Τι εμοι και σοι, γυναι -- O woman, what have you to do with me?
女よ、お前は私と何の関係があるのか。
ヨハネの福音書2章4節で、イエスが母マリアに向かっていう言葉。γυναι (ギュナイと発音)とは、ギリシア語で女性への呼びかけの言葉だが、ギリシア語であろうが(イエスが使ったであろう)アラム語であろうが、自分の母親にいう言い草ではないし、更に「何の関係があるのか」は母親に向かっていう言葉ではない。もともと自分のへそが繋がっていた関係(仲)ではないか。
長い間、更新しなかった。理由は、風邪がいつもの通りこじれて喘息を併発し気力がなく、更に新年からの仕事で時間もなくなったことである。喘息は本当に疲れる。咳をすると肺や筋肉が疲れる。発作に襲われると息がつまり気が遠くなって死ぬかと思うから吸引薬を使う。しかし、薬をを吸引しすぎると薬のせいで疲れる。夜もろくろく眠れない。終日ただボーッとなるのだ。しかし、今日は少し書いてみる。ほんの限られた方々だが、何日も新しい記事がないのでは、その方々に申し訳ないと思う。本当にいつもありがとうございます。
昨日の日曜日は、久しぶりに説教の真似事を二つの教会でさせていただきました。先に西ロスアンジェルスの日系教会で、その後そこから 60 マイル(100 km 弱)離れた軍の町 Lancaster という砂漠に向かいました。どちらもメソディスト系の教会で、プロセッションから礼拝が始まる伝統的な形を守っていますが、教会員や牧師の意識はかなり革新的でした。写真の会堂は Lancaster のもので、大きなパイプオルガンとステンドグラスが印象的です。アメリカ西部の教会としては古いほうで、創立130年になるそうです。West LA の教会にもパイプオルガンはあり、上手に弾いていました。
伝統的な教会の多くは、2007年の昨日の福音書朗読がヨハネ伝2:1-11だったはずです。私も、そこ、すなわちカナの婚礼を説教の題材にするよう指定されていました。水がワインに変わる奇蹟(しるし)の箇所です。さまざまな読み方、説教が可能で、さまざまな教会のさまざまな牧師がさまざまの説教をしたことと思います。私も基本的な筋書きは同じながら、前の教会と後の教会とでは、多少違った形になりました。なにしろ、前と後の教会では、与えられた時間が倍も違うのです。ただ、降誕(イエスの誕生)と公現祭(επιφανεια = epiphaneia イエスの初めての披露目)と初春の喜びを共有できるように、私は(写真のように)正式に博士のガウンを着用、テーマも「新しい時を求める」という前向きのものにまとめました。
この物語は、母子(マリアとイエス)の会話が噛み合っていないのがおかしい。マリアはイエスに助力を請いながらも断られるが、めげずにイエスが助力してくれることを前提にして、召使い達に指示を出す。イエスはイエスで、断っておきながら奇蹟をもって助けてあげる。まったくちぐはぐだし、上掲のイエスの言葉は、子が母親にいう言葉ではない。しかし、伝統的には、イエス(神)の主導権のマリア(人・イスラエル・教会)の要望に対する絶対的優位性の現われと解釈されている。ここでは、マリアは血縁上の母ではなく、霊的な第二のイヴであるから女(ギュナイ)と呼ばれているのであるし、第二のアダムであるイエスと対峙するものであると同時に新しい婚姻の相手でもある。
説教で喜ばれた話がある。どうしてマリアはイエスが来るなり「ぶどう酒がもうありません」と言ったかという話である。古くからある珍妙な解釈だが、マリアは花婿の親類として接客を手伝っていた。そこへ招待客としての自分の大酒飲みの息子が(彼が大酒飲みのことはマタイ伝11:19参照)手持ちの酒も持たずに空手で、しかも招かれていない大勢の弟子達を引き連れてやってきた。怒った母親は、慌てて「酒はもうないから帰れ」と言ったというのだ。子は子で、母親に反抗して「オメーには関係ねー」と言っているという話だ。まことしやかながら、ありえない話だ。
Lancaster の日系人の10人中9人の苗字は西洋人。その子女は従って混血。プロセッションの先導をした女子高生は立派な敬語で日本語を話した。あの辺りに日本語学校はないので、ご家庭で正しい日本語を使わせているのだろう。感心した。
6 Comments:
>伝統的な教会の多くは、2007年の昨日の福音書朗読がヨハネ伝2:1-11だったはずです。
教会での説教は、その日どの部分を朗読するのかおおよそ定められているのですね・・・存じませんでした(誰がどのように定めたのか興味のあるところです)。てっきり説教者の一存で自由にやるものかとばかり思っておりました。
体調を崩されていたとは・・・。どうぞご自愛下さい。
大酒飲みのUBSGWより。
求道士さま、
ありがとうございます。
私は典礼には詳しくなく、「誰がどのように」については、今お答えできません。
おっしゃる通り、今風のプロテスタントのほとんどの教会では、牧師があるいは説教者が朗読箇所を一存で自由に選んでいます。しかし、プロテスタントでも主流派(mainline)といわれる大きな教団では、信仰箇条などの神学的立場は別でも典礼(礼拝等の作法)はカトリック教会や正教会と同じあるいは似通っているものです。歴史的にも、カトリックとプロテスタントは何もかも違うのではなく、イギリスの国教会やドイツのルター系の教会は、ローマ・カトリック教会の典礼形式をそのまま引き継いでいました。
四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)はイエス・キリストの生涯を記していますので、その生涯を1年間の教会の暦に合わせます。ヨハネを除いたマタイ、マルコ、ルカ(この三つを特に共観福音書といいます)は1年の暦に合わせやすいので、A年にマタイ、B年にマルコ、C年にルカを中心に読み、ヨハネはABCすべての年で間に挿入されます。A年とは西暦1、4、7、…年(以降、3で割って1余る年)のこと、B年とは同じく2、5、8、…年(3で割って2余る)、C年が3、6、9、…年(3で割り切れる)のことです。2007年はC年ですからルカ伝の年ですが、公現節はヨハネ伝から読まれています。なお、旧約聖書は、福音書に対応するところが選ばれます。
ただし、このような教会でも、説教そのものは年間朗読箇所を離れて行ってもかまいません。教団によってはそんな自由はないかもしれませんが…。よくわかりません。(隣の家の、あるいは他人の家の食事の習慣が違うのと同じで、行ってみなければよくわかりません。)
MWW
大筋としては
カトリック:厳格><プロテスタント:緩やか
と考えてよろしいのでしょうね。
仏教徒かつ田舎住まいの私にはいまひとつキリスト教が身近な存在ではないものですからかなり粗雑な理解かもしれませんけれど。高校世界史レベルでカトリシズム、プロテスティズム(カトリシズム)のなまえくらいしか知らなかった私も、つい先頃からアメリカ・キリスト教の多様性やキリスト教原理主義(なんだか否定的なニュアンスのこもった言い様にも思えますが)に関心が出てきたもので、時間をみつけて勉強したいと思う今日この頃です。
ご返事ありがとうございます。
求道士さま、
確かに、カトリックの教会では説教した全員がヨハネ伝2:1-11からだったでしょう。その意味では厳格ですが、内容はそれぞれ自由にやっていたと思います。
アメリカ国籍といっても、私は福島県会津の田舎の生まれで、20代で東京に出るまでは東北各地に暮らしましたので、穏やかな田舎のお寺の雰囲気も悪くないと思っています。歴史を積んだ宗教は皆、人の心を引き付けるはずです。
ただ、どんな宗教でも、仰せの通り、原理主義は否定されて当然と思います。どの宗教の内部にも病気のように発生する原理主義とか極端主義は困りものです。個人をまた家庭を破壊し、果ては社会に敵対するテロを引き起こしたりするので、宗教は怖いなどと恐れられますが、宗教そのもののせいではないはずです。
ところで、求道士さまのブロッグで星新一のことを書いていらっしゃいましたが、彼の父親で星一(ほし・はじめ)のことを彼が小説にしたのを読んで興味をもち、少しアメリカにある資料で調べたことがありました。星一は、ニューヨークで新聞社を始め、東京に帰って製薬会社を起こし、今の星薬科大学も創立したお堅い人物ですが、よくあんな面白い小説家を育てたなと感心しました。なお、星一は、南米に行く途中、私の住むロスアンジェルスで客死したそうです。
余計なことを書いてしまいましたが、いつも貴兄のブロッグを読ませていただいて、上記のごとくあれやこれや考えています。ありがとうございました。
MWW
Waterman先生、お久しぶりです。wadoです。
日系の方のあいだでお仕事されてるようなので、日本語でコメントいたします。なにしろ英語よりはずっと得意なので。
>風邪がいつもの通りこじれて喘息を併発し
そうだったんですか。あんまり更新されませんので、心配していました。日本のブログのほうにも書き込みがなく、ご訪問されていない様子だったし。あちこち遠距離を移動されているお話から、ご回復されてると受け取りましたが・・・。
聖書のお話、とても面白いです。宗教と縁の薄い者ですけど、聖書のことは多分、こちらでは一般にごく常識的なことしか知られていないのではと思います。カトリックとプロテスタントが使う聖書は違うということさえ、最近になって知りましたから。そちらでは常識だったんでしょうか。
おれの目からは、いま世界的に宗教が難問を突きつけられているのだと見えます。似たようなことは十字軍とか、世界が膨張していく過程で過去にもいろいろあったかも知れません。ですが、どちらが正しいのかを軍事力で証明してきたようにも見えます。
しかし、いまほど他の権力に頼ることもできずに、宗教と人間の幸福の関係を問われたときはなかったのでは、と考えてみたりもします。これも「グローバリゼーション」のおかげでしょうか。解決には今世紀の100年では足りないかも。でも、次の100年では、人間がもう少しましな世界に生きれるといいですね。そのための今世紀であることを願っています。
Wadoさま
ありがとうございます。ブロッグには訪問していましたよ。これからしばらく大変とお書きなので、Wado様は何かしら忙しいのだと思っていました。また、近頃どんどんおかしくはなっているものの、私の第一言語は日本語ですから、日本語でどうぞ。
カトリックとプロテスタントで聖書が違うというのは、それぞれの国の現代語訳が違うということですが、現在はそれほどでもありません。日本語なら新共同訳(日本聖書協会刊)というのがありますが、共同はカトリックとプロテスタントの共同ということです。この共同訳はまた各国語版がそれぞれの国にあります。
むしろ、プロテスタントの中でもそれぞれの会派が別の訳を作ったり、カトリックの中でも同じことが行われており、多様性はありますが、基本的なことは変わりません。日本語で言えば、プロテスタントの新改訳(日本聖書刊行会刊)が普及していますし、カトリックのフランシスコ会訳も完成したようです。このフランシスコ会訳に60年も携わっているシュナイダー神父は、現在90歳くらいと思いますが、お元気で今尚勉強熱心。私の昨年出た本を日本で真っ先に買ってくださったと聞き感激しました。(只で献本してもよかった。)
日本の面白いのは、部分的ですが、沢山の個人訳があることです。どの国語の訳でも、初めは個人の訳(例えば、ヒエロニムスのラテン語訳、ルッターのドイツ語訳など)ですが、今は衆知を集めたいわゆる委員会訳が普通です。日本人は意外と自己主張が強いようですね。私たちは、自分で訳せても、まず既成の訳を引用し、原語が問題になる部分だけ、自分で訳して議論します。今までの訳は気に入らないから俺が訳して出版するということはあまりありません。
宗教と今後の世界の関係ですが、おっしゃる通り、気がかりです。しかし、本来、宗教同士が争うことはむしろ稀でした。たいてい宗教以外の要素がからまっています。また、宗教戦争は、他の宗教というより、同じ宗教の中の分派間のほうが激しいように思えます。元々中東では、イスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も、同じ町同じ村で仲良く暮らしていたのです。政治的な狂信者が、宗教の名を借りていることを憂います。
小説書いていますか?
MWW
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