり本来的には)存在と存在物との区別はなく、神や最高存在は当然存在者で、区別するのが可笑しいのですが。そこがトマスやアリストテレス(或はカント)の苦心するところなのでせう。
弁解するのは嫌なのですが、2人だけで話しをしてゐると、公衆が見向きもしなくなることを懼れるのです。誰も素人がトマスを要約してゐるのを見たくはないでせう(まして添削されるのを)。専門家の要約ならば誰でも安心して訪問出来ます。
ログのコメントなど時間が経てば誰も見なくなるものですから、幾ら宣伝されても結構です。
Faithful student!
非常によろしいし、嬉しく思います。あがるまさんが報告した内容も、私の申し出を承諾したことも。
今晩は時間がないので明日時間を見つけて主エントリーを入れます。実はいつも週末は出かけっぱなしになりますので、場合によっては来週初めになります。その週末の準備にも追われますのでかなりきつい生活なのです。
一言、先に言えば、素人のまとめとか玄人のまとめとか、究極での差はないと思っています。問題は自分のものか、他人のものかです。
こちらでは先生が term paper を受け取るとき、「ありがとう」とか、「おめでとう」と言います。ともかく、ありがとう、そしておめでとう!
(そう言えば、あのサイトの人は、まだ我々の対話の場は知らないようです。そのうち気づいて来るかも知れませんが。まあ、こちらの話題には興味がないか。)
お休みなさい。
Mark
5つの証明が解説つきで掲載されるのかと思つて居りました。
私も9日から一週間くらい留守にします。
次は何時何処から発信出来るやら。
あがるま君
リリースが遅くなって悪かった。旅行中らしいが、どこかで覗いているだろう。
心得違いをしちゃいけない。採点を手伝うTAに減点ポイントを示したり、加算点のピリッと辛いオリジナルな点などの処理を指示することはしても、それこそ教科書にあるような(あるいはネットにあるような)ことを私はしないのだ、
School-phobia の人たちのために、もう少し説明しよう。減点ポイントをすべてクリアし、叙述も正確ならAは取れるが、それはいわゆる「権威」に沿っただけの答案で、独創的な見解を持てるかどうかとは別問題である。ただし、減点ポイントをいくつも外すようでは、独創というよりは独断になってしまう。
なお、Summa Theologica 自体、当時の一流の「教科書」と見ていいだろう。
なるほど教科書だからやさしく、問題にならないやうに書いてある訳ですね。
トマスがはこの民衆版を彼の本音だと思はれては困るのでは?
あがるまさん、
お帰りなさい。
私はやはり「本音」で書いていると思いますが、「本当」のところはわかりません。
WMM
上枝美典と云ふ方の『神の存在論証と理性』
http://muse.hum.fukuoka-u.ac.jp/ueeda/works/existence_of_God_and_reason.pdf
と云ふ論文がありました。
その最後で
「人間が神が存在すると考へるから神が実在しなければならなくなるだけで、それと神が実在することとは別のことだと、トマスは考へてゐる」とあります。
あちこちの blog を読んで、Agalma さんと Dr. Waterman とのやり取りを拾い読みしております。(「拾い読み」だなんて、失礼な言い方をしているかもしれませんが、ごめんなさい。)今回のこの area でのお二人の 19 件にわたるコメントのやり取りは、圧巻ですね。(「悪漢」ではありません。)
私にはまるでわからない高度なお話ですが、この 19 件のコメントを端から端まで読みました。そして、ほとんど何もわからないながらも、お二人のプロ意識に感動しました。
まずは Agalma さんの広範な分野にわたる向学心に感嘆いたします。そして Dr. Waterman の「若いうちはあれもこれも手をつけるとよいが、ある程度の段階に達したら、興味の範囲を限定してプロ意識に徹すべきだ」という趣旨のお話にも感動いたしました。
あらゆる意味でレベルも低いし視野も狭いし洞察力も浅い私ではありますが、私は私に与えられた限られた能力と境遇を生かして、取り組む範囲を限定して、それに全力投球していきたいと思う次第です。
お二人が、このやり取りをほとんど誰も呼んでいないのではないかと仰っていたので、「いや、ここにも読者はいますよ」と言いたかったので、一言だけ書かせていただきました。お二人とも、これからもじゃんじゃん書き続けて下さいね。
南都隆幸
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