Historical Jesus
Quest for the Historical Jesus—Introduction /
Leben-Jesu-Forschung—Einleitung
A Brief Response to Geehrter AGARUMA
あがるま様、9.25 のエントリーへの先生のコメントに対する返事が長くなりましたので、
このまま新しいエントリーとさせていただきます。
あがるま様
コメントありがとうございます。先生のコメントの中の著者目録は、私などの世界とは違って不明なものですから、またお聞かせください。先生は私よりご年配の方ですか。そんな気がしましたので . . . 。
皆様
(じゃ、お前は何歳だと聞かれそうですが、写真から想像していただくとして、今のところ事情があってLCなどにも生年を通知しておりませんので、読者の皆様も悪しからず。年に関係する大学の卒業年、修了年も申し上げません。すみません。)
さて、先生の著者目録の中で、いずれ取り上げなければならないと思われる問題がありましたので、先取りして少し述べさせていただきます。先般、他の日本のキリスト教系ブログで感じたことと共通します。お読みの方で、「あっ、あれか」とお感じの方があれば鋭い!
先生のドレウスとは、戦後すぐに和訳本も出た Arthur Drews(ドイツ語読みでは確かにアルトゥール・ドゥレーウスですが、こちらアメリカではアーサー・ドゥルーズ)のことだと思います。彼はイエス・キリストの歴史上の実在性(史実性 historicity)に疑問を投げかけた一連の本を晩年に出していますが、歴史やキリスト教学の専門家ではなく哲学の教師でした。「史的イエス論研究史―ReimarusからWredeまで」という学位論文で世界的な神学者として二十世紀の初頭に世に躍り出た Albert Schweitzer と親交があったそうです。
(先生はご存知でも読者のために注:この神学者シュヴァイツァーとは、アフリカで活躍した医師シュヴァイツァー博士、またパイプオルガン奏者としても有名な音楽家シュヴァイツァーと同一人物です。なお、同じく有名な聖書学者、Eduard Schweizerは別人であり、血縁でもない。綴りが一字違います。)
あくまでも素人の書いた書物で、長い間忘れられた物と思っていましたが、英語圏でもどうやら信奉者が新たに復刻版を解説付きで出しているようです。多分、スウェーデンの英語と比較言語の元教授Alvar Ellegardという人物が(従って、原始キリスト教史の素人)、老後の手慰みというかお調子こいて、Jesus: One Hundred Years before Christ (Overlook Press, 1998) などを上梓したことと社会情報学的には関連があるかもしれません。
このEllegard(本当の綴りは a の上にÅと同じ小さな丸があるが、文字化けするので Ellegardとした)は、元オックスフォードの教授 Geza Vermes(死海文書の権威でハンガリー系ユダヤ人ですから、元々へブル語等に強い)に大分助けてもらって書いた由。(お茶らけクイズ一つ:EllegardとVermesはどちらが英語がうまいか?答:多分、スウェーデン人のEllegard。)ともかく、同じスウェーデンにはBirger Gerhardssonという本物の学者がいて、今は彼の弟子たちが活躍していますが、彼らは鼻も引っ掛けないでしょうね(マーク先生、また不潔!)
DrewsやEllegardは素人の一般向きの書物と書きましたが、所属する大学の目録を見ましたらどちらも所蔵しています。私も Drewsは今手元にないので図書館に行かなければなりませんが、Ellegard は例のSchweitzerの英訳本(James M. Robinsonの前書付き)の辺りの本棚に置いてあります。(なんだ、お前だって通俗本のEllegard持ってんじゃないか、と言われそうですが、目も通さないで批判しちゃいけないでしょう?もっとも、軽い読み物なので一時間で通読しちゃいましたけど。)
さて、素人・玄人の問題とは別に、(ひょっとしたらキリスト教学の専門家の間でも)「史的イエス論」の理解で、日本と世界では進歩の差があるように感じました。ネット好きの読者なら誰しも知っているWikipediaを例に採ってみよう。日本語版で「史的イエス」を引くと甚だ簡単でしかも半世紀前の研究状況で終わっている。そこで、そのページの横にある英語版とドイツ語版をクリックオンしてみると、日本語版よりは詳しいが、どうも様子がおかしい。さてはっ、と思って英語版で “historical Jesus” を叩くとちゃんとある。実は、これこそ日本語版見出しの「史的イエス」なのだ。ドイツ語版なら “Leben-Jesu-Forschung” を叩くこと。多分、日本語版で英語版やドイツ語版に相関させる人が、内容を知らずに別の所にリンクしたのだろう。
日本語版の「史的イエス」のレベルは、実際の日本の学会の状況と重ならなければよいと念じています。英語版で言う「無研究の時期」とか「第二世代の研究」(ドイツ語版でも同じ)で満足していてはいけません。今は「第三世代」から新しい研究時期にさしかかっている。荒井献氏などの紹介で第三世代に属するドイツの Gerd Theissen(これもエスツェットが正しい綴りだが文字化けするのでssとした)は知られているようだが(アメリカでも超有名)、和訳本がないせいか他の多くの重要な現職の研究者や研究動向は知られていないようだ。
実際、この分野の研究速度は速く、十年前にオックスフォードで一連の「史的イエス研究の流れ」を客員講義した我が師 Dr. B は(念のため断っておくが、私自身はオックスフォードじゃなくて牛小屋大学)、原稿を書き終えるとまた新しい研究を追加するものだからいつまでも本にならない。このグズッ。日本語が読める誰か、先生に告げ口しないでくださいね。彼自身出版の遅れを非常に気にしていてノイローゼになっていますから、本当はかわいそうだと思って、私自身が気が気でならないのです。私の死んだ父さんみたいな人だから(思い出して、グスン (ˇ ˇ;) )。
一言で、この欄を閉じるとすれば、ドレウスは論外ですが、シュヴァイツァー、ディベリウス、ブルトマン、ケーゼマンも、今では非常にナイーヴな先駆者にすぎません。この段階で、すなわち、これを結論として何か判断してはならないと思います。
おまけ:
奥は深い。誰か有能な日本の若者ーっ、この分野の研究をやらないかあー。日本にへんてこなキリスト教が広まらないうちに。
そういえば、田川のおっつぁん(誰だか知ってるね)だって、あのままストラスブールにいれば、今頃すごかっただろうに。日本に帰ったら、研究する環境にないもんね。でも、田川のおっつぁんは好きだよ。(先生にはまだ会ったことないけど、古風な、年に3回しか更新しないブログも読みました。田川先生、お元気で、自分流でご活躍ください。)
5 Comments:
祖父の蔵書を読んだ記憶で書いてゐます。
(読んだことはありませんが、その中に掘一郎の『我が国民間信仰史の研究』と云ふ大著も2冊ありました。)
私の読んだ神学の本と云へば、ニグレンの『アガペとエロス』くらいなものです。(ルンド学派神学も優秀な後裔が輩出してゐるやうですね。)
Edward Carpenterはアナーキストで同性愛論者、他の連中も近代主義者やジャーナリストと云ふことになります。
Watermanさんの云ひ方をすれば、ルナンもB.バウアーもF.オヴァーベックやラガルドもは時代遅れ、グアルディニやラーナー、またパンネンベルクもラチンガーも素人になるのでせう。
専門の本を一般読者が読むことはありさうもないことですが。
さう云へば、ハイデルベルクでマルコ福音書の研究をしてゐる日本人について聞いたことがあります。
早速ご紹介ありがとうございます。Eカーペンターとはやっぱりあちらの方でしたね。そして、言外に、あがるま様はお若い方だと。そうです! Birger Gerhardsson は Lund の教授でした。
誤解のないように「素人」と「過去の玄人」について申し上げます。
カタカナで書いてあり、かつ名前だけですと分かり難いものもあるのですが、Joseph Ernest Renan は、歴史家ではあるかも知れませんが聖書学者と言えるかどうか疑問です。後の人は神学者でも Joseph Ratzinger(今のローマ法王様)やWolfhart Pannenberg を除けば、過去の人でしょう。(B. バウアーはWalter Bauerの書き間違いだと思いますが、ラガルドは誰か私は勉強不足で予想がつきませんでした。)
素人とは、「その道の素人」のことであり、どんな大学者であろうと、専門外の人を指します。
玄人でも、過去の人は「過去の玄人」です。
現在その道の玄人と自称する人が、
過去であろうと現在であろうと素人を素人と見抜けない人は、その人も素人です。
現在その道の玄人と自称する人が、
過去の玄人に心酔しきって無批判でそこに留まり、現在の動向に暗い人は、玄人とは言い切れません。
例えば、あがるま様の取り上げた Bauer ですが、彼の「正統と異端の研究」をセンセーショナルに捉え、単純に、異端のほうが正統より古いから異端が正しい、と考えるのは早計です。三、四世紀(あるいは五世紀)までに正統が結晶化するのはさまざまな異端的分派の発生より後であっても、核となるものは異端よりも古層に入るというのが近頃の理解です。また、教父時代の勉強をしていますと、正統が異端とのせめぎあいの中で自覚的になり結晶化するのが、自分でも分かってくるでしょう。さらに、教会史家 Eusebius が、正統から逆算して異端を記述したとする Bauer の見方に相違して、Eusebius が意外にも正確な史家であったと近年は見られています。
以上のように、一般の方々を問題にしたのではなく、玄人あるいは玄人の卵と自称する人たちが、あきメクラであったり、勉強不足であっては、一般の方々を惑わせると申し上げたいのです。
(自分の勉強不足を棚に上げているかも知れませんが、私の言ったことで討論を望まれる方は歓迎いたします。それなりの根拠で申し上げていますが、私も勉強になりますので、どうぞお気軽に。)
単純に、ヘーゲルの弟子のブルーノ・バウアーのつもりでした。思はぬことからWalter Bauerを教へて戴きました。
挙げた名前はWatermanさんが何処かで言及されてゐた(或は誰でも知つてゐる)からに過ぎません。本名は何と云つたかPaul Anton de Lagarde はFranz Overbeckからの連想です。
学者でも何でもないので一般的なことを云つただけですが、
ある学問のある部門で業績をあげた学者は少なくともその学問全体に通用する知識や見識を持つてゐると思はれてゐます。さうでなければ統一的な一つの学問が成立し得ないでせうから。
寧ろ新しい分野にもその専門的な知見でもつて刺激を与へると期待されるでせう。
またトピックとしてその後発展されなかつたテーマや知見も偉大な学者の作物には蔵されてゐるのではありませんか。特殊な個物が普遍を含むしかないのですから、死んだ犬のやうに扱ふのはどうでせうか?
あがるま様
Paul Anton de Lagarde については、ありがとうございました。それこそ早速ドイツ語版 Wikipedia を覗いてみましたが、とりあえず私の興味の範疇ではありません。新約学者であるFranz Overbeck とのどういう連想か分かりませんが、Overbeck もとりあえず対象とする学者ではないので興味はありません。あがるま様が、「史的イエス」という文脈のなかでどのような方なのか教えてくださるなら別ですが、関係ない学者達のように私には思えます。
あがるま様は、やはりご年配の方に違いありません。Bruno Bauer は Schweitzer のあの本に登場する時代の人です。半世紀前のWalter Bauer の、そのまた百年前の仕事とみていい。例えば Bruno Bauer のヨハネ伝研究は 1844年です。確かに、研究史の人は今でも対象にしますが、実際に今の仕事をしている人は余り念頭にないと思います。
さて、本論です。
>ある学問のある部門で業績をあげた学者は少なくともその学問全体に通用する知識や見識を持つてゐると思はれてゐます。さうでなければ統一的な一つの学問が成立し得ないでせうから。
その通りです。新約学で博士となる人は、新約学だけで博士になったと思うのは大間違いです。頭部外科医が頭部外科学だけを修めればなれるというのが間違っているのと同じです。しかし、新約学に心理学の勉強が必要かというと必要ではありません。同じく、頭部外科医が植物学を必要とするかというとそうではありません。
ですから、学部教養教育的常識として、心理学や植物学を学ぶことを否定しているわけでもないし、自分の新約学に心理学的洞察を加味することを否定しているわけでもありません。しかし、限られた時間と人生で、何が自分の専門ないし召命(天職)に必要か、日常読む書籍や論文を即座に判断できることも玄人の証です。例えば、毎週月曜日の朝、契約している学会から、新刊書の書評がEメールで送られてきます。(便利な時代になったものです。)とりあえず読まなくていい本か、図書館に入った段階で読むか、自分で早速買うかすぐに判断します。こういう生活は一例です。
一般的常識と専門知識の間に、専門的常識というのがあります。分かりやすく言えば(かえって分かりにくいかも知れないが)、アメリカ式に言えば学部学生までの常識が一般常識、修士学生の常識が専門的常識だと思いますが、前者は余りにも広いので、知っているか知らないかは偶さかのものであり、重要ではありません。後者は、専門に入る前の土台のような物で重要です。しかし、その土台も、土台は単なる土台、教科書的なある程度確立された知見を押さえているだけでいい。土台を一生こねくり回していても家は建ちません。
>トピックとしてその後発展されなかつたテーマや知見も偉大な学者の作物には蔵されてゐるのではありませんか
これもおっしゃる通り。
ただし、いきなり宝が出てくることは、どのような学問でも絶対にありえません。現在の研究成果との兼ね合いでの復活知見であり、自然科学であれ(私の元の職業の一つは、医学生物学の専門学術書籍と雑誌の国際出版)、どの分野の学問であれ、現在の研究動向に疎いものが、古いものから再発掘できるはずがない。おっしゃることはロマンティックで夢があり、ときたまそういうこともありますが、泥臭い作業と努力抜きには無理でしょう。
だから、
>死んだ犬のやうに扱ふ
というよりは、先人の学問の作業を正しく利用するために、整理し、優先順位を付けるのです。死んだ犬も捨て置くのではなく、整理して墓に納め、手厚く弔って、時には必要に応じて再訪します。
さて、まとめになりますが、Bauer と聞いて、Bruno Bauer と Walter Bauer のどちらを今のキリスト教学の学生は専門常識として読むべきか。私なら、躊躇なく後者を薦めます。勘違いしてBruno Bauer と思った学生がいたなら、まず Schweitzer の Bruno Bauer の項を読んで、必要があったら読みなさいと言います。そこから、自分の専門を見い出す学生がいるかもしれませんからね。先人がせっかく作ってくれた土台は、土台として利用するべきです。自動車があるのに、自転車で行く必要はありません。死ぬほど暇が有り余ってどうしようもない人とか、健康維持のため自転車主義の人なら別ですが。
もう一度言いますが、以上は、専門家と称する人や、専門家たらんとするキリスト教研究者への意見ですから、極めて限定的なものです。キリスト教研究に対する一般的な興味で書籍を読まれる場合は、全てが自由であり、気の赴くところを読んで楽しまれて結構かと存じます。
あがるま様、このような対話ができることは喜びです。先生と同じように感じていたとして、私の拙いブログに何も言ってくださらない人には、こうして再び説明することもできません。コメントに心から感謝しています。またお願いいたします。
MWW
門外漢にもよく分るやうに解説して下さるので感謝して居ります。
でも史的イエス論とは、現代医学のやうな技術的な問題なのですか?
またカントやヘーゲルが古代から中世の哲学の問題を要領良く纏めて考へて呉れたので、今更そこに戻る必要もないと考へる哲学者がゐないことも慥かでせう。
一角獣に就いての文書や画を集めて整理して置けば、将来その化石が発見された時に何かの役に立つかも知れないのと同じことだとも思へません。
一般には、イエスが如何に受け入れられたかより、イエスが果して実在したのかどうかと云ふことの方がより重要な問題です。しかし、小プリニウスとヨゼフスの不確かな記録しかないとすれば、これは専ら、古代の宗教の継承と心理学の問題ではないでせうか。
余談ですが、最近『兵士シュヴェイクの冒険』と云ふ本(の始めの方)を読みました。無神論者の私も時代に翻弄される純な魂の貴重な証言は感動します。キリスト教徒にとつてはマルコ福音書が多分こんな気持ちにさせるのではないかと想像します。
妄言多謝!
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